長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)2/4

(六章から九章まで) 
六章 もう疑わない! あなたが夢原さん


 夢原さんに連れられ、チェーン店の喫茶店にやって来た。またしてもセルフサービスのお店だ。
「なんか文句あるか」
 向かいに座る夢原さんに怒られた。
 わたしは返事をしない。
 目も合わせない。
 ずっと下を向いている。
「君が落ち込む気持ちもわからないでもない」
 夢原さんが言った。
 まったくの見当違いだ。
 落ち込んでいるわけじゃない。
「どこの馬の骨ともわからんやつのサイン会に並ぶ気持ちもわかる」
 何がわかるっていうんだ。
 無闇矢鱈に現れて!!
 前に会ってから、数時間しか経っていないのに……
 永遠の思い出にしようとしてたのに……
 「君の前に俺が現れてしまったことに関しては、申し訳ないと思っている。なにせ、今まで君が拠り所としてきた夢原。あいつよりもはるかに才能のある人間がここに存在するってことを、はからずも君に知らしめることになってしまったんだからな」
 夢原さんが、咳払いをひとつした。
 そのあと、アイスソイラテの入ったグラスを右手に持ち、足を組みながら横を向いた。
 その動作が、あまりにぎこちなく、「ロボットみたいだ」と思った。
 今度は、わたしが夢原さんのことを見て、夢原さんがわたしを見ない。
「で、どうだった?」
 横を向いたまま、訊いてくる。
「何がですか?」
「何がって、決まってるだろ。手帳に書いてあった大量の詩だ。……いや、もちろん、君に聞かないでも充分わかっている。俺に才能があるってことは俺自身、自覚したくなくても日々自覚させられている」
 わたしはストローから紙をはがし、カフェラテの入ったグラスにさした。
「で、どうなんだ?」
 質問に答えないわたしを夢原さんが見る。
「おい! 君はコーヒーが苦手なはずだろ。なんでカフェラテなんて飲もうとしてるんだ」
 ストローからいっきにカフェラテを吸い込んだ。
 苦い。
 苦しい。
 だけど、負けてなるものか。
 わたしは今、闘っている。
 敵が夢原さんなのか、他の何かなのかはわからないけど、この闘いに勝たないと、わたしはだめになってしまう……
 そんな気がする。
 カフェラテを全部飲み干した。
 夢原さんが、組んでいた足を崩し、椅子の背もたれごと、後ろにのけ反った。
 怯んでいるように見えた。
 だけど、ここからが本当の勝負……
 きっと。
 だから、きっぱりと言う。
 夢原さんの目を見すえ、嘘偽りのない事実を言う。
「読んでません」
「……」
 夢原さんの目が泳いだ。
「なんでだ。それが本当だとしたら、君の数々の奇行、あれはどう説明がつく。死んだような目で入って行った旅行案内所。ティッシュ配りの女性への体当たり。チャラチャラした男との泣きながらの押し問答。つまらない作家のサイン会への参加」
 全部見られていた。
 ということは、紀伊国屋書店でたまたま見つけられたんじゃない!
 ずっと後を付けられてたんだ。
「なんでそんなことをするんですか?」
 夢原さんの目はさらに泳ぎ、目だけでなく首も上下左右にせわしなく動かしている。
 他の席の何人かが、その様子をちらちら見ている。
「たまたまだ。たまたま同じ電車だったんだ。たまたま……たまたま……偶然……だ!!」
「わたし、下りから上りに乗り換えましたよ」
「俺は上り電車に乗るつもりで、ホームで電車を待っていた。そうしたら、先に帰ったはずの君が同じホームにやってきた」
 ……そんなにずっとわたしを付けていたのなら、わたしが一度も手帳を開いていないことは、よく知っているはずだ。
「同じ電車だったけど、同じ車両には乗らなかった」
 夢原さんは、せわしなく動くのをやめ、やっと静止した。
 だけど左斜め下、自分の太ももの辺りという、微妙な位置で視線を固定している。
「目の前で自分の詩を読まれるのは……才能があることが確実な俺であっても……それは正直きつい」
 わたしは足下に置いていたトートバックを膝の上に乗せ、中から夢原さんの手帳を取り出した。
 それをテーブルの上に置き、開く。
 夢原さんが、邪魔しようと手を伸ばしてきた。
「夢原さんは、わたしに読めって言いました」
 夢原さんの手がぴたりと止まる。
「でも、わたしはまだ読んでません。だから今ここで読みます。わたしの後を付いてきたのだって、感想が聞きたかったからじゃないんですか」
 夢原さんがまた左斜め下に視線を戻し、今度は自分の左手人差し指を噛んでいる。
 そんなに歯を立てなくてもというくらい、思いっきり噛んでいる。
 噛んでいた指を口から離した。指には歯形が付いていた。
「わかった。ここで読め。……いや、読んでくれ」
 わたしは夢原さんの手帳に書かれている文字を読み始めた。
 いつまでも夢原さんだと認めない、夢原さんの詩を。
 メモのような走り書きを。
 時間はかかったけど、手帳に書かれているもの全ての文字に目を通した。
 途中、何度も呼吸が荒くなって、深呼吸をした。
 呼吸困難で倒れるかと思った。
 涙が流れ続け、さっきカフェオレを全部飲み干してしまったことを後悔した。
 このままでは体中の水分が無くなってしまうんじゃないかと不安になった。
 だけど、もっと読みたい。
 もっともっと、読みたい。
 次のページを開くと、その先は、まだ何も書かれていない白紙だった。
「すみません。ちょっと、ちょっとだけ待っててもらえませんか。またここに戻りますから」
 涙を拭って席を立ち、店を出て、新宿駅に向かった。
 そして電車に乗って千葉県の自宅に帰った。
 自分の部屋に置いてある、夢原さんの本、夢原さんの本の広告が載った新聞の切り抜き、夢原さんへの思いでほとんど埋まっている日記帳、夢原さんの住んでるバラック想像図や夢原さんの想像似顔絵を描いたスケッチブック、それらすべてを高校の修学旅行以来使ってなかった旅行かばんに詰めた。
 旅行かばんを持って家を出るとき、もう日は暮れかけ、夕飯どきになっていた。
 玄関先で母に「千歳、そんな大荷物を持ってどこに行くの」と聞かれたから、「ちょっとそこまで」と答えた。
 そして、ふたたび新宿に向かった。
 ……お、重い。

 新宿の喫茶店に戻ってきた。
「お待たせしました」
「待たせすぎだ」
 夢原さんの前には、アイスソイラテのグラスの他に、無料で飲める水のコップが三つ置いてあった。中身はどれも空。
 水のコップは三つも使わないで再利用したほうが店員さんのためにいいと思う。
 そう思ってグラスを見ていたら、夢原さんが空のグラスを重ねた。
 アイスソイラテのグラスだけは、形が違うから重ならず、諦めたように手を引っ込めた。
 わたしはその上に、置きっ放しにしていったカフェラテのグラスを重ねた。
「どこまで行ってたんだ」
「すいません。ちょっとそこまで行ってました」
「そこって……。軽く一時間半は待ったぞ」
「なんでそんなに待つんですか」
「それは、君が……」
 ……わたしが?
「俺にとって」
 ……夢原さんにとって?
「最初の読者だからだ。俺は今まで、自分の書いたものを人に見せたことがなかった。見せる相手がいなかった。いるにはいるが、両親に見せても仕方がない」
 ……そうかぁ、わたしが最初だからなんだ。
「失礼だが、君に特別な審美眼があるようには見えない。だけど、初めて人に読んでもらい、感動してもらえた。……少なくとも俺にはそう見えた」
 ……わたしじゃなくても良かった?
「正直、君じゃなくても良かった。誰でも良かったんだ。他人の感想が聞いてみたかった。こんな失礼な男で申し訳ない」
 これは、わたしの夢原さんに対する思いと全く変わらない。
 短大を卒業するまで、これと言って悩みもなかった。
 ふつうに働けると思っていた。
 でもどこの会社の面接も受からなかったし、バイトをしてもいじめられたり、クビになったりした。
 気付いたら、同じ年頃の子たちには友達もいたし彼氏もいて、わたしにはいなかった。
 いろんなことに気付いたとき、夢原さんの詩に出会った。
 ただのタイミング。
 だけど、わたしはそれを偶然と認めるわけにはいかない。
 特別な存在が、消えてしまう。
 ここで、夢原さんじゃないとしつこく嘘を付くこの人の言うことを信じ、夢原さんより感動的な詩を書く、誰だかわからないこの人に惹かれてしまったら……
「わたしにとって、誰も特別じゃなくなっちゃう!」
「な、なんの話だ。俺は君に詩の感想を……」
「夢原さんも、あなたも、特別な人は誰も存在しなくて、わたしはひとりぼっち!」
「……」
「そんなの嫌です。これを見てください」
 旅行かばんのチャックを開け、中から夢原さんグッズをひとつひとつ取り出し、目の前の人に見せる。
 今となっては、夢原さんと呼んでいいのか、なんと呼んでいいのかわからない、目の前の人に見せる。
「これが夢原さんの処女作。これが二作目。それから三作目。どれもシンプルな装丁が素敵ですよね。もう一冊の新刊は、万引しました。初めての万引です。しかも、ひとの自転車のカゴの中に捨ててしまったから、ここにはありません。あと、それから……」
 旅行かばんをテーブルの上で逆さにして揺すり、中身を全部テーブルの上に広げた。
 狭いテーブルに乗らず、ほとんどが床に落ちた。
 夜になり、客はご飯の食べられるファミレスに流れたのか、軽食しかない喫茶店は空いていた。
 でも隣の席には本を読んでいるキャリアウーマン風女性がいた。
 かばんから飛び出したスケッチブックが、その女性の黒いパンプスに当たった。
 拾って、手渡してくれた後、彼女はそのまま店を出て行った。
「これが全部です。少ないけど、仕方ないんです。全部集めたのに、これしかないんです。夢原さん、有名じゃないから」
「……」
「感想が、聞きたいんでしたよね」
「あ……あぁ。悪いがお願いしたい」
「夢原さんはすごいです」
「夢原への気持ちはもうわかった」
「夢原さんは素晴らしいです」
「だから夢原は……」
「その手帳に書いてあった夢原さんの新作……」
「……」
「本当に素晴らしいと思いました。今までの何十倍も感動しました。まったくの別物といっても過言ではありません」
「まぁ、別人だからな。俺が夢原なんかより才能があることがわかっただろ。そういう率直な意見がほしかったんだ。ところで、君にお願いがある。……って、なんだその怖い顔は?」
「それがもし、夢原さんの書いたものでないなら……わたしは、それらの詩になんの興味も持てません。持っちゃいけないんです」
「俺は君に、新しい詩ができるたび、読んで感想を聞かせてほしい」
「いいですよ。あなたが夢原さんなら」
「こういった喫茶店、いや、金のかからないところなら、公園でもどこでもいい」
「構いません。あなたが夢原さんである限り」
 目の前の人は黙った。
 ずいぶん時間が経った。
 わたしが千葉に帰っていた時間ほどではないにしても、かなりの時間が経った。
 目の前の人は、動き出し、自分の足下に落ちていた新聞の切り抜きを拾ってわたしに手渡してくれた。
 手渡しながら、唇を噛んでいた。
 何度も部屋で眺めた小さな切り抜き。
 そこにはもちろん、「夢原翼」と書かれている。
 それを受け取った。
「俺は……」
 息を飲んだ。
 今、わたしの希望が完全に失われようとしている。
 それを、目の前の人が発する空気から感じ取った。
 あなたは本当は……
「夢原翼だ! 俺は夢原翼だ。夢原翼として改めてお願いがある。どうか俺の読者になってくれないか」
 頭を下げられた。
 長い髪が、テーブル全体に広がる。
 モップみたいだ。
 その下には、わたしの持参した夢原さんグッズ。
 わたしも頭を下げた。
 たった数センチ下に、夢原さんの処女作と、それに目の前で頭を下げている彼の手帳が見えた。
「光栄な役目をおおせつかり、ありがとうございます……夢原さん」
 精一杯の敬語で答えた。
「わたしの名前は、森千歳です」
 夢原さんはいつまでも顔を上げなかった。
 わたしも、顔をあげて夢原さんの表情を確かめるのが怖くて、夢原さんの本と手帳を、ずっと眺めていた。


 七章 やっぱりバラック


 喫茶店を出るとき、夢原さんはわたしに手帳の一枚目を破いて渡した。
 そのページにはあらかじめ「phon」「address」など連絡先を書き込む欄があって、それに加えて、この手帳を落したときに拾ってくれた人に何ドルあげるか、ということも書けるようになっていた。
「3百万ドルって……」
 夢原さんが持ってるはずないのに。
 その紙を手に、わたしは夢原さんの家の近くの駅前にいる。
 ここが最寄り駅だということは、マンガ喫茶のパソコンで調べた。
 あの、二度も喫茶店で会った日から二週間。
 わたしの連絡先も教えたというのに、夢原さんから連絡はない。
 こちらから連絡するというのも、早く詩を書くよう催促するようで悪い。
 だから……
 連絡せずに来てしまった。
 ちょっと様子をうかがいに。
 ちょっと夢原さんのそばまで来たくて。
 それにしても、この駅は、なんだか見覚えがある。
 チェーン店のハンバーガー屋。チェーン店のケーキ屋。チェーン店のラーメン屋。それに個人経営の寂れたお店が何軒か。
 目の前の踏み切りを渡ったところに、チェーン店の喫茶店も見える。
 あの喫茶店は、わたしが夢原さんに豆乳をかけたところだ。
「あーッ! この駅は!?」
「わーッ! 君は!?」
 後ろから声がした。
 振り返った。
 夢原さんと……
 その横の地面には、夢原さんの落したビニール袋。
 中ではトマトらしきものが液体になっている。
「あは……ははははは。偶然ですね。わたしもちょっとスーパーに行こうと思って」
「スーパーじゃない。俺が行ってきたのは八百屋だ」
 夢原さんがビニール袋を拾った。
 幸いビニールは破けていないようだし、中でトマトが潰れていることに、夢原さんは気付いていないようだ。
 気付いたら、怒られる。
 勝手に来て、驚かせて、トマトが潰れたことについて怒られる。
「……へぇー、このへんに八百屋さんがあるんですか」
 そろりそろりと、隣に立つ夢原さんの後ろに回った。
「最近、八百屋さんも減りましたよね。はは……ははは……」
 夢原さんはまだ、わたしの動きに気付いていない。
 どっちみち、駅まで来たところで、夢原さんに電話なんてできなかったんだ。
 こうしてばったり会えただけで満足だ。
 夢原さんは元気そうだし。
「本当に不便なんだ。前にあった八百屋が潰れたせいで、毎日隣の駅まで歩かなければならない」
 世間話を続けてるし。
 ……あれ?
「わー!! なんで俺は君に世間話をしてるんだ。それより、なんで君は、駅のほうに引き返そうとしてるんだ。何しに来たんだ。来たのになんで帰るんだ。うわッ!
それにトマト潰れてるじゃないか。君のせいだぞ」
「あッ! 夢原さん、踏み切り……」
 警告音が鳴って、遮断機が下り始めた。
「……とりあえず渡るぞ」
 夢原さんが、ビニール袋を揺らしながら、走って踏み切りを渡った。
 わたしもそれに続いた。
 喫茶店を素通りし、そこから五軒くらい先にある、魚屋さんの前で夢原さんは立ち止まった。
 魚屋さんと、にこやかに会話をする夢原さん。
 ……どんな話をしているのだろう。
 聞いてみたい。
 でもだめだ。
 わたしが隣にいたら、きっと夢原さんは、喫茶店のときみたいな険しい表情で、怒ってばかりの夢原さんに戻ってしまう。
 他人のふりをしていよう。
「おじさんねぇ、和夫がこーんなちいちゃいときから知ってるんだよ」
 ……わわわわわッ。おじさん、わたしに話しかけちゃだめだよ。
 他人なんだから。
 それに、「こーんなちいちゃい」と示す大きさは、サンマ一本ぶんくらいしかないじゃないか。
 夢原さん、もしかして……
「未熟児?」
「違う。俺は四千グラム以上もあったそうだ。健康優良児だった」
「そんなことより、和夫って誰ですか? 夢原さん、答えてください」
 夢原さんにかけよった。
 魚屋のおじさんがきょとんとした顔でわたしと夢原さんを見ている。
 話さないわたしたちを見かねて、おじさんが口を開いた。
「和夫、夢原ってあいつのことだろ。あいつ、今では作家先生か。こないだここ通ったけど、声かけても、こっくり頷くだけだったよ」
「おじさん、いくら?」
「あぁ。悪い悪い。邪魔しちゃ悪いな」
「それと、悪いけど、大きいビニール袋、一枚くれないかな」
 夢原さんは、おじさんからビニール袋を受け取り、八百屋のビニール袋の上からそれをかぶせていた。
 目の前にいるのはもう、さっきまでのにこやかな夢原さんじゃない。
 喫茶店で向き合ったときよりも、一段と険しい表情の夢原さんがいる。
「今日はサンマですか?」
 にこやかに話しかけてみた。
「アジだ」
 ……だめだ。
 こんなに怖い声で「アジ」と口にする人になんて、会ったことない。
『夢原さんの本名は「和夫」なのか?』
『本当にそんな平凡な名前なのか?』
『さっきおじさんの口にした「夢原」さんは、この「夢原」さんじゃないのか?』
 訊きたい。
 だけど、とてもじゃないけど、そんな込み入ったことを聞ける雰囲気じゃない。
 それでもめげずに、つとめて明るく、当たり障りのない話からしてみる。
「えーっと……どこに向かっているんですか」
「もちろん家だ」
「家って、あの豪邸……ですか?」
 夢原さんは答えなかった。
 無言で歩く夢原さんの後を付いて歩いた。
「ここだ」
 ……あぁ、なんてことだ!
 この家は二週間前にも見た!!
 やっぱりここだったのか。
 豪邸の住所が掲示板に書かれていたのも、夢原さんが豪邸から出てきたのも、何かの間違いで、夢原さんの家は……
 このバラック!!
「『死後裁きに遭う』って、これも夢原さんの詩ですか?」
「違う。貼らせてくれって頼みに来たから貼らせてやってるだけだ。それにしても、頼みに来たやつは、仕切りにこの家の素材を褒めていたな。トタンを褒められるなんて初めてのことだ」
 夢原さんは、鍵を開ける動作もなしにドアを開けた。
 家全体が軋んだ。
「おじゃまします」
 夢原さんのあとに続いて玄関に入ろうとした。
「わー!? 何が『おじゃまします』だ。おじゃましていいなんて、ひと言も言ってないだろ」
「わたし、バラック大好きです」
「人の家をバラック呼ばわりするな。好きだからって勝手に入るな」
 ……あの豪邸、表札だって「夢原」じゃなく、金持ちそうな変な名字だったし。
 本当によかった、間違いで。
「ところで、このうちの表札はどこですか?」
 玄関の中に夢原さんを押し込み、ドアを閉めた。
 ドアの右隣に表札はあった。
「山田……」
 ……山田……和夫……が……
 夢原さんの本当の名前?
 そうか。夢原翼っていうのは、ペンネームなんだ。
 きっとそうだ。
 べつにこの夢原さんが、「夢原翼」とは赤の他人で、ただの「山田和夫」ってことが証明されたわけではない。
 表札なんて……
 表札から、目をそらした。
 ドアをそーっと、開けた。
 夢原さんはすでに玄関にはいなかった。
 これが、夢原さんの家の玄関。左側には木製の下駄箱があって、その上に七福神のひとり、布袋様が置いてある。
 布袋様の頭を軽く撫でてみた。
 なんだか御利益がありそうだ。
 布袋様の前に敷かれたレース網の花瓶置きの上に、花瓶は乗っていなくて、飴やらゼリーやら、うまい棒やら、お菓子がたくさん置かれている。
 ……あ! これ欲しい。
「でも溶けてる」
 チョコ菓子の小さな包みを掴んだら、包みがへこんで溶けていることがわかった。
 花瓶置きの上に戻した。
「おじゃまします」
 靴を脱いで、ふつうよりちょっと高さのある三和土の上にのぼった。
 左横の部屋から、夢原さんが現れた。
 ぶつかるとジャラジャラなる、茶色くて丸い木をたくさん繋ぎ合わせた暖簾をくぐりながら。
「入ってくるなと言っただろ。そこで待ってろ。すぐ出るから。喫茶店にでも……」
「でも、もうおじゃましちゃいました。喫茶店はお金がかかります」
 三和土の上に正座したまま、ジャラジャラの暖簾が髪の毛のように見える夢原さんを見ながら言った。
「うッ……それもそうだ。あがれ」
 靴を揃え、夢原さんの後に続いて暖簾をくぐった。
 その先は、リビング……
 というよりも、『居間』。
 六帖くらいの居間には、キッチン……
 というよりも『台所』。
 ──があって、それにダイニングテーブル……
 というよりも?
 えーっと、それよりも?
「あのー、夢原さん。『ダイニングテーブル』をバラック風に言い換えると、なんて言うんですか」
「なんだ、そのバラック風っていうのは!? 別に言い換えなくてもいいだろ。『ダイニングテーブル』は『ダイニングテーブル』だ」
「お願いします。詩人なんだから、言葉の言い換えは得意なはずです。バラック風に言い換えてみてください」
「うッ……」
「あなたは、詩人の夢原翼さんなんですよね」
「ぐッ……折り畳み式……」
 しゃがんで、確認してみた。
「このテーブル、折り畳めそうにありません!」
「あがッ……ちゃ、ちゃぶ……」
「ちゃぶ台は違いますよ。正座して食べるのがちゃぶ台なんです。あ! あれがちゃぶ台ですね。へぇー、奥にも部屋が」
「あぁ……奥は仏間だ」
 仏間というだけあって、畳の部屋に、こじんまりとした仏壇が置かれていた。
 上には、遺影がふたりぶん。
 仏壇の前の平べったい座布団に座り、手を合わせた。
「夢原さんの、お父さん、お母さん、おじゃましてます。さっき布袋様の前にあったチョコをいただこうとしましたが、溶けてるのでやめました。代わりに、このミカンを頂きます」
「勝手に取るな。それに……」
 夢原さんが後ろで何か言っている。
 チーン!
 遺影のお父さんとお母さんは、まだ四十代くらい。
 夢原さんは早くにお父さんとお母さんを亡くし、それ以来この家でひとり暮らし。
 お父さんとお母さんを亡くしたときの夢原さんの気持ちを想像したら、目に涙が滲んできた。
 辛かったですね……
「あれ? 夢原さん? どこですか」
 ジャラジャラと暖簾をくぐる音がした。
 なんだ。何か用事があって、また玄関のほうに行ったんだ。
 夢原さんひとりにしては、暖簾をくぐる音はなかなか鳴り止まなかった。
 仏壇の前に正座したまま振り返るわたしの目に飛び込んできたのは、三人の人。
 ダイニングテーブルの前に並ぶ……
「おじいさん! おばあさん!」
 それに夢原さん。
「ばあさんじゃない」
「あらあら、おばあちゃんでいいのよ。もう七十なんだから」
「母さん、六十六だろ」
「四捨五入したら七十よ。少ないんじゃ困るけど、多めに言っとけば間違いない」
「何が間違いないんだ。六十六は六十六だろ」
 遺影の人は、お母さんじゃなかった!
 じゃあ、夢原さんと、夢原さんのお母さんと並ぶ、ヘリンボーン柄のスーツを着て、落ち着いた雰囲気のこの人は、お父さん?
 仏壇の前から立ち上がり、三人の目の前に立った。
「お父さん、お母さん、はじめまして。おじゃましてます。森千歳と申します」
 右手に持ったミカンを後ろに隠しながら、頭を下げた。
「あ……あの、わたしはねぇ、お父さんじゃあなくて……」
「わたしのボーイフレンドよ」
 夢原さんのお母さんが言った。
 夢原さんのお母さんのボーイフレンドは、お母さんがパチンコで当てたお菓子や煙草の入った袋をダイニングテーブルの上に置くと、「じゃ、わたしはこれで。明日また」言って帰って行った。
「千歳ちゃんっていうのよね。さっき教えてもらったものね。ちょっと来てごらんなさい」
 玄関先でボーイフレンドを見送って、居間に戻ってきたお母さんに仏間に呼ばれた。
 お母さんは、遺影を指差して言う。
「これが、お父さん。わたしの旦那さん。それで、こっちが旦那さんのお母さん。和夫のおばあちゃんね」
「おじいさんはどこにいるんですか?」
「おじいさんはね……」
「今は病院だ」
 夢原さんが口を挟んだ。
 ……あぁ、バラック
 貧乏。
 寝たきりで入院中のおじいさん。
 詩を読んで憧れていた世界が、こうして目の前にあるというのに、お母さんの笑顔を見ていると切ない。
「おじいさん、そんなに悪いんですか」
 夢原さんのお母さんに、おそるおそる聞いてみた。
「全然、悪くないわよ。病院に行けば友だちいっぱいいるから。あっち痛いこっち痛いって理由付けて毎日行くだけ。それが楽しみなの。夕飯の時間になれば帰ってくるわよ」
 ……はぁ、よかった。
 入院しているわけじゃなかった。
「いいから、二階に来い。二階には、じいさんの部屋と、俺の部屋がある」
 玄関まで戻って、そばの階段を昇る。
 急な階段は軋んで……
「夢原さん! わたしもうだめです。怖くて昇れません。それに階段の数をかぞえながら昇るの、くせなんですけど……」
「十三階段で悪いか」
「そうですよね。やっぱり十三段ですよね。十段登って、残りがあと三段しかない……」
「そんなに気になるなら、昇り始める前の床も一段に加えとけ」
 ……あー、そうしておこう。そしたら十四段になる。
「あと、あれだ」
 ……ぎゃッ。
 手すりにつかまりながら、外れそうな階段をおそるおそる登っているというのに、いきなり振り返らないでほしい。
「ダイニングテーブルのことだが……」
「あー、はい。思いつきましたか」
 階段の上。至近距離で振り返る夢原さんを見る。
 真剣な顔付き。
「バ……」
「バ?」
バラック風テーブルだ!」
 夢原さんが背を向け、階段を登りきった。
 わたしは階段を登りきらないまま、その背中を見ている。
 これは、なんとかしないといけない!
 夢原さんには、確かに才能がある。
 それは手帳に書いてあった詩を読んでわかった。
 だけど、このままじゃ、夢原さんはいつまで経っても貧乏なまま。
 お母さんは悲しみに明け暮れ、おじいさんの病は治らない。
 夢原さんには、感動するだけじゃなく、売れる詩を書いてもらわないと。
「夢原さん、このままでいいんですか。家族を悲しませて!?」
 玄関のほうから、夢原さんのお母さんと、おじいさんの笑い声が聞こえてきた。おじいさんが帰ってきたみたいだ。
「悲しんでないぞ」
「夢原さん、お母さんとおじいさんを幸せにしましょう」
「だから、とくに悲しんでも不幸でも……」
「夢原さんに、売れる詩が書けるよう、わたしがお手伝いします」
 階段を引き返した。
 上から「母さんも、じいさんも、じゅうぶん幸せそうだぞ」という夢原さんの声がした。
 わたしは、夢原さんと、その家族の役に立ちたい。
 だから、そんな夢原さんの言葉を無視して、振り返らず階段を下りた。
 ……うぅ、上りも怖いけど、下りはもっと怖い。
 玄関には、靴を脱ぎながら「足が痛いって言ったのに、尻が痛いって聞き間違えられて、尻出せって言われたよ」と話すおじいさんと、大声で笑うお母さんがいた。
 ふたりにお辞儀をして、わたしは夢原さんの家を後にした。
 わたしでも、人の役に立てる。


 八章 みんなで聴こう、夢原さんの詩を


 わたしと夢原さんは、前にチェーン店の喫茶店で約束をした。
 夢原さんはわたしに詩を見せ、わたしはそれを読む。
「でも読みません。読まずに聞きます」
 夢原さんの部屋。ペンギンの絵が描かれた折り畳み式テーブルを挟んで、わたしたちは正座で向かい合っている。
 夢原さんだけ座布団に座り、わたしは直に畳の上。
「俺は『詩の朗読会』なんかには参加しないぞ」
 夢原さんが、わたしがテーブルの上に置いたチラシを持ち上げ、投げ捨てるような動作をした。その後、思い直したのか、投げ捨てずにテーブルの上にまた置いた。
 そのチラシには「マシューズカフェ 毎月恒例『詩の朗読会』」と書かれている。
「参加費無料。誰でもご自由に。ただしワンドリンクはオーダーしてください……って、これ……ただの喫茶店の客集めだろ。素人ばっかりだろ。どうせ頭のおかしな女とか、障害者が不幸自慢するだけだろ。最近は『ユリイカ』まで、そんな詩ばかり載せている」
「『ユリイカ』は知りませんけど、この朗読会は、ちゃんとした会です。明るく素敵な、山口さんだって参加するんです」
「誰だ、山口さんって?」
「山口さんは、マンガ喫茶の店員さんです」

 前に夢原さんの家に来た翌日、つまり昨日、わたしは家から自転車を漕いで、図書館に行った。
 市内最大級と謳われるだけあって、さすがに広い。
 入り口の自動ドアは、いつも行っているマンガ喫茶の四倍はある。
 自動ドアのあとに、さらに自動ドア。
 北海道の人たちの住む家のドアは、二重になっているのをテレビで観たことがある。
 北海道でもないのに、二重ドア。
 自動ドアをふたつ抜け、壁に小学生の描いた「おしゃれな怪獣」と題された絵が壁に貼られたホールを二十メートルほど歩くと、また自動ドア。
 ここからが、やっと本棚の並ぶ図書館。
 目指すは、ヤングアダルトコーナー。
 略してYAコーナー。誰も略して呼んでないであろう、ヤングアダルトコーナー。
 青少年の味方。青少年じゃないけどわたしの味方。
 わたしはそこに向かって一直線に歩いた。
 ちょうど、ヤングアダルトにぴったし当てはまる年齢の女子高生が前を歩いていた。
 真夏だというのに冬の制服を着ていた。
 グレーのブレザーに緑を基調としたタータンチェックのスカート。緑のハイソックス。
 近くにある成績の良い人しか入れない女子校の制服。
 校則が厳しいはずなのに、肩まである髪はまとめずにおろしている。
 夏なのに冬服なこといい、髪形といい、いくら有名私立校の生徒でも、はめをはずしたい年頃なのかもしれない。
 彼女を追い抜いた。
 ヤングアダルトコーナーに到着。
 ちょうどいい具合に、まわりに誰も人がいなかった。
 ヤングアダルトに当てはまらない年齢のわたしは、ここではとても気を使う。
 悩める青少年。
 たとえば「人間関係」……
 たとえば「恋愛」……
 たとえば「将来の職業」……
 それら、青少年特有の悩みを抱えたヤングアダルトがこのコーナーに来たとき、わたしみたいな二十三歳の、どこからどう見ても大人の女が、ここにいたら気まずくて引き返してしまうだろう。
 だから素早く目当ての本を探す。
 夢原さんのためになる本を探す。
 夢原さんと、夢原さんのお母さんと、おじいさんのために……
 『詩人になるには』……
 そういったタイトルの本を素早く見付けないと。
 ヤングアダルトが、来てしまう。
 ない!
 どこだ!
 ない!
「はッ! うわーーーーー!!」
 なんてことだ。
 こんなタイトルの本が、ヤングアダルトコーナーにあっていいというのか。
 いや、いけない。
 目に付いたその本のタイトルは、『初めてのセックス』。
 そんな本、まだヤングアダルトには関係のない話だ。わたしも、関係なく生きてきたけど、ヤングアダルトには、もっと関係ない話だ。
 これは、誰かのいたずらに違いない。
 まじめな図書館職員さんが、中高生にこんな本を読ませようとするはずがない。
 中学生とか高校生男子の、あるいは変態中年男性の悪質ないたずら。
 こんなもの、たとえばさっきの有名女子高校の生徒が目にするようなことがあれば、ショックを受けて、PTSDで取り返しの付かないことになる。
 その前に、大人であるわたしが責任を持って、しかるべき場所に戻してこよう。
 その文庫本に手を伸ばした。
「はッ! あの、ごめんなさい。わたし別に読みたいわけじゃないんです。しかるべき場所に……大人として……」
 本を取ろうと伸ばした右手に、左から伸びてきた誰かの手が触れた。
 慌てて手を引っ込めた。
 一瞬触れた手の感触は、ごわごわしていた。
 文庫に手を触れたままの手首を見ると、包帯が巻かれていた。
 右を見た。
 さっきの女子高生だった。
 そしてその女子高生は……
マンガ喫茶の山口さん!」
 小首を傾げながら、彼女もわたしを見た。
「お客さん……えーっと、お名前覚えてますよ。あれだ! 森さん」
 わたしはものすごく驚いているのに、山口さんはそんなに驚いた様子もなく、くすくす笑っている。
 この笑顔、マンガ喫茶で何度も見た。
「生活圏内、近ーい! ですね」
 山口さんは、再びさっきの本に手を伸ばした。
 ……あぁ、この年であんな本に手を伸ばしたことが恥ずかしくて、顔が火照っていく。
 ただの好奇心。出来心だったんだ。
 それより山口さん、そんな本に手を伸ばしたらいけないよ。
 明るく健康的で社交的な山口さんが、こんな本によって、汚されてしまう。
「このコーナーおもしろいですよね。あぁ、中学生の頃はこんなことで悩んでたんだなぁって、懐かしい気持ちになれて……。それにしても、この本のタイトル、露骨すぎやしませんか?」
 山口さんはその文庫本を両手に持って、表紙をわたしに見せながら、ニコリと微笑んだ。
 ブレザーの袖から、やっぱり包帯が覗いていた。
 ……あぁ、山口さん。
 毎日マンガ喫茶に通って彼女と顔を合わせていたというのに、わたしは山口さんについて、知らなすぎた。
 明るく元気で働き者のマンガ喫茶店員、山口さん。
 それは、彼女のたったひとつの側面でしかなかった。
 彼女はマンガ喫茶で働いてるだけでなく、高校にも通っていた。女子高生だった。
 そして今は夏休みだというのに、制服を着ている。
 ということは部活にも励んでいる。
 なんて活動的なんだ。
 元気なんだ。
 明るいんだ。
 どうして、その恥ずかしいタイトルの文庫本をペラペラめくって読んでいるんだ。
 なんでそんなときも笑顔を絶やさないんだ。
 本当は今、辛いはずなのに。
 夏なのに冬服のブレザーで手首の包帯を隠す山口さん……
「あなたのがんばりは、きっと報われます! バレー部のみんなも、山口さんがケガのせいでミスしたからって責めたりはしません」
 ……だから、そんなに無理しないで。
 冷房は付いているけれど「省エネ設定」という貼り紙がいたるところにしてある、この図書館の中は、外よりはかろうじて暑くないかな、という程度の暑さ。
上着、脱いだほうがいいですよ。先生にケガを告げ口されてレギュラー落ちとか、人気者の山口さんに限って、ありえませんから」
「……」
 山口さんは、本を開いたまま、わたしをきょとんとした目で見ている。
 山口さんが開いたままのページには、黒い濃い字で「初体験に適齢期はない」と書かれていた。
 山口さんが本を閉じ、わたしに渡した。
「ごめんなさい。これ、ちょっと持っててもらえます?」
 山口さんが、グレーのブレザーを脱いだ。
 白い長袖のワイシャツ一枚だけになると、彼女のウエストがかなり細いことがわかった。
「それより、中も長袖なんですか!?」
「あー、はい。そうですね。なんか、これがうちの学校の正装みたいなもんだから。わたし、この制服が気に入って、入学したんですよ。だから今日くらい、これを着たくて」
 ……まだ強がりを言っている。
 もしかしてレギュラー落ちを恐れているのではなく、これは山口さんのプライドなのかもしれない。
 負けてもケガのせいにだけはしたくない……
「わかりました。そのプライドのために、やっぱりブレザーは着てください」
「え? 着るんですか? わたし、ブレザーを……もう一度?」
 山口さんは脱いで腕にかけていたブレザーを着ようとして、途中でお腹を抱えて笑いだした。
「森さんって、ほんとおもしろいですよね」
 この言葉、そういえば前にも山口さんから聞いた。マンガ喫茶で。
「どっちにしても、大丈夫なんですよ。今日は部活で学校に行ったんじゃないから」
 ……なんだ、そうだったのか。
 部員に会ってケガを告げ口されることを心配しなくても大丈夫なんだ。
 場合によってはわたしが壁になって山口さんをみんなの目から……
 と思ったけど山口さんはわたしより十センチ以上背が高い。
「友達が……」
 山口さんは言いかけてやめると、わたしの手から、『初めてのSEX』をひょいと抜き取った。
 それを扇子がわりにして、パタパタと胸元を仰いでいる。
「さすがに汗かいちゃってるな……。そうそう友達がですね。先生と恋愛してるんですよ」
「え! 先生と!? わたし、昔そういう少女マンガ読んでました。めでたくハッピーエンドで、大泣きしました」
「あぁ……、現実はですね、けっこう複雑なんですよ。先生と恋愛すると、どういうことになるか、想像つきます?」
「えーっと……」
 想像してみたけど、マンガの中で、先生と生徒が水族館に行く素敵なシーンしか思い浮かばなかった。
「下駄箱に……アハハハハ……ねずみの死骸が入るんですよ。信じられないですよね。ハハ、ハハハハハハ」
 言ってる途中から、山口さんは大声で笑った。
 でも、目は笑っていなかった。
 わたしは周囲の視線が気になった。
 だけど、山口さんは笑い続けた。
「あぁ。おかしい。ばかみたいな話ですよね。ひどいですよね。うんざりですよ、学校なんて」
 友だちをいじめた生徒というより、学校そのものを憎んでいるみたいな口調だった。
 その後の山口さんの話を要約するとこうだった。
 いじめに耐えかねた山口さんの友だちは、今年の五月からずっと不登校
 離婚の成立していない奥さんと、二歳の娘さんがいる先生のため、慰謝料や養育費のたしにと、その間ずっとバイトをしていたらしい。
 そして、出席日数が足りず、留年の決定した今日、退学届けを出した……と。
「不甲斐ないです。彼女をいじめから守れなかったし、なんの助けにもなれなかった……。わたしなんて、ただの十七歳の小娘なんですよね」
 ……あぁ、なんて声をかけたらいいかわからない。
 真後ろの、CDの並ぶ低い棚に後ろ手を付いてもたれかかった山口さんは、焦点の定まらない目で、ヤングアダルトコーナーの棚をしばらく見つめていた。
「あッ……ごめんなさい。なんだか、ヘビーな話をしてしまいましたね」
 山口さんが、姿勢を正した。
「そうそう、なんでこの話をしたかっていうと、わたしが今日、正装なわけ。それを語りたかったんです。彼女が退学届けを出すのに付き合って、さっきまで学校にいたからなんです」
「自転車通学ですか?」
「はい。そうですね」
「その制服、かわいいですよね」
「……ありがとうございます」
 ……あぁ。わたしは、なんでこんなことしか言えないんだろう。
 辛そうだけど、明るくふるまおうとしている、友だち思いの山口さんに、気の利いた言葉ひとつ、かけられない。
「あの、こんな話、聞いてもらっちゃって、さらにお願いするのも悪いんですけど」
 ……山口さんに、なにか……できることがある?
「これ……」
 そう言って山口さんがわたしに差し出したのが、『詩の朗読会』のチラシだった。
「わたし、彼女に何もできなかったけど……せめて、彼女の気持ちを大勢の人に知ってほしくて。
詩を書くなんて初めてだけど、挑戦してみようと思うんです。彼女のから聞いた気持ちを、詩にしてみようと思うんです。よかったら、聴きに来てくれませんか」
 スカートをふわりと翻して、かばんを右肩にかけた山口さんは、はずむような足取りで去って行った。
 その姿は、うきうきして弾んでいるというより、地に足が付かず、ふわふわ浮いているように
見えた。

 夢原さんはついさっき立ち上がり、部屋の中をうろつき始めた。
 昨日の山口さんの足取りとは対称的で、大地を踏みしめるように。
 ときおり、「なんで、マンガ喫茶の店員が参加するからと言って、俺まで参加しないとならないんだ」というひとりごとが聞こえてくる。
 この四畳半の部屋は、大半が本棚で占められている。
 本棚といっても、カラーボックスの上にカラーボックスを二段重ねにしたものが、窓と押し入れのあるところ以外、全てを覆い尽している。
 夢原さんが乱暴な足取りで歩き回るたび、上の段のカラーボックスが、中の本ごと落ちてこないかひやひやする。
「止まってください」
 ……止まった!
 夢原さんが、わたしの言葉どおり、律義に立ち止まった。
 真正面より、少し左寄りに立つ夢原さんは、不自然なポーズのまま、立ち止まっている。
「ぐわッ! なんで俺が君に指図されて、素直に立ち止まってるんだ!?」
 夢原さんが再び、歩き回り始めた。
「止まッ!!」
「だから俺は君の言うとおりには……」
 窓と襖のあいだに置かれたカラーボックス、上段のふたつが、中の本ごと夢原さんの上に降ってきた。
 地響き。
 夢原さんの頭が割れる。
 血が出る。
 大けがをする。
 咄嗟につむった目を開けた。
「慣れてるんだ、こんなことには」
 夢原さんは、柔道の受け身の姿勢をはるかに不格好にしたような姿勢で、窓の近くに寝ころんでいた。
 わたしの足下近くまで飛んできたいくつかの本の中に、見覚えのある本があった。
 それは、夢原さんの処女詩集。
 肩で息をしている夢原さんを無視して、カラーボックスを見渡すと、二作目、三作目、それから四作目……
 ほとんどが古本屋で買っただろう日焼けした本の中に、夢原さん自身の本が、すべて揃っていることに、今、初めて気付いた。
 わたしは立ち上がって、四冊まとめて並んではいなかった四冊の本を一冊一冊、抜き取り、集めた。
 ひびの入ったすりガラスの窓を背にし、寝ころぶ夢原さんの前、畳みの上に四冊の本を積み重ねた。
「あなたは夢原さんです」
「……」
 失敗した受け身の姿勢のまま、夢原さんがわたしを見る。
 長い髪が、さっきの派手な動きのせいで……
 ぼさぼさ。
「あなたは、もうすでに四冊も詩集を出している、夢原さんです。初めて詩を書く山口さんだって、挑戦しようとしてるんです。夢原さんなら、『詩の朗読会』くらい怖くないはずですよね?」
 ……なんでだろう。
 わたしは「夢原さん」と口にするたび、後ろめたさを感じる。脅しているような気分になる。
 夢原さんであることは、本人も認めたはずなのに。
「たしかに認めた。俺は夢原だ。だが、これまでの過去は、もう捨てたいと思っている。今俺にあるのは、前に君に見せた詩と、それから、この数日のあいだに書いた、新しい詩のみ」
 夢原さんが立ち上がって、床に散らばった本をどかしてから、押し入れを開けた。
 わたしは今まで、どこの家庭も押し入れには、ふとんをしまうものとばかり思っていた、
 だけど夢原さんの部屋の押し入れは、上段だけにふとん。それと、ふとんの上に申し訳程度の衣類が、たたまれず置かれている。
 下段には、少しの雑誌と、それ以外は大量のノートや手帳、びっしりと字の書かれた大小さまざまな紙が、詰め込まれていた。
 雑誌の上に、鉛筆立てもある。
 一見、ぐしゃぐしゃなようで、取り出しやすいように工夫されているのかもしれない。
 夢原さんは、一瞬で黒い皮の手帳と、万年筆を取りだした。
「それは……えーっと、モレスキンだ」
 つい、夢原さんの口調がうつってしまった。
「そうだ。モレスキンだ。いや、そうだが、モレスキンよりも、この中身だ。新しい詩を書いたんだ。読んでくれ」
 夢原さんは、わたしの話をすっかり無視している。
 押し付けるように、わたしのお腹のあたりに手帳を差し出した。
「だから、読みませんって」
「なんでだ。君は前に、俺の詩に感動しただろ。それよりさらにいい詩がここにあるというのに、読みたくないのか」
 ……読みたい。
 夢原さんから、手帳を奪ってでも読みたい。
 だけど、ここは我慢だ。人生最大の堪えどころ。
 がんばれ、わたし!
「読みたくありません」
「なッ……。じゃあ、あの約束は反故にするというのか」
「そういうわけでは……。ただ、夢原さんの詩を、たくさんの人に知ってほしいんです。それでお金も入って、お母さん、おじいさんに、幸せで安全な生活を」
「だから、母さんとじいさんは、年金と生活保護で、何不自由なく暮らしている」
 ……
「今、生活保護って言いました?
だめですよ。労働は尊いものなんですよ。いい若いものが……いえ、夢原さんはきっと三十歳越えてるからあんまり若くないけど……働かなくてどうするんですか?
今まで出した詩集の印税だって、きっと微々たるものですよね。だめですよ。お母さん、おじいさんは、内心夢原さんのことを心配しています」
 黙って聞いていた夢原さんが、口を開いた。
「森さん、君はいくつだ?」
「二十三です」
「誰とどこで暮らしている」
「父と母と、実家で暮らしています」
「収入源は」
「前にバイトしてたときに、使い道もなく貯金してたお金がありましたが、もうすぐ底を尽きます」
 夢原さんは、手帳を開いた。
 詩を朗読し始めた。
「ぎゃーーーーー!! やめてください。聞きたくないんです。本当は聞きたいけど、聞きたくないんです。『詩の朗読会』に参加してください」
 押し入れの他に、もう一か所ある襖が開いた。
 上半身裸、ステテコ一枚のおじいさんが立っていた。
「和夫、ここまで言われて逃げるのか。幼なじみのあいつに、負けたままでいいのか」
 おじいさんは、それだけ言うと、襖を閉めた。
 夢原さんの部屋とおじいさんの部屋は、襖一枚だけで隔てられているということを、今初めて知った。
 夢原さんも、おじいさんがまた病院かどこかへ行っていると思っていたのか、相当驚いた顔をしていた。
 その後、夢原さんが呟いた。
「俺は負けてない……」
 夢原さんは手帳を片手で閉じた。
 そして、思いがけないことを口にした。
「五日後だな。今ある詩より、さらに素晴らしいものを書いて参加してやる」

 五日後、夢原さんと、それに山口さんの詩が聴ける。
 うきうきしながら帰りの電車に乗ったけど、ひとつ、忘れていたことを思い出した。
 ……あ!
 図書館で、『詩人になるには』を借り忘れていた。


 九章 わたしが詩人になるには


 『詩人になるには』……
 そんなタイトルの本は置いていない。
 詩の書き方の本さえ見つからない。
 「そういう本を探すなら、図書館より大きな書店に行ったほうがいいかもしれませんね」、そう教えてくれたのは山口さん。
 でもここ、大きな書店で、さっきからずっと探しているけど、全然見つからない。
 昨日、ひさびさにマンガ喫茶に行った。
 当たり前だけど山口さんは、グレーのブレザーではなく、髪を一本に束ねたエプロン姿だった。
 山口さんはわたしを見るなり言った。
「森さん! 来てくれたんですか? いやぁ、嬉しいなぁ。もう来てくれないんじゃないかと心配してました」
 はッ!
 もしかして……
 わたしの、ふところ事情に対する不安は、顔に出ている!?
 たしかに、最近の行動的生活は、ついこのあいだまでのわたしには予定外の事態。
 毎日三食家で食べ、使うお金は、一日三百八十円。マンガ喫茶の基本料金のみ。
 それで計算したら、十一月頃までバイトをせずに暮らせるはずだった。
 それなのに、このままだとその半分も暮らせない。
 だけど……
「大丈夫です。いつかバイトする予定なんです。バイトしたらそのお金で、毎日、朝から晩までマンガ喫茶にいます。一度やってみたかったんです。延長料金を気にせず、マンガ喫茶に一日中いる生活!」
 明るく言ってみた。
 ……本当は自信がないけど。
 またバイト生活に戻れる自信なんて……ないけど。
マンガ喫茶にそんなに通ったら、バイトする時間、なくなっちゃいそうですね」
 学校と部活とバイト、みっつも両立させている山口さんが言った。
 そうだ、山口さんはそんなにたくさん両立させているんだ。
 バイトとマンガ喫茶通いの両立くらい!
 わたしにだって!!
「……できません。時間的、体力的、精神的に無理です。わたしはバイトをしたら、それだけでへろへろです」
「あー、えーっと……」
 ……はッ。
 山口さんが言葉を失っている。
 顔に経済状態の不安をあらわにするだけでなく、泣き言まで言ってしまった。
 この場は、早く立ち去ろう。
「基本料金三百八十円、このトレーの上に置きますね。今日も基本料金だけで、たくさんマンガを読んで、ドリンクを飲んで、帰りますね。はは……あはははは」
 トレーの上にお金を置いた。
 山口さんは、なかなか伝票を渡してくれない。
「インターネットの禁煙席でお願いしますね。マンガとドリンクバーだけでなく、ずうずうしくも、インターネットも楽しんで帰りますね」
 それでも山口さんは、まだ伝票をくれない。
「あのッ!」
 山口さんが、カウンターから身を乗りだすようにして、意を決したような声を上げた。
 その声は上ずっていて、いつもの、社交能力が高くて人との会話に慣れた様子の山口さんらしくはなかった。
 照れた顔をしながら、グーに握った手を口もとにあてた。女の子らしい小さな咳払いをひとつ。
「『詩の朗読会』の話、考えてくれましたか?」
「あー!!」
 ……忘れていた。
 わたしがここへ来た目的は、それだった。
 いつものようにマンガを読むために、ここに来たわけじゃなかった。
 基本料金を払ったからにはもちろんマンガも読むし、ドリンクも飲むけど……
 山口さんへの、意思表示に来たんだった。
「ぜひ、参加させて頂きます」
 山口さんは、細く長い指をした両手をこちらに差し出した。
 わたしも、おずおずと手を伸ばした。山口さんに比べ、関節ひとつぶんは小さい手。見せるのが恥ずかしかった。
「わー! 森さんって、手もちっちゃいんですねー。かわいい!」
 山口さんは、満面の笑みを浮かべて、わたしの両手を自分の両手で包んだ。
「心細かったんです。森さんもわたしと同じで、みんなの前で詩を朗読するのは初めてですよね。同じ仲間がいると、心強いです」
 手を引っ込めようとした。
 わたしの手は、しっかりと山口さんに握られていて動かない。
 どうしよう。
 早く誤解を解かないと。
 参加するのは夢原さんで、わたしはその付き添い。
 それに山口さんの詩を聴いてみたい、観客。
 期待を裏切って悪いけど、早く本当のことを伝えよう。
「参加するのは……」
「初めてだってことはわかってますよ」
 屈託のない笑顔。
「……」
「わたしも初めてですから。あ! もしかして、詩を書くこと自体、初めてですか?」
「はい、初めてです。あ、あの、そうじゃなくて……。いえ、初めては初めてなんですけど。今回は、わたしは、初めて参加はしなくて……あの、その……」
「慌てなくても大丈夫ですよ。わたしなんかは、自然と頭に浮かんでくるから、必要だと思ったことないんですけど。もしあれだったら、『詩の書き方』みたいな本を探してみたらどうですか?」
 ……ということは!?
「『詩人になるには』も、ありますか? わたし、探してたんです」
「わー! 森さん、すごい気合い入ってますね。がんばりましょう」
 ……あぁ。
 これはもう完全に、わたしも詩を朗読することが決定してしまった。
「はい、なんとか……」
 がんばって書こう。
 あと数日しかないけど……。
「そういう本を探すなら、図書館より大きな書店に行ったほうがいいかもしれませんね。あの図書館では、見かけたことがありませんよ。そうですね〜、ここからだと錦糸町とか」
 山口さんがニッコリと笑った。
「あッ! いらっしゃいませ」
 山口さんが自動ドアのほうを見たから、わたしもつられて見た。
 タンクトップにハーフパンツの男のひとが、自動ドアの前に敷いてある、マットの上に立っていた。
「お客さん来ちゃった」
 山口さんは、握っていた手を放すと、代わりにわたしの両手のひらの上に伝票を乗せた。
「楽しみですね。当日はぎりぎりまでバイトしてますから、一緒には行けませんけど。カフェで会いましょうね」
 そう言って、山口さんは腰のあたりで小さく手を振った。
 振り返そうとしたときにはもう、山口さんは接客に徹していた。

 新宿よりは近かった。
 電車賃が安く済んだ。
 そのぶん紀伊国屋書店本店と比べればはるかに小さかった。
 それでも近所の書店、何軒か足したくらいの広さ。
 そんな書店の、詩のコーナー。
 小説の棚は何列もあるというのに、詩の棚は隅っこに二列だけ。
 ……いや、違う。
 二列だけ、じゃなく、二列も。
 二列もあるなんて、近くの本屋に比べたら、奇跡みたいなこと。
 これだけあれば、一冊くらい『詩人になるには』といったタイトルの本があってもおかしくない。
 こちらは、詩でたくさんお金を稼いで、お母さんやおじいさんと安全な家で暮らしてほしい、夢原さん用。
 それから、初心者でも詩が書けるよう、わかりやすく詩の書き方を説明してくれる本もほしい。
 こっちは、初めて詩を書くわたし用。
 小説の棚と違って、詩の棚は背が二メートルくらいないと全部の本には届かない。首を伸ばしたり、しゃがんだりしながら、棚に並んだ本をくまなく見ていく。
「ない……ない……ない……」
 詩人のなりかたも、詩の書き方もない。詩集ばかりだ。
 知らない詩人の名前がたくさん並んでいる。
「あッ! 谷川俊太郎……の、詩集じゃなく……」
 『詩を書く』!
 新書の背表紙にそう書かれた本が、はるか高いところにあった。
 この本は参考になりそう。
 背伸びをして、右手を伸ばした。
 肩から鞄がずり落ちた。
 左手で直して、もう一度。
 今度は、めいっぱい爪先立ちをした。
 あと五センチ。
 三センチ。
 二センチ。
 もうちょっとだ。
 がんばるんだ、わたし。
 今は、谷川俊太郎だけが頼りなんだ。
 他は詩集ばかりで、詩について書かれた本は、この本くらいしか見当たらない。
 この本はなんとしても手に……
 あれ?
 つま先立ちのまま、右横の足下を見る。
 ソロソロと、踏み台がひとりでに……
 近付いてくる!
「ぎゃーーーーー! ふ、踏み、踏み台……」
 体勢を崩し、よろけた。
 床にぺたんと、おしりと膝を付き、踏み台にもたれかかった。
 踏み台に添えられた男のひとの手が、目の前にある。
 見上げると、緑のエプロン……
 ネームプレートに、「店長」の文字……
 体を屈めている彼は!
「うわッ! うわッ! うわッ! て、店長……なんでここに、なんでここに、なんでここに、なんでここに……ななな……」
 踏み台から飛び退き、体育座りをしながら、呟いた。
 頭を抱えて、必死に考えた。
 ここは都内の本屋。わたしがバイトしていたのは、千葉県にしか支店のない本屋。
 店長がここにいるはずがない。
 あの人は店長じゃない。
 おそるおそる、顔を上げた。
 踏み台に手を添え、屈んだままの姿勢のその人が胸に付けているネームプレートをもう一度見た。
 たしかに「店長」と書かれている。
 さらに「牛島」とも書かれている。
 彼は、この店の店長で、名前は牛島さんというらしい。
 ……はぁ。よかった。
 牛島さんの顔を見る。
 店長と違って丸顔。年齢も、店長よりふたまわりは上で、定年間近といったところ。
 ついでに横幅も、店長よりふたまわりほど大きい。
 その牛島さんが、心配そうな目でわたしを見ている。
「はッ! すいません。なんでもないんです。ちょっと、あの、背伸びしすぎて、よろけただけなんです。踏み台、ちょうどほしかったところなんで、ありがとうございます。気にしないで……ありがとうございます」
 牛島さんに笑いかけたけど、うまく笑えなかった。
「お声をかけたんですけど、気付かれなかったみたいでして……。驚かせてしまい、申し訳ありません。よかったら、お取りしましょうか」
 牛島さんほど背丈があると、踏み台を使わなくても、ほとんどの本に手が届く。
 わたしが指を差し、牛島さんが「これですか?」と本の背表紙を触り、「いえ、その隣のそれを」とわたしが答え……
 そんなやり取りのあと、谷川俊太郎の『詩を書く』を牛島さんの両手から、わたしも両手で、名刺交換のような動作で受け取った。
「あ! でも、踏み台も持ってきてもらったし、取ってももらったけど、わたし、中を見て……」
「どうぞ。ゆっくりご覧になって、ご検討ください」
 牛島さんはお辞儀をしたあと、踏み台を脇に抱えて歩き出した。
 お客さんとすれ違うたび、壁際に張り付くようにして、先にお客さんを通すから、いっこうに遠くに行かない牛島さんの様子をしばらく見ていた。

 家に着くと、玄関横には、母の自転車がなかった。
 おそるおそる、母手作りのリースがかけられたドアを開けた。
 ……あぁ。やっぱり。
 玄関には、父の投げたものが散乱していた。
 父は仕事から帰ってきたとき、母が家にいないと、よくこういうことをする。
 母のパンプスの横にも、父の革靴の中にも……
 みかん。
 六個ほど拾った。
 ……えーっと、もうみかんはないかな。
 はッ!
 ヤクルト!
 わたしのサンダルの横にヤクルトが!!
 ヤクルトを慎重に拾いあげた。
 穴が空いていないことを確認する。
 よかった。わたしの白いサンダルが、ヤクルトまみれになってなくてよかった。
 初夏に駅ビルで買った、七センチヒールの白いサンダル。
 もったいなくて、まだ一度も履いていない。
 このままだと、一度も履かないまま夏が終わりそうだ。
 廊下にも、米の計量器、フライパン、ランチョンマット……
 次々と拾いながら、リビングに向かった。
 開きっ放しのリビングと廊下を繋ぐドア。そのそばに落ちていた、親戚から送られてきた山形みやげのおばこ人形だけが持ち切れない。
 ドアのそばには、キッチンとダイニングテーブルがある。そこには誰もいない。
 奥を覗くと、父がソファーからずり落ちたような姿勢でカーペットの上に座り、缶ビールを飲んでいた。周りは缶だらけ。正面の液晶テレビには、明石家さんまが映ってる。
 ……あれは、わたしの好きなバラエティー番組。
 でも……父がテレビの前にいるから、今日は見るのを諦めよう。
「ただいま」
 拾ってきたものを所定の位置に戻しながら、父ではなく明石家さんまに向かって言った。
「おぅ。なんだ、千歳か」
 赤い顔の父がこちらを振り向いた。
 今気付いたふりをしているけど、本当はもっと前から気付いている。
 物に当たり散らしたことをわたしに見られて、ばつが悪いんだ。
「オババ、まだ帰って来ないぞ。夕飯の時間だっていうのに、どこほっつき歩いてんだか」
 キッチンに立ち、抱えていたフライパンを、なべやフライ返しがかかっている壁にかける。
 ガスレンジの上に乗っている、なべのふたを開けた。
「お父さん、夕飯あるよ。今日は筑前煮……らしいね。ひとりで食べてたらいいのに……」
 語尾がどんどん小さくなって、独り言みたいになった。
 でも、父には聞こえたようだ。
「んむッ……」
 よくわかんない返事が聞こえた。
「食べる?」
「いや……」
 父は、さっきまで見ていなかったテレビに、熱中しているふりをしている。
 わたしはなべの中の筑前煮と、隣の小さな鍋に入っていたみそ汁を温め、ご飯をよそって、ダイニングテーブルに向かって、急いで食べ始めた。
 早くしないと母が帰ってくる。
 帰ってくれば、父が母にケンカをふっかける。
 ごはんは、あとひとくち。
 鳥肉も、あと一切れ。
 ……やった、完食!
 玄関のほうから、物音がした。
 母が玄関前に自転車を止めている音。
 急いで食器を重ね、シンクに置いた。
 いそいそと、リビングを出る。途中、おばこ人形を拾う。
 下駄箱の上には、陶器でできた白い猫。二匹が寄り添うように置かれている。
 本当はここじゃないけど、まぁ、いいや。緊急事態だ。
 おばこ人形にはここにいてもらおう。
 白い猫二匹をそれぞれ左右にずらし、そのあいだにおばこ人形を……
「は! お母さん」
「ただいま。あら……千歳、なにやってるの?」
 母がドアを開け、玄関の中に入りながら、訝しそうにわたしを見ている。
「……えーっと。おばこが猫を飼ってるって設定」
「やめなさいよ、センス悪い」
 母に、おばこ人形を手渡した。
「元に戻しておいて」
 母が、スーパーのビニール袋を持ってないほうの手で、おばこ人形を受け取った。
 受け取りながら、サンダルから、スリッパに履き替えている。
 わたしは、その足下を見ている。
 タオル地でできた黒地に薔薇柄のスリッパに、肌と同じ色のマニキュアが塗られた足が、一本、二本、差し込まれる。
「千歳、ちょっとそこどいて。通れないでしょ」
「あー、うん。ごめん……」
 スリッパ立てには、同じタオル地のスリッパがあとふたつある。
 だけど、父もわたしも面倒で履かない。いつも裸足か靴下のまま家の中を歩く。
「ご飯まだでしょ? 今ちょっと納豆買い忘れて、もう一回スーパー行ってたとこ。そしたら関口さんと会っちゃって。谷口さんちの尚美ちゃん、就職決まったって」
 昔よく遊んであげた尚美ちゃんも、もうすぐ専門学校を卒業する年かぁ……
 就職かぁ……
「ねぇ、お父さん、もう帰ってるんでしょ」
「あ、うん……帰ってるよ。わたしはもうご飯食べたから!」
 階段を走って昇った。
 母は、みかんが玄関にあったことも、おばこ人形がリビングのドアの前に落ちていたことも知らない。
 どっちにしろ、もうすぐケンカが始まる。

 父の定位置、ソファーのちょうど真上にわたしの部屋がある。
 家具は、この家が建てられた、わたしが中学生のときに母が買い揃えたまんま。
 机、タンス、立て鏡、それからベッド……
 全部が白で、どこかしらに必ずピンクの花模様が入っている。
 カーテンや掛け布団なんて、地の色からしてピンク。
 ……わたしにはラブリーすぎるよ、この部屋は。
「落ち着かない」
 横向きにベッドに寝転がりながら、呟く。
 嫌だったから自分で買い替えればいいんだろうけど、実家暮らしが長いと、自分で家具を買い替えようという気がおきない。
 それに、今はお金もないし。
 ……はぁ。
 あ! 始まった!
 下から、父と母が大声で言い争う声が聞こえてきた。
「千歳を短大に入れたから、こんなことになったんだろ。あいつはどうせ働けやしないんだから、高校だけでよかったんだ」
「そんなこと言ったって、今の時代、高卒じゃかわいそうでしょ。あなたが前の会社さえ辞めなければ」
「仕事もない会社に居座ったって仕方ないだろ」
 あぁ。早く、本棚から夢原さんの詩集を……
 机のひきだしから、夢原さんの載った新聞記事を……
 耳を塞ぎ、ベッドの上を二回転して、そのまま床に転げ落ちるようにしておりた。
 這って、移動。
 そして掴んだのは……
 電話の子機!?
 それに、わたしが今、ひきだしの中身を床にばらまき、探しているのは……
 紙切れ!?
 夢原さんの電話番号が書かれた紙切れを探している。
 あった!
 でも、なんで。
 なんでわたしは今、夢原さんの番号をダイヤルしているんだ。
「山田だ。どちらさまだ」
 山田さんだけど夢原さん、が出た。
「森千歳です」
「うッ……詩なら、まだできてないんだが」
「違います。詩の催促のために電話をかけたんじゃありません」
「じゃあ、なんの用だ?」
 ……なんの用だろう。
 わー! 下から、また父の声が聞こえてきた。
「早く嫁にやってしまえばいいんだ」って言ってる。
 それよりも、母の声。
「まだ彼氏もできたことないのに、そんなこと言ったって、かわいそうでしょ」って……
 お母さん、そっちのほうが傷付くよ。
 かわいそうだよ……わたし。
「だけど、顔だって悪いわけじゃないだろ。隣の娘なんて、千歳の三倍くらいは体重あるのに結婚したっていうだろ」
「だって、ほら……、千歳は人と話すの苦手でしょ。わたしたちが一生養っていく覚悟で」
「わたしたちって、働くのは俺だろ」
 あー! 耳を塞ぎたい。
「おい! 電話をかけてきながら、なんで何も言わないんだ」
 耳を塞いだら、夢原さんと会話ができない。
「無言電話か」
 そもそも、耳を塞いだだけじゃ、聞こえなくはならない。
「何も話さないんなら切るぞ」
 なにかに集中してないと。
 いつもなら、夢原さんの詩集を読んでいるうちに父と母の声はすっかり聞こえてなくなる。
 それなのに、なんで今日は夢原さんに電話をかけてしまったんだろう。
 ベッドに横向きに寝転がった。
 子機を耳の下にして、反対側の耳を手で塞いだ。
 もはや「もしもし」しか言わなくなった夢原さんの声が、よく聞こえるようになった。
 同時に、父と母の声が、耳に入らなくなった。
「夢原さん」
「なんだ、やっとしゃべったか」
「わたしも、詩の朗読会に参加することにしました。わたしも詩を書きます。今日、本屋に行って、谷川俊太郎の『詩を書く』って、本も買ったんです。それから……それから……」
「世間話のために電話をかけてきたのか。切るぞ。朗読会で発表する詩が、まだできてないんだ」
「待ってください。わたし、たった今、詩を思いつきました。聞いてください。いきますよ。
 タイトル「娘、ゴッホになる」

 ゴッホのように
 耳を切り落としてしまいたい
 お父さん
 お母さん
 わたしは耳のない
 娘になりました

 どうですか、夢原さん?」
 夢原さんが、絶句している。
 我ながら傑作だ。きっと、わたしの秘めた才能に驚いているに違いない。
「君……」
「はい!」
「人格変わってるぞ……」
「えッ……」
「まぁ、よくあることだ。ふつうに暮らしてるような奴でも、詩を書くとなると、自分を百倍くらい不幸な人間に演出する。それも、ありきたりな不幸ばかりだ。ところで、谷川俊太郎の本はもう読んだか?」
「まだです」
「せっかくだ。詩を書くなら、それを読んでからでも遅くない」
 ……『俺は俺を尊敬する』と言って、高村光太郎さえけなしていた夢原さんが、谷川俊太郎の詩だけは認めてる?
「誤解するな。詩だけで見たら、俺のほうが上だ。だが、彼の詩に対する姿勢は、まぁ、評価してやってもいい」
「あの、もうひとつ……」
 言いかけたけど、電話はもう切れていた。
 『書店員の牛島さん』ってタイトルの詩も作ったのに……。
 こっちは、家に着く前、電車の中で思いついて書きとめたから、楽しくてとってもいい詩なんだけどなぁ。
 父と母が言い争う声が聞こえる中、ベッドの上で谷川俊太郎の本を読んだ。。
 読み終わって時計を見ると、深夜一時。
 いつのまにやら、家の中全体がしーんとしていた。
 詩を、たくさん書きたくなった。


十章から十三章まではこちら 長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)3/4 - 楽しい日記

長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)3/4

(十章から十三章まで)  
十章 いざ、討ち入りだ!


 詩の朗読会当日がやってきた。
 緊張している。
 あぁ。とっても緊張する。
「緊張しているようには見えないぞ」
 広げた手帳片手に、小声でブツブツ呟きながら仏間を歩き回っていた夢原さんが、こちらに向かって言った。
 わたしはダイニングテーブルで、三十分前から夢原さんのおじいさん、お母さん、と一緒にさやいんげんの筋を取っている。
 テーブルの上には、プラスチック製で色とりどりの、大小さまざまなボール。
 それら全部にいんげんが入っている。
 仏間を正面にして座っているわたしは、薄緑色のボールから顔を上げた。
「これでも緊張してるんですよ。家で五十回朗読してきたとはいえ、本番で緊張してつっかえたら恥ずかしいし、それに……」
「つっかえるかどうかより、肝心なのは詩の内容だろ。ぎりぎりまで推敲しようとは思わないのか。まぁ、君みたいに、お遊びで詩を書くような人間と俺じゃ、根本的にやる気の度合いが違うがな」
 夢原さんは、また手帳を見てぶつぶつ呟き始めた。
違うのに!
 緊張してるのは、つっかえるかどうかっていうことよりも……
 わたしは夢原さんの詩が好きだけど、もし、夢原さんの詩を聞いた人たちが、なんの反応を示さなかったら?
 それを間近で見たわたしは、それでも夢原さんの詩を好きだと言い切れるだろうか?
「あらあら。千歳ちゃん、そんな暗い顔しないで。和夫ったら、まったく、あんな言い方して。千歳ちゃんも、なんだかの発表会に出るんでしょ。こっちは気にしなくていいから、練習してていいのよ」
 仏間を背にして、わたしの向かいに座っているお母さんが言った。
「いえいえ。楽しいし、こうしてるほうが緊張がほぐれていいんです」
 それにしても、いんげんは大量。
 まだ筋を取ってないほうのいんげんが、減っている気がしない。
 どんどん筋を取っていく。
「こうしてね、安いときにたくさん買っておくの。筋を取って小分けに冷凍しておけば、そのまま茹でて、みそ汁の具なり、胡麻和えなりにできるでしょ」
「へぇー、そうなんですか」
「和夫だって、今日はあんなだけど……」
 お母さんが夢原さんを一瞬振り返り、またこちらに向き直り、微笑んだ。
「いつもは買い物にも行ってくれるし、料理もわたしより上手なくらいなのよ」
「はぁー。そうですね。きょうはあんなですけど。前に会ったときは、八百屋さんと魚屋さんで買い物をしてるのを見ました」
「ねぇー。そうでしょう。今日だけだから、あんななのは。だから勘弁してあげてね」
 わたしもお母さんも「あんな」「あんな」と言っているけど、夢原さんは、さっきより少しは落ち着いただろうか?
 もう一度、顔を上げて夢原さんを見た。
 歩き回っている夢原さんの……
 平衡感覚がおかしい。
「ハラ……テパ……ナ……ダダダダダダダ」
 耳を澄ますと、夢原さんの口から漏れる音が……
 日本語に聞こえない。
 うッ……。
 きっと、小さく呟いてるからそう聞こえるだけ。
 気にしないでおこう。
 平衡感覚がおかしいのも、きっと詩人には詩人の、詩を考えやすい歩き方というものがあるんだ。
 きっとそう。
 彼は夢原さん。詩の朗読会くらい、立派にこなしてくれるはず。
 だけど、もしも……
 もしも夢原さんが朗読会で観客を感動させられなかったら!?
 わたしが夢原さんの詩に感動できなかったら!?
 そのときは……
 わたしは夢原さんを尊敬できなくなる!!
 あ……あ……あ……
 それよりいんげんだ!
 そんな怖いことを考えるのはやめて、いんげんに意識を集中しよう。
「あ! おじいさん、違いますよ」
 隣に座っているおじいさんの持っているいんげんは、さっきわたしが筋を取ったいんげん。「こっちのボールの中のが、まだ取ってないいんげんです。もう、おじいさんたら、さっきも間違えましたよね」
「でも、ちーちゃん」
 ……え!? 「ちーちゃん」って、わたしのこと?
 子どもの頃から、あだななんてなかった。みんなに「森さん」って呼ばれてた。
 それなのに、おじいさんは「ちーちゃん」って呼んでくれた。
 嬉しいな。おじいさんに「ちーちゃん」って呼ばれて嬉しいな。
「ばあさんの妹も千歳さんっていって、ちーちゃんって呼んどったんよ。十も年下だから、そりゃあ、かわいいかったもんよ」
 おじいさんが、遠い目をして言った。
「そうですか。でもその千歳さん、もう亡くなられたんですね。今日からわたしがおじいさんの『ちーちゃん』に……」
「いや、生きとるよ。鎌倉に住んどる。よく鳩サブレ送ってくるが、あれはもう飽きた」
「……」
 いんげんをダイニングテーブルの下に落っことした。
 潜って拾う。
 ……あれ? ない。どこだ? あった!
 座り直した。
「ふぅー。それは良かったです。安心しました」
「ところで、ちーちゃん」
「はい。なんですか? わたし、ちーちゃんですよ」
「ちーちゃんが筋取ったっていういんげん、半分くらいしか取れとらん」
 おじいさんの持っているいんげんに、顔を近付けてよく見てみた。
「あ……」
「途中で、筋ちぎれて残っとる」
「あれ? れれれれれれ? はは、ははは。たまたまですよ」
 おじいさんの肩をポンと叩いた。
 おじいさんも、わたしの肩をポンと叩き返した。
「どんとまいんど」
 おじいさんが言った。
 お母さんが、見事な手さばきでいんげんの筋を取りながら、さっきから、わたしとおじいさんを見て笑っている。
「さて。わたしは今日の夕飯のいんげんを茹でちゃうから、おじいさんと千歳ちゃんは、引き続き、筋取りお願いね」
 お母さんが、いんげんの入ったピンク色のボールを持って、立ち上がった。
 そして、わたしとほとんど背中が触れ合いそうな距離で、いんげんを茹で始めた。
 鍋からの湯気で、さっきよりも部屋が暑くなった。
 ……はッ! お母さんはもっと熱いはず。
 お母さんがわたしのそばに置いてくれていた扇風機を、首振りモードから、固定に切り替えて、風がお母さんのほうに行くようにした。
 しばらくは、いんげんの筋取りに夢中になっていた。
 ふと夢原さんが気になり、見ると……
 はッ! 昼寝してる!
 夢原さんは、こちらに背を向け、畳みの上で寝ている。
 これでこそ夢原さん。
 喫茶店では挙動不審でも、詩に関してはいつも余裕のある態度を見せてくれるのが、夢原さん。
 そっと立ち上がって、夢原さんのそばまで行った。
「寝ている場合じゃないですよ。そろそろ出発しましょう」
 夢原さんの背中に向かって、声をかけた。
 返事はない。
 熟睡してしまったよう。
 黒い半袖シャツを着ている夢原さんの肩を、軽くゆすってみた。
「わッ!」
 ……シャツが汗でびっしょり。
「夢原さん、時間がないから、着替えるなら今のうちですよ」
 もっと、ゆすってみた。
 ゆすった拍子に、夢原さんの顔がこちらを向いた。
 だらんと死人のようにこちらを向いた夢原さんの額、髪の生え際、首、すべてにひどい汗。
 目が開いていない。
 これは……
 昏睡状態というものじゃないか!?
 たいへんだ!!
 急いで、お母さんとおじいさんを振り返った。
 お母さんは、いんげんを茹でている。
 おじいさんは筋取りに夢中。
 よし! 気付いてない。
 もしふたりが、夢原さんの体調の異変に気付いたら、朗読会への参加に反対するだろう。
 夢原さんの顔がおじいさんとお母さんに見えないよう、元通り、台所に背中を向けさせ、寝かせた。
「あら、ちーちゃん。和夫、寝ちゃってるの?」
 ……わッ! 心臓が止まるかと思った。
「あ、はい……そうなんです。余裕も余裕で、昼寝してます」
「時間は大丈夫?」
「えー、まぁ、そろそろ……。いえ、もうちょっと時間があります」
 おじいさんは、まったく気にする様子もなく、いんげんと格闘中。
 このままふたりに気付かれないうちに、意識のない夢原さんを引きずって朗読会まで行こう。
 おんぶをする姿勢を整え、夢原さんの両腕を、わたしの肩に乗せた。
 このままいっきに立ち上がる。
「うわーーーーー」
 夢原さんごと、畳の上に転んだ。
「痛い……痛い……いた……」
 夢原さんが、かろうじて意識を取り戻した。
 同時に、お母さんとおじいさんが気付いて、仏間に入ってきた。
「何遊んどるん? ふたりとも」
「あら? 和夫、顔、真っ赤じゃない。熱でもあるんじゃ……」
 寝ている……というより、途中で背負うのを断念したわたしのせいで、手も足も、あらぬ方向を向いたまま横たわっている夢原さんのおでこに、お母さんが手を当てた。
「おじいさん、手ぬぐい濡らしてきて。あと、体温計もお願い」
「はいはい。はいよ」
 お母さんは、仏壇の前の座布団をふたつ折りにし、夢原さんの頭をその上に乗せた。
 仰向けに寝かせ、手足の方向も整えた。
 それから、おじいさんの持ってきた手ぬぐいを夢原さんのおでこに乗せ、体温計を脇に挟み……
「これはだめだわ。千歳ちゃん、ごめんね。三十九度もあったんじゃ、行けないわ。きっと知恵熱ね」
 えー!? そんな……
 夢原さんが……すごい詩人の夢原さんが、詩の朗読会に行くというだけで、緊張して知恵熱を出すなんて。
 そんなの夢原さんじゃない!
 そんなの、ただの自信のない素人詩人じゃないか!?
「おじいさん、大丈夫ですよね。行けますよね。全然平気ですよね」
 立ったままのおじいさんを、すがるように見上げた。
「本人しだいだ。行きたいもんは行かせてやれ。諦めるっちゅうもんは、無理に行かせることはない」
 おじいさんが、きりりとした表情で言った。
「そんなこと言ったって、こんなひどい熱じゃ、行きたいも何も……しゃべれないみたいだし」
 お母さんが洗面器に水を張ってきて、何度も手ぬぐいを濡らし、取り換えている。
 焦点の定まらない目で、夢原さんがわたしに向かって手を伸ばした。
 こういうときは、病人の手を握るもの。
 ……あぁ。夢原さん。
 正座をし、夢原さんの手を握った。
「死なないでください。朗読会に参加してください。なんとしても参加してください。参加してください」
 手を払われた。
「……」
「手帳を……」
「はいはい。手帳ですね」
 畳の上に落ちていた手帳を、横たわったままの夢原さんに手渡した。
「あと……万年筆……」
 お母さんとおじいさんも見守る中、夢原さんは仰向きのまま、片膝だけを立てた。
 その膝の上で手帳を開き、万年筆を走らせている。
 手帳一ページ、めいっぱい使って書かれた文字。
 その一文字一文字が、とても力強い字で書かれていた。
『俺の平熱は三十九度だ!』
 ビックリマークが、やたらと大きかった。
 もう三人とも読んだというのに、夢原さんはそれを何度もわたしたちの顔のそばへ近付けてくる。
「わかった。わかったから」
 お母さんはそう言って、泣いているのかと思ったら、笑いを堪えていた。
 おじいさんは、黙って、うんうんと頷いていた。
 わたしはほっとした。

 夢原さんはなんとか自力で立ち上がり、玄関まで歩いた。
 夢原さんの長い髪はお母さんによって後ろで結ばれ、額にはおじいさんの巻いた濡れ手ぬぐい。額のちょうど真ん中にくるところに、「誠」の文字がプリントされている。
「この手ぬぐいはな、函館に住んどる『ちーちゃん』が送ってきてくれた。土方さんが付いとれば、熱なんて五分で下がる」
 ……おじいさん、さっき『ちーちゃん』は鎌倉に住んでるって。
「それより、駅までどうやって運ぼうかね」
 お母さんが言った。
「大丈夫だ。俺はひとりで歩ける」
「和夫、本当?」
 お母さんが夢原さんの背中に添えていた手を放した。
 夢原さんは玄関に崩れ落ちた。
 靴の上に座ったままの夢原さんに関係なく、わたしたち三人は相談を始めた。
「お母さん、わたしが背負って行きます」
「いや、わしが背負う」
「でもおじいさん、腰痛めたら、また接骨院通いよ」
「それもまた楽しみじゃ」
「だめです。わたし、いいことを考えました。おじいさん、お母さん、三人で力を合わせて運びましょう。いいですね、夢原さん?」
 夢原さんは何も言わず、苦い顔をしていた。

 玄関を出て、家のすぐ前の道路。
 おじいさんとお母さんが、左右で夢原さんに肩を貸している。
 わたしはというと……
 腰を落として、精一杯の力を込めて、夢原さんのおしりを押している。
「あッ! うわッ! だッ!」
 わたしに押されながら、夢原さんがもがいている。
「自分で歩けない人は、文句を言わないでください」
「あッ、でもね、千歳ちゃん。あんまり後ろから押すと、和夫の足が浮いちゃって、バランスが取れないみたいなのよ」
「え!? そうですか。じゃあ、もうちょっと軽く押したほうがいいですかね。あれ? おじいさん、どうしました」
「こッ、腰が……」
 おじいさんは、片手で腰を擦りながらも、夢原さんに肩を貸し歩いている。
「おじいさん、わたしが交代し……」
 そのとき、後ろからスピードを落して走ってきた白い車が、わたしたち四人のそばに横付けされた。
 車の前方には、見たことがあるマーク。
 この車は、高い車だ!
 サイドガラスが開いた。
 夢原さんと同じ年くらいの男性が、顔を出した。
 髪は短く、眼鏡をかけている。
 日焼けした肌だというのに、全然アウトドアな人に見えない。
 どことなく、繊細そうな雰囲気が、夢原さんに似ている。
「和夫」
 アウトドアだけど、アウトドアじゃない人が夢原さんの名を呼んだ。
「それに、おじいさん、お母さん、お久しぶりです」
「あら。茂典くん。ひさしぶり。近所に住んでるっていうのに、なかなか出会わないものね」
 お母さんは、夢原さんをちらちらと見ながら、なんだか気まずそうな様子。
 おじいさんは、あからさまにそっぽを向いて、茂典くんと呼ばれたその人と、目も合わせない。
「なんか、たいへんそうじゃないですか? 乗っていきますか。って言っても、全員は乗せられませんけど。病人ひとり運ぶくらいならまったく問題ありませんよ」
 茂典さんは、夢原さんの目をじっと見つめて言った。
 夢原さんも、茂典さんを見つめ返している。
 というよりも、夢原さんのほうは、ものすごい怖い目で茂典さんを睨み付けている。
「俺は病人じゃない!!」
 夢原さんが、両手をバッと開いて、おじいさんとお母さんを振り払った。
「いてッ! いててててて……。痛いじゃないか、和夫」
「あー、痛い」
 ふたりは、地面に手足を付いて痛がっている。
 わたしは呆気に取られ、立ちつくすことしかできない。
「悪い、じいさん」
 夢原さんが、おじいさんを助け起こした。
 おじいさんは、腰をさすっている。
「悪い、かあさん」
 お母さんは、擦りむいた脚を不満そうに見つめている。
「そういうわけだから、俺は病人でもなんでもない!
どうせ乗せてくったって、自分とこが経営してる病院に運ぶだけだろ。二代目は外車で病人集めか……。俺は病院なんて行っている暇はない!
行くところがあるんだ。やるべきことがあるんだ」
 「誠」と書かれた手ぬぐいからは、水がぽたぽた垂れていた。足がプルプル震えていた。
 それでも、夢原さんはかっこよかった。
 茂典さんは、寂しそうな目で夢原さんを三秒くらい見つめたあと、サイドガラスを閉め、近付いてきたときの三倍くらいのスピードで車を走らせ、去って行った。
 そこからは、わたしと夢原さんのふたりで駅を目指した。
 夢原さんは、いっさいわたしの手を借りようとしない。
「階段くらい、お手伝いさせてください」
「いや、いい。問題ない」
 階段では、何度も転げ落ちそうになりながらも、わたしの手どころか手すりにもつかまらなかった。
 土曜の夜七時。平日に都心から郊外に向かう電車ほどではないけど、電車の中はそこそこ混んでいた。
 優先席しか空いていない。
「夢原さん、病人なんだから座ってください」
「俺は病人じゃない。詩人だ」
「……」
 JRと私鉄、両方の電車が乗り入れる、駅に着いた。
 改札を出たところで、立ちつくした。
 改札のそばにも、近くのロータリーにも、二十歳前後の大学生らしき男女が大勢集まっている。
 鳩もたくさん集まっている。
 まわりを取り囲む雑居ビルには、消費者金融の看板がいっぱい。
 アコムアイフル、プロミス……
「森さん!」
 グレーのブレザーに、緑色のチェックのスカート。
 山口さんだ!
 学生や、鳩に紛れてロータリーに立っていた、山口さんが手を振りながら、こちらに駆け寄ってきた。
「あぁ、良かった。助かりました。ここ、学生街だから、サークルの待ち合わせの人たちでいっぱい。『君も参加しない』って、ふたりも声かけられちゃいました。わたし、どう見ても高校生なのに、変ですよね。……あれ?」
 山口さんが、夢原さんを見た。
「そちらの、新撰組みたいな格好をした方は?」
「あ! この人は詩人で……」
「や、山田……和夫と……いいます」
 夢原さんが、視線を細かく左右にさまよわせた後、頭を下げた。
 ……どうして!?
「なんで、夢原翼だって名乗らないんですか!?」
 夢原さんを睨んだ。
「俺は今回の朗読会で、山田和夫として、自分の力を試してみたいんだ」
「……」
 夢原さんなりの考えがあったんだ。
 詩を書いたり読んだりしない人に「夢原翼」と言っても、みんな誰だかわからない。
 だけど、これから行くのは、詩を書く人ばかりの集まりだ。
 夢原さんは、名前による力ではなく、本当の実力を試そうとしている。
「わかりました。や、山田さん、あなたの意思を尊重します」
 山口さんが、きょとんとした目でわたしたちを見ている。
「えーっと。こちらの方は、夢原さんってお名前じゃなく、山田さん……で、いいんですよね?」
「はい」
「山田と呼んでください」
 わたしと夢原さんが、同時に頷いた。
「山田さんって、ハチマキ? ……もそうだけど、顔立ちとかもちょっと、土方歳三っぽいですよね。美形だし」
 山口さんが夢原さんの顔を覗き込んでいる。
 覗き込まれるたび、夢原さんは顎に手を当て、所在なげに顔を背けた。
「ふふふッ。それじゃあ、山田さん、森さん、行きましょうか。地図によると、徒歩十五分ほだそうですけど、ふたりとも歩けますよね?」
 わたしは夢原さんを見た。
 顔が赤い。夢原さんの熱が心配だ。
 だけど夢原さんは、わたしをまっすぐ見据え、頷いた。
「森さん。白いサンダル、すっごいかわいいけど、足、疲れちゃわないですか」
 山口さんが言った。
「あ、はい。大丈夫です。今日は大切な日なんで、お気に入りのサンダルを履いてきました」
 それに、町内カラオケ大会に出場したときに着ていた水色のワンピースも着てきた。
 山口さんは、「正装」と言っていた制服。
 夢原さんは額に「誠」と書かれた、すでに乾いた手ぬぐい。
 学生グループが、ちらちらわたしたちを見ている。
 わたしたちというより、夢原さんを。
「いざ! 討ち入りだ!!」
 夢原さんが大声で言った。
「……あは……はははははは。……山口さん、ここ、笑うとこですよ。山田さんは、山口さんの『新撰組みたいな』という言葉を受けて、ギャグを言ってるんですよ」
 隣の山口さんに、小声でささやいた。
「え!? あ! そうだったんですか。あははははは。あは?」
 山口さんが、夢原さんをちらちら見て、『こんな感じでいいかな』と確かめながら笑った。
 カフェまで、三人、横一列に広がって歩いた。
 広がって歩くと他人の迷惑になるけど、そのほうが気合いが高まって、良い気分だった。
 三人とも、口には出さなかったけど、同じ気持ちのような気がした。


 十一章 たいへんだ! 友だちがいない


「あれが目印の点字図書館ですね」
 駅からずっと、チラシに印刷された地図を見ながら歩いていた山口さん。彼女が指差した建物を見た。
 ……なんだあれは!?
 たしかに図書館らしい大きさ。おそらく二階建て。
 そんなことより、建物の壁全体に、等間隔で鎖がぶら下がっている。
「な、なんですか?」
 山口さんを見た。
「謎ですね。点字図書館なんだから、壁に点字の点々が付いてるほうが、わかりやすい気がしますよね」
「でも、かっこいい建物ですね。ね? 夢……じゃなく山田さん」
 山田さんこと夢原さんは、通路の反対側、前方十メートル先を睨みつけていた。
「着いた! 俺たちの戦場だ」
 山口さんが、わたしのことを見て小首を傾げた。
「えーっと。山田さんって、とっても熱い方なんですね」
 夢原さんは、赤い顔をしてうつむきながら、競歩のような歩き方で先に行ってしまった。
 代わりにわたしが答える。
「はい。山田さんの詩にかける情熱は、日本一です」
「日本一ですか!? すごいなぁ。わたし、ちょっと緊張してきちゃいました」
 そう言いながらも、ゆったりとした調子で、チラシをブレザーのポケットにしまい、後ろ手に鞄を持って歩く山口さん。
「遅いぞ!」
 先に店の前まで着いたらしい夢原さんが、わたしを見て言う。
「わたしだけに言わないでください。ちゃんと山口さんともコミュニケーションしてくださいよ、山田さん。せっかく山口さんが話しかけてくれても、全然答えないじゃないですか」
 数メートル先の、夢原さんを見て言った。
 夢原さんが、わたしからも目をそらし、自分の足下をきょろきょろ見ている。
「いいんですよ。こうして、おふたりとご一緒させて頂いてるだけで、楽しいですから。急ぎましょう!」
 山口さんが走りだした。
「わッ! ……はい」
 わたしも後に続いた。
 ……ぎゃッ! ここか。
 立ち止まった。
 目の前にあるのは、外にまでテーブルと椅子のあるオープンカフェ
 そのオープンカフェで、白人男性が、コーヒーカップを傾けている。
 別の席に座る白人は、ノートパソコンを広げている。
 白人が……
 白人が……
 ふたりもいる!
 なんでこんなに外国人が多いんだ。
「ほんとにこの店で合ってますか? わたし、英語で朗読なんてできませんよ……」
 心配になって山口さんを見た。
「えーっと。朗読会が行われるのは、マシューズカフェで……」
 三人とも、テラスにせり出したグリーンのひさしを見上げた。
 そこには、白い字で、そして英語で「Matthew’S Café」と書かれていた。
「あー。わかりました」
 山口さんが言った。
「もしかして、わかったって……マシューズカフェというのは……」
「マシューさんのカフェって、ことみたいですね。ほら、エプロンをかけて店内にいるあの方、きっと……」
 ……マシューさんだ!!
 カーネルサンダースみたいだけど、ガラス越しに見える店内で、お客さんらしき白人女性と会話をしている人は、マシューさんだ。
 たいへんなところに来てしまった。
 こんな国際的なカフェ、山口さんは平気でも、わたしとそれに……
「山田さん!? いつの間に後ろに立ってるんですか? さっきまで、わたしたちの前にいたじゃないですか」
「いや、あ、あれだ。こ、こういうのはやっぱり、レディーファーストで」
「そうですか。じゃあ、お先に失礼して」
 山口さんが、ドアについた木製の取っ手に手をかけ、開けた。
 数秒後にはきっと……
 マシューさんを始め、店員さん達から、「ハロー」の挨拶が浴びせかけられる。
 そこからはもう、英語の世界。もはや英語圏
 山口さんが全開にしたドアから、店内をそーっと見る。
 やっぱりだめだ。店内にも、外国人の客が三人もいる。
 あと、二十五人くらいは日本人。それでも、こんなに外国人の多いカフェ、初めてだ。
 引き返すなら今。
 だけど、山口さんはずんずん中に入って行ってしまった。
 山口さんだけ置いて逃げるわけにはいかない。
 意を決して中に入った。
 マシューさんがこちらに気付き、わたしに向かって微笑みかけた。
 微笑むと同時に、白いあごひげが動いた。
 わー! とうとうマシューさんの口から「ハロー」が……
「いらっしゃいませ」
 マシューさんは、流暢な日本語でそう言った。
 続いて、カウンターの中にいる男性、女性、フロアにいる女性が、爽やかに……
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ。空いてる席へどうぞ」
 ……あぁ。
 気が抜けた。
 腰も抜けるかと思った。
 ほっとして、夢原さんを振り返る。
 同じく、緩んだ表情をしていた。
 それに気付かれたのが恥ずかしかったのか、夢原さんは緩んだ口もとを手で隠し、眉間をぴくぴく動かし、眉間にシワを寄せようとしている。
 ……なにはともあれ、一安心。これで、夢原さんが、外国人に怖じ気づいて朗読ができないなんてこともない。
 突然、緊張した面持ちの女性が、立ったままのわたしたちに近付いてきた。
 彼女は、カールした金髪に、眼鏡、花柄のワンピースを着た大柄な女性。ちっちゃな麦わら帽子が、頭の上に乗っている。
「わー、ロリータさんだぁ」
 山口さんが、小さく呟いた。
 そのロリータさんはわたしに、頭を下げた。
「はじめまして。あ、あの、アリエルと、申します。えーっとですね、あの、毎回、こちらの朗読会に参加させて頂くとき、自作の詩を印刷したものを、あの、えっと、皆さんに頂いてもらってるんですけど。すいません、あの……」
 アリエルさんは、縁無しの眼鏡を片手で押し上げながら、わたしに三枚綴じのA4用紙を差し出した。
「ありがたく、いただきます」
 アリエルさんから受け取った用紙に目を落とした。カタカナばかりの文字と、それに、目玉とか、手がもげて、綿のはみ出したウサギのぬいぐるみのイラストが書かれていた。
 一枚、二枚、と、その場に立ったまま、めくってみた。
 アリエルさん……
 違う!
 最後のページに「亜莉ゑ瑠」と書かれているから、亜莉ゑ瑠さん。
 ……これは、えーっと。ちょっと怖いけど、頂いたからには大事に持って帰ります。
 亜莉ゑ瑠さんは、山口さんにも夢原さんにも、わたしに言ったのとまったく同じ台詞を言いながら、用紙を渡している。
 わたしはその間に三人座れる席を探す。
 うーん……。
 ひとつ、ふたつと、空いた椅子はちらほら見かけるけど、三人となるとなかなか……。
 店内はすでに満席に近い。
 空いていると思っても、よく見ると鞄が椅子の上に置いてある。
 席から立ち歩いてよその席に座っている人のそばに立ち、話をしている人がたくさんいる。ふつうのカフェでは見かけない光景。
 「おひさしぶり」とか「前回は即興だったけど」とか、そんな言葉が聞こえてくる。
 亜莉ゑ瑠さんがわたしたちのそばから離れて行った。そして、マイクスタンドの置かれた即席舞台のそば。一番前の席まで行き、椅子の上に置いてあった茶色いトランクを床におろし、座った。
 服装から見て、そのトランクは亜莉ゑ瑠さんの持ち物には見えない。
 大丈夫なのかなぁ。他の人のトランクどかしちゃって……。
 それにしても、三人座れる席がないなぁ。
「はじめて参加される方たちですか?」
 立ち歩いて、いろんな人に声をかけていた男性が、夢原さんに声をかけた。
 夢原さんは目をそらし、口籠もっている。
 顎に手をあて、しばらく夢原さんの返答を待っていた彼は、壁際、ドアに近い席を指差した。
「あっち、詰めれば三人座れるからどうぞ」
 物腰の柔らかい男性だった。
 六人座れる大きなテーブルには、すでに四人が座っていたけど、彼が近くから椅子を持ってきてくれ、三人とも座れた。
「エントリーはもうされました?」
 わたしに向かって、その人が聞いた。
「あ、あの、まだなんです」
「ここ、混雑してて、歩き回るの大変でしょ。僕、行ってきてあげますよ。あ! 僕の名前、松森優真って言います。あなたがたは?」
 松森さんにそれぞれ名乗って、エントリーをお願いした。
 松森さんは、すいすいとテーブルや人の間をすり抜け、天然パーマの髪を短く切りそろえた四十代半ばくらいの男性のところに行き、少し話すと戻ってきた。
「あの人が、主催の根岸健さん
 根岸さんがこちらを見て、小さく頭を下げた。
 やさしそうな人だ。小学校の先生みたいな雰囲気。
 わたしも、にこにこと頭を下げた。
 山口さんは遠くにも関わらず、「はじめまして。山口です」とよく通る声で言い、手を振っている。
 夢原さんは、なにかリアクションを返したんだか返してないんだか、見そびれた。
「はい。これ、三人分」
 松森さんが、左手に持ったお年玉袋のようなものを一枚右手に持って夢原さんに渡しては、両手を合わせ、山口さんに渡しては両手を合わせ、という動作を繰り返している。
 なんだか……かわいい動き。
 わたしも最後に松森さんからお年玉袋を受け取った。
「ありがとうございます。あの、ところでこれ……」
「投票袋です。最後に、気に入った詩を朗読した人の名前を書いて、中にはお金を入れて、主催者の根岸さんに渡すんです。それで今夜のチャンピオンが決まるってわけ。金額は自由だし、気に入った詩がなかったら、投票しなくてもいいんですよ」
 わー。そんなこと……
「チラシに書いてなかったぞ」
 夢原さんが身を乗り出して松森さんを責めるかのような口調で言った。
「あらあら、根岸さんたら。あの人、まじめそうに見えて意外にてきとうだから。ま、それが彼のいいところでもあるんだけど」
 夢原さんの態度にも、松森さんは嫌な顔ひとつしなかった。
 それどころか、初めて参加するわたしたちに、朗読会のシステムを教えてくれる。
「朗読する順番は、根岸さんのその日の気分で決まる」
 ……えー!! ということは……
「初参加のわたしが一番に呼ばれる、なーんてこともあるってことですね。いやぁ、ほんとてきとうだなぁ、根岸さん」
 松森さんの言葉を聞いて焦っているわたしとは対称的に、山口さんがのんびりと答えた。
 山口さん……
 思っていた以上に大物だ!
 夢原さんは、素知らぬふりをしながらも、松森さんの言葉に聞き耳を立てているのは一目瞭然。いつ自分の順番が来るかわからないという松森さんの言葉を聞こえてからは、足を何度も組み替えたり、乾き切った手ぬぐいの位置を直したりして、あからさまに落ち着かない様子に変わった。
「あとそれからね、朗読会やってる夜は、店員さんも、呼ばなきゃ絶対に水も持ってこない」
 松森さんが言った。
「あ!」
 声をあげたのは、夢原さんだった。
 隣に座る松森さんから目の前の夢原さんに視線を移すと、左手は手ぬぐいをいじったまま。右手は、ちょうどコップを握るような形で、テーブルの少し上で小刻みに震えていた。
 ちょうど水を飲もうとしたところらしい。
 松森さんと山口さんは、夢原さんの、その手に気付いていない。
 わたしだけが「気付いてますからね」という視線を夢原さんに送った。
 夢原さんは目をそらし、空中でコップの形をさせていた手をぎゅっと握り、床に何かを振り落とす動作をした。
 蚊?
 ……を潰すパントマイムでごまかした?
「そういえば、『いらっしゃいませ』って言われて以来、店員さんにまったく声かけられてないですね」
 斜め向かいに座る山口さんが、わたしをまっすぐ見て言った。
「え、あ、はい。そうですね。なんか、水があると思ってた人もいますけど」
 夢原さんをもう一度見た。
「月に二回、朗読会のときは、どうぞ皆さん、てきとうにやってくださいっていう自由な店なの」
「すいませーん」
 山口さんがさっそく店員さんを呼んだ。
 水がきた。
 頼んだ飲み物も、後からやってきた。

「はじめまして森千歳です」
「あ、は、はじめまして。山田、和夫です」
「山口奈津です」
 同じテーブルに相席で座っている人たち、松森さんのように、混雑した店内もなんのそのと、わざわざ人やテーブルをすり抜けて、わたしたちに声をかけにきた人、何人もの人に名前を名乗った。
 ほとんどの人が、ふつうのサラリーマン風の人、OL風の人。
 でも、たまに変わった人もいる。
「はじめまして、だにゃん」
 一見まじめな銀行員風の女性がわたしの隣に立ち、猫のぬいぐるみを動かしながら声をかけてきた。
 わたしはびっくりして、声が出ない。
 夢原さんも。
 山口さんだけは、すぐさま手を伸ばし、猫の頭を撫でている。
「うわー。かわいい。この子の着てるお洋服、手作りですか?」
「違うにゃん。犬の洋服専門店で買ったんだにゃん」
「きゃー。猫なのに犬のお店で買ったんですねー。おもしろーい」
 山口さん……すでにこの店にとけこんでいる。
 だけど、わたしと夢原さんは、話しかけられれば話しかけられるほど、表情がこわばっていく。
 松森さんが、持ち主から猫を借りて、携帯電話でじぶんと猫の写真撮影を始めた。
 撮影者は猫の持ち主さん。
「あ! わたし、ここにいると、写っちゃうんで、どきますね」
 椅子ごとずれようとした。
「いやだ。写って写って」
 松森さんが、服を着た猫を動かし、わたしの顔の前で首を左右に傾けさせた。
 なんだか、服を着た猫は、てるてる坊主に見える。
「はい。じゃあ、遠慮なく」
 松森さんと猫に身を寄せ、携帯電話に向かって笑う。
「わたしも森さんと撮りたいにゃん」
 撮影者交代で、猫の持ち主さんとも写真を撮った。
 もしかしてわたしは……
 ここで、受け入れられている?
 山口さんを見ると、彼女と話したい人、男の人も女の人もさりげなく列をなしていて、その列は、ずっと奥の、トイレのほうまで続いていた。
 夢原さんはといえば、椅子に座った女性たちからの、さりげない視線を集めている。整った容姿のためか、「誠」の手ぬぐいのためか……
 わからないけど、そんな夢原さん本人は、さっきから三十代半ばの男性と話をしている。
 ……あぁ、やっぱりわたしは!
 わたしたちは……
 受け入れられている?
 でも、人ってそう簡単に、受け入れてくれるものだろうか?
 二年間短大に通っても、いろいろなところでバイトしても、こんなふうに受け入れてくれる人たちはいなかった。
「はーい。森さん、恵ちゃん、猫ちゃーん、もう一枚」
 松森さんが再び携帯電話をこちらに向けた。
 そして携帯電話越しに、口もとだけ見える松森さんが言った。
「森さん、わたしゲイなの」
 椅子に座ったわたしの横で腰をかがめ、携帯電話を見つめる猫の持ち主さん……恵さんは、笑顔でまっすぐ携帯電話を見つめたまま。
 さっきまで白人に怯んでいたわたしが、初めてゲイの人に会ったというのに……
「はじめまして」
 ……びっくりもしないし、戸惑ったりもしない。
 横の恵さんと同じように、自然な笑顔なのが自分でもわかる。
「はじめましてって……もうずっとさっき、その挨拶聞いたわ」
 松森さんが携帯電話を下げて、わたしを正面から見つめた。
「あはは、はは。そうですね」
「ここは、誰でも受け入れてくれる、わたしにとって大切な場所。みんなにとっても、大切な場所」
 ……わたしもここを、大切な場所だと思っていいんだ!!
「そうだ、にゃん」
 わッ! いつのまにか恵さんの手から、また松森さんの手に猫が渡っている。
「いいかげん帰りたいって言ってるー。その子はわたしのことが一番好きなの〜」
 恵さんが、松森さんの持っている猫に手を伸ばした。
「はいはい。もうお帰り。ありがとね、恵ちゃんと猫ちゃん」
 松森さんは彼女に猫を返し、彼女と猫に手を振った。
 彼女もわたしと松森さんに手を振って、猫を大事そうに抱きながら席に戻って行った。

「では、そろそろ、朗読会を始めたいと思います。今日もたくさんの人に集まっていただき……」
 根岸さんの、マイクを通した挨拶が始まった。
 立っていた人たちが、次々と自分の席に戻って行く。
「夢原さん、さっきの人と、なんの話をしてたんですか」
 向かいに座る夢原さんに、小声で聞いてみた。
「いや、ちょっと、あの、詩の話だ」
 夢原さんは、うつむいた。そして付け足した。
「ここ……いいところだな」
「はい。わたしもそう思います」
 根岸さんのほうに向き直った。
「えー。今日のお題は、前回告知していたとおり、『友』です」
 ……え!
 わたし、夢原さん、山口さんは、顔を見合わせた。
 どうしよう。わたしの用意してきた詩は、「短大のときひとりで行った動物園で見た、オオサンショウウオがかわいかった」っていう内容の詩。それから家族のことを書いた詩。
 あともうひとつは、タイトル『書店員の牛島さん』。その三篇しかない。
 三篇とも、友だちの詩なんかじゃない。
「お題があったんですね。でも、ちょうど良かった。わたしの用意してきた詩、友だちの不運な境遇を書いた詩なんで、テーマにぴったしです」
 山口さんが、うさぎのキャラクターの書かれたスケジュール帳を開き、それを見ながら言った。のぞき見ると、今日の日付のところに、わたしには絶対書けないような小さな文字で、詩らしきものがびっしりと書かれている。
「俺は……俺は……俺は」
 夢原さんはいつものモレスキンを、ものすごいスピードでめくっている。
 よく見ると、手が震えている。
「仕方ない。この詩を披露するしかない。仕方ない。緊急事態だ。やるしかない。仕方ないんだ」
 ふたりとも、友だちのことを書いた詩があるらしい。
 だけど、わたしにはない。
 ひとり何篇くらい読むのかわからないから、三篇用意してきたけど、その中に友だちについて書いた詩は一遍もはなかった。
 ……違う。
 何篇用意してきても、わたしの持ってきた詩に、「友だち」の詩はなかったはず。
「どうしたんですか? 森さん」
 涙ぐんでいるのを隠すため、目が痒いふりをして目元を掻いていたら、斜め向かいに座る山口さんに気付かれた。
「友だちが……友だちが……いません」
「あ、えっと、てきとうに、小学校の頃とか思い出して……」
 司会の根岸さんの、「では一番バッターは、松森さん」という言葉で、わたしと山口さんの会話は打ち切られた。
「え! わたしからー? 根岸さん、いつも思うんだけど、その順番、どうやって決めてるの」
「早く朗読したそうな人順」
 マイクをマイクスタンドに戻し、近くの席に腰を下ろした根岸さんが、手をメガホン代わりにして叫んだ。
 あちこちから、笑い声が聞こえる。
「さぁ、松森さん早く」
 根岸さんに急かされ、松森さんが立ち上がった。
 椅子を引いて、隣の席の松森さんを通してあげた。
「皆さん、どうもー。今日も二丁目から来ました。友だちといえば、ここで会った人、全員友だちみたいなものだけど、高校のときの友だちについて話します」
 マイクを手にした松森さんは、観客を隅々まで見渡しながら話している。
 ……あぁ。お題にそった詩を読むだけでなく、その前に、詩に出てくる友だちのことや、友だちというものに対して思うこと、そういったことを話すようになっているらしい。
 読める詩がないばかりか、語ることもない。
 松森さんは、ここで出会った人全員友だちみたいなものというけど、わたしはまだ、そこまで思えない。
「その友だちとは、のちに恋愛関係になって、破局〜。だけど、友だちだったときが、一番楽しかった、かな。では、聞いてください。タイトル『部室』」
 松森さんが詩を朗読している。
 役者さんみたいに通る声。
 さっきまでと違って、凛々しいとすら感じる。
 客席を見ると、みんなの視線が松森さんに集まっていた。
 こんな中わたしは、名前を呼ばれて前に出て、「友達はいません」と言わなきゃならないのか。
 山口さんと夢原さんには悪いけど、今すぐ帰りたい。
 ドアを見た。逃げ道確認。
 ドアの近くに、牛島さんみたいに、背も横幅も大きい人が座っているのを見つけた。
 スーツに、迷彩柄の帽子、サングラス、という不思議な出で立ち。
 隅のほうで、ビールを飲みながら、松森さんの詩を聞いている。
「さん……森さん、大丈夫ですか? 読む詩がなくて、たいへんなんじゃ……」
 山口さんがわたしに声をかけてくれた。
 ずっと前から、話しかけてくれてたのかもしれない。
 牛島さんに体形の似た人を観察するのに夢中で、松森さんの詩も、山口さんの声も耳に入っていなかった。
 ……決めた!
 わたしは、『書店員の牛島さん』を朗読する。
 バイト先の店長が怖くて、書店員はみな怖い人なんじゃないかと思うようになった。そのせいで、他の本屋に行ってもびくびくした。
 だけど、牛島さんは、書店員にもこんなにいい人がいるんだと教えてくれた。
 友だちには……
 後からなればいい。
 わたしはいつか必ず、書店員の牛島さんと友だちになる。
「あの、わたし、森さんのこと、もう友だちと思ってますよ」
 ……牛島さん、牛島さん、牛島さん、牛島さん。
 『夢原翼調査書』と書いた文字を二本線で消し、新たに『詩のノート』と書いた大学ノートを開いた。
 あった! この詩だ。
 これを読もう。
「あのー、森さん……」
「え? あ、はい。なんですか、山口さん」
「大丈夫ですか?」
「はい! ご心配おかけしましたが、もう大丈夫です。朗読する詩が決まりました」


 十二章 牛島さんと友だち


「俺には親友がいた。まだ学校にもあがっていない頃だ。あいつはよく俺の家に遊びに来たが、決して自分の家に来いとは言わなかった。子どもながらに家が嫌なんだろう、俺の家にいるほうがあいつにとって居心地がいいんだろうと理解した」
 夢原さんが、マイクを使っているというのに、耳を澄まさないと聞こえないような小さい声で、ぼそぼそとフィクションを語っている。
 夢原さんに聞いたわけではないけど、この語りは絶対にフィクション。
 夢原さんもわたしと同じように、子どもの頃から友だちがいなかったことは、現在の夢原さんを見ればわかる。
 それよりも早く、夢原さんの詩が聞きたい。
 早く語り終わって、詩を朗読してくれればいいのに。
 朗読会が始まって一時間後の八時半に一部が終了し、十分の休憩を挟んで二部が始まった。
 夢原さんは二部が始まってすぐに、根岸さんから指命を受けた。
 一部、二部と分かれてはいても、一部にまだ朗読してない人が指命されるだけで、一部と違ったことをするわけではない。
 一部が終わった休憩時間。松森さんは「森さんたちの詩、とっても聞きたかったんだけど、今日はこの後デートなの」と行って、帰ってしまった。
 山口さんは携帯電話を見て「五回も電話してきてる」と呟くと、誰かに電話をかけていた。
「友だちと一緒だから心配しないで」
「わたしばっかり束縛しないでよ」
 あんまり聞いちゃ悪いと思って、わたしはトイレに立った。
 そういえば、山口さんはまだ高校生。家で、お父さんやお母さんが心配しているのだろう。
 わたしも家に電話を入れようかと思って、やめた。
 わたしはもう二十三歳。いくら今まで友だちも出かける場所もなくて、夜に外出をしたことがなかったからといって……
 ……はー。
 父と母は、わたしが家にいるのが嫌になって家出したと思っているだろうか。
 いやいや。父も母も、わたしが家を嫌がっていることに気付いているはずない。
 そんな気の付く人たちだったら、しょっちゅうわたしの聞こえるところで言い争いをするはずはないんだから。
「中学から、あいつは私立に行った。俺は当然公立だ。中学、高校と、学校は違うがときどき会った。学校と塾の両方で忙しくなったあいつとは、月に一度しか会わないこともあったが、それでもときどき会っては……」
 夢原さんの語りは続いている。
 順番が来るまでに考えておいた台詞を忘れちゃったのか、夢原さんはそこから随分長いあいだ、黙り込んでいた。
 今まで、ぼそぼそと小さな声とはいえ、下書きしたものを見るでもなく、つらつらと語っていたというのに……
 どうしちゃったんだ?
「どうしちゃったんですかね」
 山口さんも不思議そうに首を傾げた。
 ふたりで夢原さんを見つめ、待った。
 やっと、夢原さんが口を開いた。
「あいつと俺は……あいつと俺は……お互いの書いた詩を見せ合い……意見を交換し合った。小学校低学年まではただの遊び友だちだったが、いつしか俺らは……俺らは」
 夢原さんの声が震えている。
「同じ夢を追う同士となっていた。だが、あいつは……」
 そこで夢原さんが……
 夢原さんが!
 腕で目元を隠しながら、号泣した。
「ブラボー」
 白人男性が、満面の笑みで手を叩いた。
 ……あー。これは完全に夢原さんの演出だと思われている。
 たしかに、「誠」のハチマキ姿には、男泣きがよく似合う。
 だけど、フィクションは語ったとしても、夢原さんが過剰演出をするはずはない。

 一部では、いま手を叩いている白人男性が、日本人女性とともにふたりで朗読を行った。
 と言っても、詩を朗読するのは女性だけで、女性が発する言葉の合間、合間に、男性は用意してきた小鼓を打っていた。
「あれじゃ、行間もなにもあったもんじゃない」
 夢原さんは呟いていた。
 亜莉ゑ瑠さんの朗読が終わった後なんて、「まるで学芸会だな」と吐き捨てるように言った。
 亜莉ゑ瑠さんの演出は、本当にすごかった。
 学芸会なんてものじゃない。
 ひとり芝居だ!
 マイクスタンドのある即席ステージに椅子をみっつ並べ、そのひとつに彼女が座り、あとのふたつには、黒と白のウサギのぬいぐるみをそれぞれひとつずつ置いた。
 その状態で、亜莉ゑ瑠さんの朗読は始まった。
 亜莉ゑ瑠さんは、黒いウサギを抱き寄せ、『白雪姫』で「鏡よ鏡よ鏡さん……」と言う継母みたいな口調で言った。
「ウサギさん ウサギさん」
 腰を浮かせ、椅子ひとつ挟んだ白いウサギも持ち上げ、抱き寄せて言った。
「ウサギさん ウサギさん わたしのかわいいウサギさん あなたたちだけがわたしの友だち」
「あれはウサギじゃないですよ」
 ちょっと前に、「皆さんの読む詩、難しくて意味がわかりません」と呟いてからは、開いたスケジュール帳の上に突っ伏して、机の上を眺めたり、ときどきは朗読する人をちらちら見るだけだった山口さんが、小声だけど興奮した口調でわたしに語りかけた。
リサとガスパールと言って、ウサギのようでもあり、犬のようでもありますが、その実、どっちでもない。架空の生き物っていう設定の、外国の絵本に出てくるキャラクターなんですよ。ほら」
 山口さんが、自分のスケジュール帳を掲げて見せた。
 亜莉ゑ瑠さんのいま撫でているぬいぐるみと、山口さんのスケジュール帳の挿し絵を見比べた。
 ……うわ! 気付かなかった。
「ほんとに同じですね。ウサギじゃないんですね」
「ウサギじゃないんですよ」
 小声で笑い合った。
「だけど! こんなもの! こんなものー!」
 突然、亜莉ゑ瑠さんの叫声が聞こえて、びっくりしてステージを見た。
 亜莉ゑ瑠さんは、隅に置いて合ったトランクを引き寄せた。
 ……あ! あのトランク、亜莉ゑ瑠さんのだったんだ。
 トランクを開けると、リサとガスパールを投げ捨てるようにトランクに入れ、ぎゅうぎゅう押し込み、ふたを閉めた。
「トランクに詰め込み 海に投げ捨て わたしはひとり ゆく」
 ……亜莉ゑ瑠さんが!
 リサとガスパールを詰め込んだトランクを持って……
 本当に行ってしまった。
 店を出て行ってしまった。
 ……どうするんだろう?
 亜莉ゑ瑠さん、飲み物だけじゃなくベーグルサンドとかサラダとか、デザートまで食べてるのが見えたけど、あれ全部、無銭飲食!?
 数十秒後、亜莉ゑ瑠さんはふたたびドアを開け、店の中に入ってきた。
 客席からは、笑いと拍手。拍手より、笑い声のほうが大きかった。
「いつも楽しい演出で楽しませてくれる亜莉ゑ瑠さんですけど、今日は、寅さんのように颯爽と去って行かれましたね。では、次は……」
 根岸さんが、にこにことコメントを言い、亜莉ゑ瑠さんは使った椅子を元の位置に戻した。
 そのときに、夢原さんは言った。「まるで学芸会だな。ここにいる奴らは、心を動かされたいんじゃなく、笑いたいだけだ」って。

 それなのに、今、「誠」のハチマキを巻いて、とうとうステージ上で泣き崩れ、床に手を付いている夢原さんは、白人男性に笑われている。
 彼につられ、「これは演出なのか」と勝手に思い込んだ人たちの笑い声が、あちらこちらから漏れる。
 そんな事態にやっと気付いたのか、夢原さんは立ち上がった。
 額のハチマキを引きちぎるように取ると、それで涙を拭いた。
 そして、投げ捨てた。
 ハチマキが宙を舞い、余計に笑いが起きた。
「べらべらしゃべるのは、ここまでだ。お前らとは違う、本当の才能というものを見せてやる。聞かせてやる。これがわかんないなら、一生こんな場で馴れ合いの関係に満足していればいいさ」

 詩の朗読を終えた夢原さんが、戻ってきた。
 椅子を引いて、席に付いた。
 ステージでは、もう次の人が、「友だち」についてのエピソードを語っている。
 夢原さんが朗読しているあいだ、それに、夢原さんがステージからここに戻ってくるまでの何十秒かのあいだ、夢原さんに言うことを何度も頭の中で繰り返し呟いていた。
 『素晴らしかったです。感動しました。わたしにも、そんな幼なじみがいたら良かったなって、思いました。でも、友だちの裏切りは許せません。絶対見返してやりましょう』
 決めておいたのに……
 決めておいたのに……
 言葉が出ない。
 夢原さんは、テーブルの上に肘を付き、組んだ両手の上に顎を乗せている。
 朗読している人を見ようともしないし、わたしと目を合わせようともしない。
 険しい表情だけど、本当は落ち込んでいるのかもしれない。
 夢原さんの朗読の後、拍手の音はとても小さかった。
 夢原さんの言うとおり、笑いをとるような内容の詩を読んだり、演出をしたりした人への拍手は大きい。
 わたしだけでも、『感動しました』って、夢原さんに言わないと。
「あの、夢原さん」
「山田と呼べ」
「あ、そうだった。山田さん……」
「何も言うな」
 ……え?
「前に立つと、客席の反応がよく見えるんだ」
 ……やっぱり夢原さんは客席の反応がよくなかったことを気にしてる。
「君の反応を見ていた」
 ……何度も目が合うのは、気のせいだと思っていた。
「何も言わないでくれ」
 それきり、夢原さんは黙ってしまった。
 わたしは、他の人が朗読中だというのに、席を立ってトイレに行った。
 個室に入り、便座のふたを閉めて、その上に座る。
 壁には、演劇やコンサート、水墨画教室、「宇宙を語る」講演会……ハガキサイズのチラシがたくさん貼られている。
 顔を手で覆った。
「なんでだ。なんでだ。なんでなんでなんで。なんで夢原さんの詩なのに……なんで感動できなかったんだ。前に見せてもらった詩には、とても感動したのに。うわーん。なんで……」
 涙が止まらない。
 独り言も止まらない。
「夢原さんなんだ。夢原さんなのに。夢原さん、夢原さん、夢原さん……」
 立ち上がって、壁に貼られたチラシを一枚はがし、びりびりに破いて床に捨てた。
 もう一枚はがし、捨てた。
 はがし、捨てる。
 はがし、捨てる。
 はがし、捨てる。
 床を見た。
 ……あぁ。紙吹雪みたい。
 演劇のチラシは人の写真が写ってるから、ちょうど手の部分だけや、足だけの部分の紙があって気持ち悪い。
 それでも全体的に見ると、とてもきれい。
 ……あぁ。きれいだなぁ。
「ははは。ははは。……はー。なんで……」
 トイレのドアが、ノックされた。
 ……うわー! どうしよう。
 どうにもならない。
 こんな状態、他人に見られたら、何も言い訳できない。
「あー! うわー! ぎゃー!」
「も、森さん……。あの、次、森さんの番だって、呼ばれてますけど。探されてますけど」
 山口さんの声だった。
「あの、山口さん。トイレには……入りませんよね」
「はい。今は入りませんけど」
 山口さんに見えないように、紙吹雪を足でなるべく奥にやってから、ドアをほんの少し開けた。
 その隙間から、山口さんの笑顔が見えた。
 夢原さんの詩のことは、とりあえず忘れよう。
 夢原さんに才能がないなんてことはありえない。
 わたしが、学芸会みたいなこの場に馴染んでしまった、本当に良い詩に感動できない、だめな人間なだけなんだ。
 トイレから、おそるおそる外に出た。
「緊張しちゃいましたか」
 山口さんが、わたしの手を握り、そのまま席まで連れて行ってくれた。
 その後は、大学ノートを胸に抱え、マイクスタンドに向かってひとりで歩いた。
 振り返って夢原さんを見たら、目が合った。
 目を、そらされた。
 ごめんなさい。感動できないばかで、ごめんなさい。

「あ、えっと……」
 背伸びして、マイクスタンドにセットされたマイクに向かって声を発した。
 足がつる。顎が筋肉痛になる。
「これ、取れるからね。それとも、マイクスタンド低くする?」
 根岸さんが中腰の姿勢で寄ってきて、マイクスタンドからマイクを取ってくれた。
「あ、すいません。じゃあこれ、お借りします」
 根岸さんからマイクを受け取った。
 深呼吸。
 マイクに息を吐きかけ、「ゴー」という音が店内に響くと、また小鼓の白人男性が盛大に笑った。
 山口さんも笑っていたけど、それはやさしい微笑みで、それと同時に、「がんばって」というジェスチャーを送ってくれた。
 短大のときに出た、町内カラオケ大会を思い出す。
 「もうどうとでもなれ」と思うと、わたしは強い。
 夢原さんを恐る恐る見た。
 下を向いて、わたしのことなんて見ていない。
 わたしは夢原さんに嫌われた。夢原さんの詩を理解できないわたしから、夢原さんは去って行く。わたしは……夢原さんを失った。
 もう、どうとでもなれ!
「森千歳です。よろしくお願いします。えっと、わたしには友だちがいません。友だちになりたい人ならいます。ほんとは、あとふたり、友だちになりたい人がいたんだけど、ひとりとはたぶん今日限り会えなくて、わたしはその後、路頭に迷うことになります。でも、そのことは、いまは忘れて、『書店員の牛島さん』というタイトルの詩を朗読します。牛島さんとは、まだ友だちじゃないけど、後から絶対友だちになるので……嘘じゃないので、この詩を読ませてください」
 夢原さんが、顔を上げるのが見えた。
 こちらからは、客席が本当によく見える。
「『書店員の牛島さん』
 のっそのっそ 脚立が動いた 近付いてきた
 わたしは驚き 飛び退いた
 怖かった 嫌な思い出 蘇った
 怖がるわたしに 牛島さんは
 棚から本を取ってくれた 脚立を持って去ってった
 のっそのっそ 脚立とともに 去ってった
 手のひらに 温かい本が残った」
 朗読し終えると、おじぎをした。
 なんだか照れ臭い。本当に、学芸会みたいな照れ臭さ。
 だけど、なんだかやり遂げた満足感もある。
 ガタガタッ。
 ドア近くの席に座っていた、スーツを着て迷彩柄の帽子をかぶり、サングラスをかけた、牛島さんのように大きな体をした人が立ち上がった。
 客席中が彼に注目する。
 彼は帽子を取り、サングラスも取り、わたしをじっと見据えた。
 目からは涙が流れ続けている。
 五メートルくらい離れた距離で、見つめ合う。
「牛島さん!」
「はい。牛島です。素晴らしい詩をありがとうございました」
 牛島さんは、わたしに向かって深々とおじぎをすると、帽子とサングラスの他に、黒い鞄も持って、店から出て行った。
「ほのぼのとした詩でしたね。では、ここでまたいったん休憩を挟んだあと、第三部に入ります」
 席まで戻ろうと歩いている最中、根岸さんの声が聞こえた。
 自分の席じゃなく、さっきまで、牛島さんの座っていた席に駆け寄る。
 テーブルの上には、伝票と千円札三枚。封筒がふたつ。ひとつは、投票袋。
 ……あ!
 投票袋を裏返すと、万年筆で書いたと思われるきれいな字で、「もりちとせさん」と書かれていた。
 それに……
「あー!」
 もうひとつの封筒には、「牛島徹」と牛島さんの名前が書いてあるけど、裏返したら「辞職願」と書かれていた。
 山口さんと夢原さんが、わたしのそばに立っていた。
「わたし、追いかけます! 牛島さんを追いかけます」
「なんのためにだ!?」
 夢原さんが訊いた。
「思いとどまらせないと。牛島さんに、書店員を辞めてほしくないんです」
「でも、ここに置いていったってことは……」
 山口さんが、夢原さんを見た。
 夢原さんが頷いた。
 ふたりが何を考えているのかわからない。
 ここに忘れていったからといって、辞職願なんて何枚でも書ける。家に帰って牛島さんが辞職願を書いて、明日の朝提出してしまったら、牛島さんはもう書店員じゃなくなってしまう。
 あんなに素敵な書店員、他に会ったことないのに。
 辞めちゃだめだよ、牛島さん!
 牛島さんのテーブルの上にあったものを全部かき集め、牛島さんの会計と自分の会計を済ませた。
「わたし、牛島さんを探します」
 トートバックを肩にかけ、山口さんと夢原さんに向かって宣言した。
 山口さんが右手を挙げた。
「はい! わたしも手伝います」
「え!? でも、山口さんは、まだ詩の朗読が……」
「とっくに終わりましたよ。森さんがトイレに篭っているあいだに」
 山口さんはすばやい動作で根岸さんのところに挨拶に行き、その後、会計をするためレジに向かった。
「夢原さん。夢原さんは、残ってくださいね。投票が残ってるし。夢原さんはチャンピオンに……」
「なれると本気で思っているのか?」
「……」
「なれたとしても、こんなとこでのチャンピオン、こっちから辞退してやる」

 三人で店を出ると、牛島さんがいないかまわりを見渡しながら、駅方面に向かって走った。


 十三章 感動にも相性がある


 鎖のぶら下がった点字図書館を越え、シャッターの下りた雑貨屋や郵便局を左右に見ながら、わたしたちは駅前に向かって全速力で走った。
 わたしたちの全速力というより、夢原さんの全速力。
 大股で走っているけど、夢原さんには追いつけない。
 前方三メートルのところで、夢原さんの一本に縛った髪の毛が揺れているのが見える。
「ずっと……考えていたんだが……はぁ、はぁ」
 前を走る夢原さんが、息を切らしながら振り返らずに言った。
「なんですか? 夢原さん」
 わたしにとっての全速力の、さらに全速力。
 もう、左右を見ながら走っている余裕はない。
 とにかく牛島さんが電車に乗ってしまう前に駅前に着かないと。
 それに、夢原さんの言いかけた言葉が気になる。
 夢原さんの隣に追い付き、横を走る。足がもつれそうだ。
「君に見せた手帳。あれに書いた……百篇近くの詩……」
「素晴らしい詩ばかりでした」
「君は泣いた」
「な、泣きました」
「感動……した」
「しました」
 横断歩道の前で、夢原さんが立ち止まった。
 赤信号。夢原さんの横に並んだ。
 この横断歩道を渡れば、駅と、それに駅前ロータリー。
 そのあたりにまだ、牛島さんがいるかもしれない。
「なんでなんだ……。なんで、感動してくれなかったんだ」
 同じく赤信号をまっすぐ見据えていた夢原さんが、言った。
「わたしは……」
 夢原さんの詩を聞いて、トイレに篭って、その後は、それについて考えないようにしていた。
 今も、牛島さんのことだけ考えようと……
「ごめんなさい。わたしにもわかりません。なんで感動できなかったのか、わからないんです」
 信号が青になった。
「とりあえず渡るか……。あ! いないじゃないか。まったく」
 夢原さんが、信号を渡らずに、あたりを見渡している。
「牛島さんなら、まだ駅前にきっといますよ」
「違う。君の友だちだ」
 ……わたしの友だち?
 やっぱり牛島さん?
「山口さんとか言ったな」
 あ! たいへんだ。山口さんが……
「いない。どうしよう」
「戻るしかないだろ!」

 もと来た路地へ戻り、点字図書館が見えたところで、山口さんを見付けた。
 点字図書館の横に、紺色の車が停まっている。そのそばに、携帯電話を片手に持った山口さんが立っている。
 隣では、馬の刺繍の付いた緑色のポロシャツを着た男の人が立っている。右手の親指と一差し指で煙草をつまみ、口もとに持って行っては、煙を吐いている。
 あの人は、前にも見たことがある。前に見たときはスーツを着ていた。
 マンガ喫茶で、山口さんと言い争いをしていた人だ。
「森さーん!」
 山口さんが顔を上げ、こちらに気付いた。手を振っている。
 夢原さんと顔を見合わせ、山口さんのところまで走った。
「ごめんなさい。捕まっちゃいました」
 山口さんは、ちらりと男の人を見た。
 彼はわたしと夢原さんに小さく頭を下げると、煙草をくわえて車のドアを開けた。
 山口さんは、運転席に座って前を見据え、煙草を吸い続ける男の人を五秒くらい見つめた後、こちらに向き直った。
「やだな、うっかりしてました。さっきから、森さんのケータイ番号探してたんですけど、そういえばまだ、聞いてませんでしたよね」
 山口さんの様子が、ちょっと変。いつもの山口さんとは違って、おどおどして見える。
「わたし、番号教えてないんじゃなく、携帯電話を、持ってないんです」
「あ……そっか。そうだったんですか。とにかく、ごめんなさい。本当にごめんなさい。『待ってー』とか……ちゃんと声かければよかったのに。彼が急に来るものだから、慌てちゃって」
 山口さんは、言葉どおり慌てた様子。髪の毛に手を触れたり、スカートやブレザーに手をやり携帯電話をしまう場所を探したり。
 さりげなく体を傾け、車の中を覗いてみた。
 山口さんの通学鞄が、助手席のシートの上に乗っている。
 緑色のポロシャツを着た男の人が、灰皿で煙草の火を消した。
「気にしないでください。山口さんはまだ高校生なんです」
 彼はきっと、山口さんのお父さん。
「お父さんにしてはずいぶん若いな。あいつは誰だ?」
 夢原さんが山口さんに訊いた。
 山口さんが車の運転席を見つめ、唇を噛んでいる。
「失礼ですよ、山田さん。人にはそれぞれ事情があるんです」
 お母さんが再婚して血の繋がらないお父さんかも知れないし、カツラをかぶって若作りした五十代のお父さんかもしれない。
「そういう無神経なところ、直したほうがいいですよ」
「いや、でも、もしかしてあいつが山口さんの詩に出てきた先生ってことも」
「あるわけないじゃないですか。先生と恋愛してるのは、山口さんじゃなく、山口さんの友だちなんですから」
 夢原さんは、運転席に座る山口さんのお父さんを疑わしそうに睨みつけている。
「えっと、あの、そういうわけなんで、わたしはこれで」
 山口さんが横歩きで今まで立っていた位置からずれ、運転席側のフロントガラスに寄りかかりながら言った。
「牛島さん探し、手伝えなくて本当にごめんなさい」
 山口さんが唐突に、勢い良く頭を下げた。
 長い髪が、頬にかかった。
 山口さんが上半身を折り曲げたために、運転席に座る山口さんのお父さんの姿がもう一度見えた。
 ハンドルに頭を突っ伏していた。

 わたしと夢原さんはふたり、とぼとぼと駅前に向かって歩いている。
 山口さんは判れ際、頭を上げると同時に素早く助手席に乗り込み、去って行った。
 朗読会に誘ってくれたお礼を言いそびれた。
 手を振ることもできなかった。
「牛島さんだって、もう……いませんよ」
 歩きながら言ったけど、夢原さんは答えない。
「いませんったら」
 もう一度言ってみた。
「そうかもしれないな」
 無言で横断歩道まで歩いた。
 青信号が点滅する横断歩道を小走りに渡りながら、夢原さんの横顔を見上げた。
「お父さんじゃ、ないんですか?」
「たぶんな」
「でも、山口さんは言ってました。先生と恋愛してるのは友だちだって……。それに、それに、さっきの人もお父さんだって、山口さん本人が言ってたじゃないですか!?」
「そろそろ、現実を見るべきだ。君も、それに……。あーーーーー!!」
 夢原さんが、背中を後ろに反らせながら駅前ロータリーを指差した。
 う、牛島さんが……
 座っている。
 花壇の石囲いに座って、鳩と戯れている!
「牛島さーん!!」
 わたしは走った。
 山口さんのお父さんのことも、夢原さんの詩のことも、いっさい忘れて牛島さんに向かい、まっしぐらに走った。
 走りながら、トートバッグから牛島さんの辞職願と、わたしへの投票袋を取り出した。
 牛島さんの目の前で立ち止まった。
 鳩が一斉に飛び立った。
「ぎゃッ!!」
 ……フンをかけられる。
 両手で頭をかばった。
 振り返ると、すぐ後ろで、夢原さんも同じ姿勢を取っていた。
「いましたね」
 夢原さんに言った。
「いたな」
 夢原さんが笑った。
 牛島さんは、わたしを見上げ、しばらく驚いた顔をしていた。
「これ!」
 牛島さんを見下ろしながら、辞職願を両手で差し出した。
「辞めたらだめです」
「あぁ……」
 牛島さんは、本を手渡してくれたときと同じ、優しい目をして笑った。
 あのときはよく見なかったけど、笑うと顔にシワが何本もできる。そして、シワに押された頬の肉が盛り上がって見える。
「ありがとう! 心配してくれて。でも、辞めませんよ」
 驚いて、牛島さんの辞職願を地面に落としてしまった。
 いったい何が、牛島さんの考えをこんな短時間で変えたのか。
 ……鳩?
「まぁ。ふたりとも、かけませんか。石でおしりが冷たくて、気持ちいいですよ」
 牛島さんが、隣に置いていた菓子パンの袋と帽子を膝の上に乗せた。
 わたしはそこに座った。
 夢原さんは、牛島さんを挟んで反対側。牛島さんと、人間二人分くらいの距離を空けて座った。
 わたしたちが座るのを確認すると、牛島さんは語りだした。
 目の前で、酔っぱらった学生五、六人が、阿波踊りのような動きをしてはしゃいでいるというのに、牛島さんが静かにゆっくりと語るため、わたしたちのまわりだけが、とても静かな場所に感じられた。
「妻に、なんて言うか考えていたんですよ。いきなり『辞めるのを辞めた』では、びっくりするでしょうからね」
「本当ですか!? 本当に、辞めちゃわないんですか?」
 牛島さんの顔を覗き込んだ。
「本当ですよ。その、投票袋を開けてみてください」
 牛島さんが言った。
 そういえば、まだ中を見ていなかった。
「でも、くれた本人の前で金額を確認するなんて失礼なんで、これは家に帰ってから」
「あなたへの、短い手紙も入れたんです」
「手紙……ですか?」
「読んでください」
 ポチ袋で代用されている投票袋に、封はされていなかった。
 中を覗き込んでみた。
 お年玉をポチ袋に入れるときと同じように、四つ折りにされた一万円札が入っている。
 一枚じゃない。二枚か、三枚。
 こ、こんな大金……。
 牛島さんの顔を見た。
 ……あぁ。それよりも手紙だった。
 お金と一緒に入っていた、小さな紙を取り出した。
 そこに書かれた文字を音読する。
「『あなたの詩が、わたしの人生を変えてくれました。同期がみな本社に呼ばれる中、わたしひとりが永遠に店頭業務。自分の能力が評価されないことに苛立ちを感じ、辞職を考えていました。が、それは取りやめます。あなたのようにわたしの書店員としての働きを認めてくださる方がいる!
定年まで、誇りを持って店頭に立ちたいと思います。牛島徹』って……。あの……」
「読んで頂きたいとは申し上げましたが、まさか音読されるなんて」
 牛島さんが、真っ赤になった顔を腕で隠した。
 さらに、膝に乗せていた帽子を手に取って、目深にかぶった。
 そして、立ち上がった。
「終電に間に合わなくなってしまうので、わたしはこれで失礼します。森さん、本当にありがとうございました」
「待ってください!」
 歩き出した牛島さんが、振り返り、立ち止まった。
「聞きたいことがあります」
「どうぞ。聞いてください」
 花壇の石囲いに座って、「考える人」みたいなポーズをしている夢原さんを手で示した。
「この人は、プロの詩人なんです」
 夢原さんが一瞬、顔を上げた。
 だけどすぐに下を向き、激しい貧乏揺すりを始めた。
「だから牛島さんは、この、山田さん……いえ、夢原さんの詩には、きっともっと感動しましたよね。わたしの詩なんかより!」
 牛島さんが夢原さんに微笑みかけた。
 夢原さんは牛島さんを見ていない。とはいえ、牛島さんの口からこれから発せられるであろう言葉に、耳を澄ませていることは空気から伝わってくる。
「彼の詩も、とても素敵な詩でした。ですが、わたしはあのとき、退職や、今後のことで頭がいっぱいだったんです。せめて妻の前では気丈に振る舞えるようにと、気分転換のつもりで朗読会に参加してみたものの、やはり、頭にあるのはそのことばかりで」
「じゃあ、夢原さんの詩には、それほど感動しなかったって……ことですか?」
 牛島さんに詰め寄った。
 牛島さんは、わたしから目を逸らした。
「それに、わたしが朗読しようと用意してきた詩のタイトルは『本だけが友だち、妻は戦友』です。つまり、わたしには、友人がいません」
「友だちがいないと、友だちの詩には感動できないんですか?
だからわたしは、夢原さんの詩に、感動できなかったんですか。じゃあなんで、バラックに住んでないわたしが、バラックの詩に感動したんですか?
やさしいおじいさんとやさしいお母さんに会ったことのなかったわたしが、夢原さんの詩に感動したのは……」
 なんでなんだ?
「なんでですか? 牛島さん」
 牛島さんが、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、後ずさりながら額の汗を拭っている。
「すみません。わたしは、趣味で詩を書く程度の者です。確かなことはわかりません。もしかしたら、いつ、どんなときでも人の心を動かしてしまう、天才的な詩というのがどこかに存在するのかもしれません」
「じゃあ、きっとそれが夢原さんの詩です。そのはずなんです」
 すがるように牛島さんを見た。
「わたしはまだ……そういった詩に出会ったことはありません。いえ、わたしの人間性が浅く、日常の細々とした出来事にばかり気を取られているため、自分と同じ境遇の描かれた作品にしか感動できないだけ、ということも充分考えられます。あなたのおかげで退職を思いとどまることができたというのに、なんのお力にもなれず……すみません」
 牛島さんはわたしに背を向けると、改札に向かって歩いて行った。
 ゆったりとした足取りのその背中をしばらく見ていた。
 牛島さんが改札をくぐり、見えなくなった。
 夢原さんを振り返ると、牛島さんはもう見えないというのに、駅の改札のほうを睨みつけていた。
「俺は、誰もがいつ何時でも感動する、完璧な詩を書いてやる!」
 夢原さんは、再び集まり始めた鳩に囲まれながら、きっぱりと言った。

「それって、どんな詩ですか?」
 襖の向こうの、夢原さんに向かって言った。
 ここは夢原さんの家。ふだんはおじいさんが使っているという部屋にふとんを敷いてもらい、夢原さんの部屋とを区切る襖を枕にして横になっている。

 牛島さんが帰ったあと、わたしたちもすぐに電車に乗った。
 電車の中でも夢原さんに、同じ質問をした。
「どんな内容の詩なら、わたしはまた感動できるんですか? いつでも感動できるんですか? いつまでも感動できるんですか?
お願いですから、早く完璧になってください。この通りです」
 満員に近い終電車の中で、つり革から手を放し、夢原さんに頭を下げた。
 電車が揺れて、派手によろけた。夢原さんに捕まろうとしたら、よけられた。
「悪い……とっさに」
 そう言ったきり、夢原さんはわたしと目も合わさず、口もきいてくれなかった。
 完全にひとりの世界に入っているようだった。
 窓の外をずっと睨みつけていたかと思うと、いきなり「ハッ!」と言って、肩掛け鞄から手帳を取り出し、つり革に捕まりながら器用に万年筆を走らせる、という姿をたびたび目にした。
 そんな様子だったから、駅に着いてもまったく気付いていないようだった。
「夢原さん、着きましたよ」
「どこにだ?」
「駅ですよ」
「俺の駅か?」
「みんなの駅ですよ」
 笑ってくれると思ったけど、笑ってくれなかった。
「バカか、君は!?」
 笑うどころか、怒られた。
「なんで君がここまで着いて来てるんだ! ここは俺の家がある駅だろ。君は反対方向の電車に乗って……」
 ……そして、JRに乗り換えないといけないんだった。
 反対方向へ向かう電車の、終電がたった今出発したことを告げる駅員の声がホームに響いていた。

「誰もがいつ何時でも感動する詩とは……」
 襖越しのため、夢原さんの声が、くぐもって聞こえる。
「……詩とは!?」
 天井にぶら下がっている電気の傘を見上げながら、声を張り上げた。
「誰もがいつ何時でも感動する詩とは」
 夢原さんが同じ言葉を繰り返す。
「そんなもの……」
 隣の部屋で夢原さんがふとんから起き上がるのがわかった。
 襖が開いた。
 夢原さんのお母さんから借りた小花柄のネグリジェのサイズが大きくて、胸元が大きく開いているのが恥ずかしい。
 胸元を押さえながら振り返った。
 薄水色の半袖パジャマを着て、長い髪の肩にかかった夢原さんが、目の前に立っていた。
 ふとんの上に座り、願うように夢原さんを見つめた。
 「そんなものない」なんて、言わないでほしい。
 ……お願いだから。
「俺が書く。君は安心していろ」
 夢原さんは、静かに襖を閉めた。
 目を閉じた。


十四章から最終章まではこちら 長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)4/4 - 楽しい日記

長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)4/4

(十四章から最終章まで) 
十四章 わたしはマンガ喫茶バイト


 朝になって、驚いた。
 ベッドじゃなく、ふとんに寝ている。
 綿素材のネグリジェを着ている。
「ここは、夢原さんの家だ!」
「あらあら、起きた?」
 夢原さんのお母さんが、わたしの体をまたぎながら言った。
「ちょっとごめんね。ベランダに洗濯物干すのに、ここからしか出られないから」
夢原さんのお母さんはさっそく、柵の錆びついた小さなベランダに出て、洗濯物を干している。
「眠れた?」
「はい、よく眠れ……あ! おじいさんの部屋奪っちゃってごめんなさいって……おじいさんに言わないと。おじいさん、昨日は半分寝ぼけたまま、下に降りて行ってくれたから」
 ふとんの上で正座をしながら、夢原さんのお母さんを見た。
「あぁ。あのまま仏間でわたしと並んで寝て、朝起きたら『ここはどこじゃ?』って言ってたくらいだから気にしないで」
 夢原さんのお母さんが、音を立てて白いランニングシャツのシワを伸ばしながら言った。
 腰を屈め、色褪せたプラスチックのカゴから今度はトランクスを手に取った。
 ……ゆ、夢原さんのかも?
 目を逸らした。
「おじいさんとお母さんは、お嫁さんとお舅さんなのに、本当の親子みたいですね」
 夢原さんのお母さんが振り返った。
「うーん。そうね。そんなもんじゃないかしら。四十年近くも一緒に住んでるんだもの。別に毎日一緒に寝たって、どっちが気兼ねすることもないだろうね」
 お母さんは引き続き洗濯物を干している。
 わたしはふとんを畳んで、昨日来ていたワンピースに着替えようとした。
 ……あ!
 シワになっている。ちゃんと畳んで寝たつもりが、畳めていなかったみたい。
 おじいさんのことは言えない。昨夜この家に着いたとき、わたしも疲れていて半分寝ているみたいだった。
 夢原さんと会話をした記憶があるけど、あれは夢?
 着替えてから、襖をそーっと開けてみた。
「和夫なら」
「わ!」
 後ろに、洗濯カゴを持ったお母さんが立っていた。
「散歩に出かけたわよ。たぶん、近くの児童公園。そこのベンチに座って何か書いてる和夫をよく見かけるの。だけどそういうときは、そっとしておいてあげるのよ」
「じゃあ、わたしもそうします」
 夢じゃない。「完璧な詩」を書くために夢原さんは、さっそく頑張っているんだ。
 軽やかな足取りで階段を降りた。
 台所にも仏間にも、おじいさんはいなかった。
 お母さんが、空になった洗濯カゴを持って降りてきた。
「あの、おじいさんは?」
「いないってことは、また病院でしょう。どこかしら痛くないと楽しみのない人だから」
 お母さんが笑った。
「千歳ちゃんがずっといてくれたら、おじいさんの楽しみも増えるだろうけどね」
 ……わたしが、ずっとここにいたら?
「お母さん、これ、ありがとうございました。また来ます」
 お母さんにネグリジェを返し、夢原家を後にした。

 家に帰ってきた。
 四LDK。玄関にみかんが落ちていることが多々ある、鉄筋コンクリート製のわたしの家。
 ……はぁ。
 今日は日曜日。
 父の仕事が休みだから、みかんが靴の上に乗っている可能性の高い曜日。
 父は、母が家にいないと機嫌が悪くなって、物を投げる。
 母が家にいると、口喧嘩をふっかける。
 あ! 母の自転車は玄関前に停まっている。
 ということは、みかんではなく、言い争いか。
 ドアを開けた。
「あなたがいつも千歳をじゃま者扱いするから」
 途端に、母の叫声が耳に入った。
「あいつももう二十三だろ」
「二十三だから、何をしてもいいって言うの!? 今頃、変なお店で働いているかもしれないじゃない」
「もう昼だろ。だとしても、もうとっくに勤務は終わってるよ」
「もう終わったって……。自分の娘でしょ! よくそんな言い方できるわね」
「恋人ができただけかもしれないだろ!」
「だから、千歳には無理だって!」
 音が立たないよう、ドアをそーっと閉める。
 バタン!
 無理だった。わたしには無理だった。音が立たないようドアを閉められるような、器用な人間じゃない。
「千歳!」
 母がスリッパの音をパタパタさせながら、玄関までやってきた。
「お母さん、スリッパ……」
 片方、脱げている。
「お帰り」
 わたしの言葉は耳に入らなかったようだ。
 母は、真正面に立ち、わたしの顔を見ずに言った。
「ただいま」
 ……なんで直接訊かないんだろう。
「お昼ご飯は食べたの?」
 ……お昼ご飯じゃなく、「どこに泊まったの?」「何してたの?」「この先どうするつもりなの?」って。
 黙って頷いた。食べてないけど頷いた。
「そう……。お母さん、着替えてちょっと出かけてくるから」
 母が、片方だけスリッパを履いたまま、階段を昇りかけた。
 着替えて行くところといっても、喫茶店くらいしかないくせに。
「嫌い……」
「え?」
 階段に足をかけた母が振り返った。
 母のことは無視し、リビングを通り、父のいるテレビとソファーのある部屋に向かった。
 父はソファーの上に寝ころび、独り言を言っていた。
「千歳さえ短大にいれなけりゃあ、よう。男ができたんなら、そんな嬉しいことはないだろ。結納金、がっぽりもらえばいいんだよ」
 ソファーの周りには、いつも通りビールの空き缶。
 わたしが帰ってきたことに、まったく気付いていない様子。
 わたしは床に転がっていたリモコンを手にし、父が見ているわけでもないテレビの電源を切った。
 点いていないテレビの前。父の正面に正座する。
 父が、バツの悪そうな顔をしている。
「千歳……帰ってたのか」
「はい、帰ってました」
 こうして父の顔をまっすぐ見るのは、小学生以来かもしれない。
 もう随分、部屋越しにとか、目を逸らしながらとかしか、会話をしていない。
「お父さん、まじめな話があります」
「なんだ!?」
 父が、酔っぱらって赤い顔をしながらも、ソファーに座り直した。
「お父さん。わたしはお父さんが嫌いです」
「……」
「お母さんも嫌いです。今までお世話になりました。わたしはこの家を出て、あたたかい家庭に居候します」
 スリッパの音が近付いてきた。
 母が、キッチンとこの部屋の境目に立って、ぼう然とわたしを見下ろしていた。
 もう片方のスリッパも、脱げていた。

 階下から、母の泣く声が聞こえる。
 父の声は聞こえない。
「えーっと。服は三枚あればじゅうぶん。夢原さんの詩集は、夢原さん自身が持ってるから、それを見せてもらえばいい」
 置いていけばいい。
 最低限のものだけ持って行こう。
 この白とピンクの、かわいらしすぎる部屋とも今日限りさようなら。
 わーい。嬉しい。
 夢原さんのおじいさんも、お母さんも、きっとわたしを家族にしてくれる。
 そうだ。バイトをしよう。
 できれば、牛島さんが店長の本屋がいい。
 牛島さんの店でバイトを募集していなかったら、他の店でもいい。
 きっとできる。
 夢原さんは、「完璧な詩」を書くために頑張っている。
 夢原さんの書く「完璧な詩」と、夢原さん、おじいさん、お母さんがいれば、わたしはなんだってできる。
 修学旅行のときに使った旅行鞄に持って行く物を詰めたけど、鞄はすかすかだった。
 鞄を持って階段を駆け降りると、そのまま逃げるように家を後にした。
 早足で歩きながら、見上げると燦々と輝く太陽。青い空に白い雲。
 今日からわたしの新しい生活が……
「……」
 後ろから、なんか変な音がする。
 おそるおそる振り返る。
 ……ぎゃーーーーー!
 父が、サンダルをバタバタ言わせながら、ものすごい形相で追いかけてきている。
 逃げるようにこそこそしている場合じゃない。
 逃げる。
 走って逃げる。
「千歳! 待て」
「嫌だ」
「待つんだ」
「嫌だったら。戻らないから」
「ちょっと待てってば」
 アル中の父に、追いつかれてたまるか。
「千歳! 止まれ」
「止まらないよ」
 左側の駐車場から右側の住宅街へと横切ろうとしていた猫が、走っているわたしに驚いて、わたしと同じ進行方向に走って行く。
 猫が一番早い。
「一万円!!」
 後ろから、父の声がした。
「え!?」
 立ち止まった。
 振り返った。
「何? 一万円って」
 父がみるみる追いついて来た。
 一万円札を、むき出しに手にしているのが見えた。
「これ……とりあえず持って行け。後で……必ず電話して……通帳の番号教えろ。もう少し……金……振り込むから」
 わたしに追いついた父は、肩で息をしながら、途切れ途切れにそう言った。
「ありがとう」
 わたしがそう言って一万円札を受け取ると、父が笑った。
「がんばれ」
 ……ありがとう。
 でも、通帳の番号は教えない。
「じゃあな。電話しろよ」
 ……電話もしない。
「うん。電話するから。それじゃあね」
 歩き出しても、後ろからまだ父がわたしを見ているような気がした。
 角を曲がるまで……
 角を曲がるまで……
 涙が流れて、顎まで垂れてくるけど、拭わない。
 後ろから見ている父に、泣いていることが伝わらないように。
 角を曲がり終えたとき、鞄を地面に落とした。
「うわーん。ごめんなさい。お父さん、お母さん、ごめんなさい。好きになれなくてごめんなさい。」
 道路標識に抱きついて泣いた。

 駅に行く前に、マンガ喫茶に来た。
 お別れを言わないといけないのは、父と母だけじゃない。
 夢原さんの家に住むようになれば、山口さんにもなかなか会いに来られなくなる。
 笑顔が素敵で、社交能力が高くて働き者の山口さん。
 彼女はわたしの憧れだった。
 少しだけど、交流を持てたことは嬉しかった。
 だから彼女にお礼を言おう。
 笑顔が素敵で、社交能力が高くて働き者の……
「あれ?」
 山口さんがいない。
 怪訝な顔をして、レジを覗き込んでいる客の女の人がいるだけ。
 女の人と目が合った。
 白いブラウスを着た三十代後半くらいの女の人。
「店員さん、どこに行ったのかしら。延長料金、取られちゃうわ」
 女の人が、わたしに言っているのか独り言なのか、呟いた。
 もしかしたら、山口さんは今、トイレの清掃中かもしれない。
 前にもレジに誰もいないことがあって、そのときは「トイレ清掃中。ご用の方はお声をおかけください」という手書きの文字とイラストの書かれた紙がお金を置くトレイの上に置いてあった。今日はその紙を置き忘れたんだ。
 山口さんを探しに、ドリンクバーの機械やマンガの並んだ棚通り過ぎ、店の奥にあるトイレに向かった。
「山口さーん」
 男子トイレと女子トイレ、どちらを掃除しているかはわからないけど、とりあえず女子トイレに入り、みっつ並んだ個室全体に向かって声をかけた。
 返事はない。
「いませんかー? お客さん、並んじゃってますよ」
 やっぱり返事はない。
 ここじゃないんだ。
 女子トイレを出ようとしたとき……
「森さん……」
 一番奥の個室から山口さんの声がした。
「山口さん、たいへんです。レジでお客さんが待ってます」
「わたし、だめかもしれません……」
 その声は涙声だった。
 続いて、カラカラとトイレットペーパーを回す音と、小さく洟をかむ音も聞こえた。
「いえ、違うんです。わたしじゃなく友だちがね、昨日、自分から先生に別れを告げたそうなんですよ」
 盛大に泣く声が聞こえた。
「大丈夫だと思ったんだけど、だめみたいなんですよ。なんででしょうね。奥さんと子どものためには、彼女さえ消えれば、万事うまく治まるって、初めからわかっていたことを、昨日ただ実行に移してだけなのに。なぜか、彼女、だめみたいなんですよ……」
 山口さんの入っているトイレのドアを叩いた。
「山口さん、聞いてください。わたしは恋愛をしたことがありません。でも、大切な人を失う辛さはわかります。拠り所がなくなる辛さはよーくわかります」
「ヒック……。わたしは、いつか失うのが怖かったんです。本当は、奥さんとか子どもなんてどうでもよくて……十七歳のわたしが、ハタチになって、三十歳になって……そしていつか捨てられるのが……」
 山口さんがドアを開けて、そーっと出て来た。
 朗読会の日のわたしのように、恐る恐る。
 頬に幾筋もの涙を残しながら、わたしを見た。
 怯えた目をしていた。
 目の前にいるのは、いつもの、「笑顔が素敵で社交能力が高くて働き者の」山口さんではなく、わたしよりも六歳も年下で、ひとりでは抱え切れない問題をずっと抱え込んできた、左手首から……
「血がダラダラ流れてますよ、山口さん。それに、右手に持ったそのカッター、こちらに渡してください」
 山口さんは、いたずらを見つかった子どものような表情で、血の滴るカッターを、ちゃんと持ち手がわたしに向くように渡した。
 ハサミを渡すときと同じ一般常識……
「じゃないですよ。山口さん、まず、刃を閉まってください。そうしないと、わたしが受け取るとき、山口さんの手のひらが切れちゃいますから」
「あ……」
 山口さんは、カッターを見つめながら、刃を閉まった。
 カチカチという音がトイレ中に反響して聞こえた。
 カッターを受け取ったあと、洋式トイレのふたを閉め、山口さんにはそこに座ってもらった。
 あ! 山口さんの着ている長袖シャツにまで血が……
「シャツの血はあとで落とすとして、まず、止血しますね」
 ポケットから取り出したティッシュペーパーを傷にあてがい、その上から、トイレットペーパーをぐるぐる巻いた。
「ちょっと不格好ですけど、出来上がりです」
「森さん、頼もしいですね」
 山口さんは小さく笑った。
「立てますか?」
 トイレットペーパーぐるぐるでない、山口さんの右手をそっとつかんだ。
「イヤー!! 無理です。ひとりで生きて行くなんて無理。先生がいない生活なんて無理。わたしは、ただの高校中退で、何もない何もない……」
「お客さんが待ってますよ」
 山口さんの肩を抱きしめた。
「わたしみたいに、無職で毎日毎日、マンガ喫茶に通っている人間が他にもいて、山口さんの笑顔を見て気分がよくなったり、憧れたり……何もないなんてことはないはずです」
「でも、わたし、今日は……」
 ……山口さんにだって、笑えない日があったっていい。
「山口さん、落ち着くまで、わたしが代わりに店員をやります!」
「え!?」
 山口さんの付けていた黒いエプロンを、服の上から被った。
 ネームプレートには「山口」。
 トイレを出て、小走りにレジへ向かう。
 いきなりレジ操作は無理だから、お金を預かるたび、レジ横にある電卓を使っておつりを計算し、山口さんから預かった鍵でレジを開け、そこからおつりを取り出して渡す。
 よし! 山口さんからそれだけのことは習ってきたからなんとかなりそうだ。
「お、お、お待たせしました」
 レジに並んだ四人の人に、声を張り上げて言いながら、レジカウンターの中に入った。
 初めに見かけた、三十代後半くらいの女性客はもういなかった。
 代わりに、トレーに伝票と基本料金の三百八十円。
 鍵でレジを開けて、そのお金を閉まった。
「どれだけ待たせるんだよ、俺はちゃんと時間内にここに来てたんだからな。延長料金取るなよ」
 と、体格のいい三十歳くらいの男性。
「はい。すいません。取りません。三百八十円です。ありがとうございました」

「あれー? 山口さんって女の子、今日いないの? おっちゃん、いつも楽しみにしてんのよ。彼女のスマイルを。あ、君も山口さん」
 と、六十歳近いおじさん。
「えっと、いまは……そうです。ありがとうございました」

「別に急いでないから平気ですよ。いつもの子じゃないってことは、新しく入った人? がんばって」
 と、わたしより三、四歳若い女性。
「ありがとうございます。がんばります。ありがとうございました」

 レジに立っていると、無言でお金を払って行く人がほとんどだけど、声をかけてくれる人もちらほらいる。
「森さん」
 そう、こんなふうにすでに名前を覚えて、呼んでくれる人も。
 ……え? わたしのネームプレートは「山口」。
 それにこの声は……
「て、店長!!」
 前にバイトをしていた本屋の店長が、レジカウンター越しに立っていた。
「緑のエプロンから、黒のエプロンに転職ですか。ここで働いていたんですね」
「えっと、あの、その、今日はちょっとした手伝いで……」
「まぁ、わたしにはどうでもいいことなんですけど、正社員で事務職に付いた方が、マンガ喫茶の手伝いとは変ですね。……あー、わかりました。この『マンガ喫茶トレンド』の、本社に就職したんですね」
 長身の店長が、わたしを見下ろしている。
「あ、はい! そうなんです。本社に就職して、今日はちょっと手伝いで……」
 店長から目線を逸らしたとき、山口さんがしっかりとした足取りで、こちらに歩いてくるのが見えた。
 長袖シャツの袖には血。その隙間からは、トイレットペーパーぐるぐる巻きの手首が見えている。
 その左手を上げると、グーに握って親指だけを立て、「わたしはもう大丈夫」という合図を送って寄越した。
 わたしは店長に向き直った。
「わ、わ、わたしは……」
 ……うッ。息が苦しい。
 鼓動が速い。
 吐き気がする。
「森さん、なんですか?」
「わたしは……本当は……。正社員どころか、バイトでさえありません。本屋を逃げるように辞めたあと、ずっと無職でした。今も無職です。ずっと無職です!」
 レジから身を乗り出し、店長の目を真正面から見て言った。
 店長が、呆気に取られている。
「そ、そうですか。……よくわかりませんが、インターネットの禁煙席をお願いします」
 店長が言った。
「店長! それに、わたしはここのレジも打てません!」
 いつの間にか隣に立っていた山口さんが、わたしの付けているエプロンを、クイクイと引っぱった。
「もう、代わりますね。森さんがレジに立ってくれていた間、入店客がなくてラッキーでした」
 エプロンを脱いで、山口さんに渡した。山口さんはそれを手早く着ると、本屋の店長に伝票を渡した。
 席を探し、歩き出した店長が振り返った。
「森さん、がんばってくださいね」
 店長は、わたしのことをまた同情するような目で見た。バイトしていたとき、何度も見た目。
「そんな言葉、必要ないですよ。森さんは、じゅうぶんがんばってますから。きっとあなたより」
 山口さんが、満面の笑みで店長に向かって言うのを、横で見つめていた。
 笑いが込み上げてきた。
 山口さんの笑顔は、本当に素敵だ。


 十五章 花火が上がった


 わたしは夢原家のダイニングテーブルで、さやいんげんの筋を取っている。
 隣におじいさん。向かいに夢原さん。斜め向かいにはお母さん。
「千歳ちゃんがここに住むようになって、まだ二週間しか経ってないのね」
 お母さんが四人の中で一番早いスピードで筋を取りながら言った。
「もう随分前からいるみたいじゃな。実家には一週間に一回くらいは電話してやらんといかんよ。『元気にやっとる』のたったひとことでもいいんだ。それだけで親は安心する」
「そうだ。『元気にやっとる』って、電話してやれ」
 ──夢原さんまで。
「わかりました。『元気にやっとる』、電話でそう言いますね」
 いんげんの入ったボールを持って立ち上がったお母さんの肩が、プルプル震えている。笑い上戸のお母さんが笑っているのは、後ろ姿を見ただけでわかる。

 二週間前、わたしが突然、「この家に居候させてください」とお願いした日。おじいさんもお母さんも、驚きながらも快く受け入れてくれた。そしてお母さんがわたしの母に、「娘さんはたしかに預かりました」と電話をかけてくれた。
 夢原さんと襖を挟んで隣の部屋、朝になるとお母さんがベランダに洗濯物を干しに来る部屋を、わたしの部屋として貸してくれた。
 お母さんとおじいさんはふたりして仏間に寝ている。夜中にトイレに起き、そーっと仏間の扉を開けると、二人がおちょこにお酒を注ぎ合っている姿が見られることもある。
 お母さんと、お母さんのボーイフレンドは、相変わらずふたりでパチンコや買い物に出かけている様子。

「そうだ。お母さんのボーイフレンドは、今日の花火を見に、ここへは来ないんですか」
 ガスコンロに向かっていんげんを茹でているお母さんに訊いた。
「あの人も奥さんに先立たれたとはいえ、息子さんやお嫁さん、それにお孫さんと一緒に住んでるから。今年は家族で川のほうまで見に行くそうよ」
 菜箸を持ったお母さんが言った。
「去年はここで一緒に見たのに、今年は来れんのかい」
 おじいさんはなんだか残念そう。
「あいつは呑むとおもしろいからなぁ。あんな真面目な顔して、「マジック貸してくれ」って言って、その場で腹に顔書いて腹芸しよる。あれが今年は見れんのかい」
「そうね〜。順番ってことで、来年は来るかもしれないわね」
「一昨年も、来なかったっけか?」
「一昨年はあの人、ここに越してきてなかったわよ」
 夢原家のベランダからは、花火大会の花火が見られるらしい。
 音まではっきり聞こえると、おじいさんに教わった。
「ドーン! たまや〜」
 花火の話題に加わらない夢原さんに向かっていんげんを投げてみた。
 夢原さんが眉間にシワを寄せてわたしを見る。
「食べ物を粗末にするな」
「別に粗末にしてませんよ。ほら、『たまや』って言ったら、なんて言うんですか」
「お前は小学生か。花火大会の予行練習なんかしなくていい。それより……」

 夢原さんに連れ出され、近所の公園に来た。
 ベンチにふたりで並んで座っていると、目の前にカンガルーの形をしたすべり台が見えた。
 カンガルーのお腹の部分が空洞になっていて、そこから次々と子どもが滑ってくる。
 公園の入り口近くにあった幼児向けプール、「じゃぶじゃぶ池」からは、かなり離れているというのに、ここまで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。
「夢原さんは、いつもここで詩を書いているんですね」
「まぁ、だいたいはな。ここで詩を書くようになって、もう二十年近くか……」
 ……に、二十年!?
「そんなにずっとひとりで!? ここで詩を書いてきたんですか」
「朗読会で話したことを聞いてなかったのか!? 始めはひとりじゃなかった」
 夢原さんは手を組み、ベンチに浅く腰かけながら、「朗読会で話したことは全部実話だ」と絞り出すような声で言った。その後、その幼なじみとのことをもっと詳しく話してくれた。
 話しているときの夢原さんは、辛そうだった。
 足を組んだり、さらに組みかえたり、貧乏揺すりをしたり、涙ぐんだり。
 そうして時間をかけて夢原さんが話してくれたこと。それは、夢原さんの幼なじみが、あたかも夢原さんの住む家で生活しているかのような詩を書き、それを出版した。
「そんなことってひどいです! 嘘つきです」
「貧乏なら同情されて売れるとでも思ったのか、バカが……」
 夢原さんは吐き捨てるように言った。
「やっと目が覚めて自分の境遇と向かい合うようになったと思えば、今までのことは水に流して助言してやろうとわざわざ出向いた俺を、あいつは家政婦に門前払いさせやがった」
 しばらく、夢原さんはカンガルーの滑り台を見つめたまま、黙っていた。
 たぶん、カンガルーの滑り台を見ているのではないのだろう。
 わたしは別のことを考えていた。
 ……夢原さんの他にも、「バラック」の出てくる詩を書く人がいる。
 夢原さんの詩よりも先にその人の詩を読んでいたら、わたしに本物とニセ物の区別が付いただろうか?
「悪い。こんな話をするためにここに呼び出したんじゃないんだ」
「なんの話ですか?」
 突然声をかけられて、声が上ずった。
「新しい詩ができたんだ。今度は、君も気に入ると思う」
 夢原さんが、真ん中あたりのページで開いたモレスキンの手帳をこちらに差し出した。
「じゃあ、読みますね。心して読みますね。えーっと、読みますね。今から、読みますね」
 夢原さんが睨んだ。
「早く読め」
「読むほうだって、緊張するんですよ。感動するのも、感動できないのも、一大事なんです」
 目をつむって深呼吸する。
 目を開け、夢原さんの開いたページに書かれた詩を読んでいく。
 何篇も、何篇も。前に見せてもらったのとは違う詩が並んでいる。
 ページを捲る。
 何ページも、何ページも……
「あのー、これは、どこまで続くんですか」
「ん? 確か五十ページくらいか。それがどうした」
「もしかして五十ページ分全部、『恋』の詩ですか」
 夢原さんが、顔を真っ赤にして下を向く。
 わたしも下を向きながら、続ける。
「あからさまに、『千歳』という名前が出てくるんですけど、この人は、函館か鎌倉に住んでる
夢原さんの親戚ではないですよね」
 夢原さんは答えない。
「どうだ? 感極まったか」
 小さな声で言う夢原さんは、両足の間に顔が隠れんばかりに頭を低くしている。
 わたしは立ち上がり、夢原さんの正面に立った。
 手帳を持った両手を後ろに回し、腰を屈めて夢原さんの目を見る。
「極まりません。全然、感極まりません。やり直しです。約束ですからね。わたしだけじゃなく、世の中の人みんなを感動させてください。そして、バイトとか家族とか、辛いことに耐えられるよう助けてあげてください。わたしは来週バイトの面接なんです。元気の出る詩で助けてくださいったら」
 もう、夢原さんが感動できない詩を書いても取り乱したりはしない。
 それも全部、夢原さんの書いた詩だから。
「あ! カンガルーの滑り台、空きましたよ」
 夢原さんの手を引っぱった。
「空いたから、なんだっていうんだ。俺は大人だ。君だけ滑ってこい」
「わかりました。わたしだけカンガルーの子どもになってくるんで、そこで見ててくださいね」
 階段を昇り、カンガルーのお腹の中から顔を出す。
 ベンチに座る夢原さんに向かって、手を振った。
 夢原さんは手を振り返してくれないで、「恥ずかしいから早く滑ってしまえ」という、手招きのようなジェスチャーをした。
 カンガルーのお腹の中から飛びだし、滑って行くと、ベンチに座っている夢原さんにどんどん近付いて行く。
 滑り台を滑っている最中に見えた夢原さんの表情は、子どものようだった。
 ……なにさ。自分だって子どもみたいに笑うこともあるくせに。

 今夜の花火大会のために酒屋に寄ってお酒を買ってから帰ると、台所にも仏間にも、お母さんとおじいさんの姿はなかった。
 夢原さんとふたりで、二階に上がった。
 ベランダは開け放たれて、畳みの上にはお母さんお得意のいんげん胡麻和えや、枝豆、おにぎり、それにスイカなどが用意されていた。
「おかしいですね。食べ物だけあって、誰もいないなんて」
「買い忘れたものでもあったんだろ」
 一時間経っても、おじいさんとお母さんは帰ってこなかった。
 夢原さんは、座布団を三つ折りにして、スイカの横で寝てしまった。
 わたしはスイカを二切れつまみぐいした後、夢原さんの部屋から持ってきた埃っぽい本を読んでいた。「百円」という古本屋のシールが貼られた、海外の小説だった。
 途中まで読んだとき、「ドン! ドン! ドン!」という、地響きのような音がした。
「夢原さん、夢原さん。起きてください。これは、もうすぐ花火の始まる合図ですよ」
「ん……あ〜。俺の番か」
 夢原さんが起き上がり、伸びをしながら言った。
「なに寝ぼけてるんですか。もう、夢原さんったら。花火大会に俺の番もわたしの番もありませんよ」
 夢原さんは、目を擦っている。
「髪もぐしゃぐしゃになっちゃってますよ」
「……夢を見ていたんだ」
「どんな夢ですか?」
「子どもの頃の……」
 そのとき、一発目の花火が上がった。
「わー! 近い!! 目の前に花火があるみたいですね」
 夢原さんを見ると、目を細めてわたしのことをじっと見ている。
 ……照れるじゃないか。
「せっかくなんだから、わたしじゃなく花火を見てくださいよ。ほら、今の見ましたか。わたし、あの花火好きです。あれを詩にしてください」
「そんな無茶言うな。詩にしろと言われてできるもんじゃない」
「やっぱり見てなかったんですね」
「いや、見てたさ。彼岸花のような赤だった。あれは美しかった。こうして話しているあいだに、五発も六発も上がってるけどな」
 ……はッ!
 もったいない。
「それにしても、おじいさんとお母さんも、もったいないですよ。こんなにご馳走用意して、どこかに行っちゃうなんて」
「ちょっと川の近くまで見に言ったんじゃないのか。そのうち戻ってくるだろ」
 夢原さんは、枝豆ばかりをつまんでいる。
「あ! わたし、ちょっと箸持ってきますね」
 立ち上がって、部屋を出ようとした。
「待ってくれないか?」
 夢原さんに呼び止められた。
「俺に、才能はあると思うか?」
 振り返ると、あぐらをかいた夢原さんと、その後ろに花火が見えた。
「当たり前じゃないですか。あなたは、夢原さんなんです!」
「前に見せた詩を君がたまたま気に入っただけで……」
「弱気にならないでください、ね。夢原さん」

 箸を取りに階段を降りる。
 ……きっと、もう少しすればおじいさんもお母さんも帰ってくる。
 平穏で、暖かい生活。夢原さんの幼なじみが、この家を自分の家として、自分がこの家の息子であるかのように。そんな詩を書いた理由も、少しはわかる気がする。
 盛大に軋む階段を降り終えたとき、玄関におじいさんとお母さんが立っていた。
「千歳ちゃん、ごめんね」
 お母さんは、クリーニング屋のビニールのかかった服をどっさりと抱えていた。
 花火の音で、お母さんの声は耳を澄まさないと聞こえない。
「花火ねぇ……」
 お母さんが言う。
「見られなくなっちゃったのよ」
 クリーニング屋のビニールに顔をうずめてお母さんが泣いている。
「お母さん、なんで泣くんですか? ボーイフレンドと一緒に見に行くことになったんなら、気にしないでください。来年、また……」
 ──見れば……。
「死んだんじゃ」
 おじいさんが家に上がり、台所に向かいながら言った。
 蛇口をひねり、コップを使わずに直接、水を飲んでいる。
「和夫の幼なじみ、茂典が肺炎で呆気なく死におったわい。これから結婚もするらしかったのにのう。和夫と同い年じゃ。わしの半分も生きとらんのに」
 おじいさんは、台所のシンクに手を付いて、こちらを振り返らない。
「うえーん。お母さん……」
 台所のテーブルにクリーニング屋のビニールのかかった服を乗せたお母さんの手を両手でつかんだ。
「千歳ちゃんまで泣かないの。これ、三人分の喪服。近所の人から借りてきたの。今から和夫と三人でお通夜に行って来るわね」
 夢原さんの幼なじみが──
 夢原さんにとって大切な人が──
 本当は嫌いになんてなりきれてない人が──
「死んだんだな。そうか……茂典、あいつ死んだのか」
 亡霊のように青白い顔で、肩がガクンと落ち、生気のない夢原さんが横に立っていた。
 ガタンッ!
 夢原さんが、立っていられなくなって、ダイニングテーブルの横にへたり込んだ。
 そのとき、おでこをテーブルの角にぶつけたのを見た。だけど本人はまったく気付いていないようだ。
「夢原さん、しっかりしてください! 夢原さん! 夢原さん!」
 しゃがんで、肩を揺すった。
「夢原翼が、死んだんだよーーーーー!! 君は、俺に死人のふりをずっと続けさせるつもりか」
 夢原さんに、すごい力で振り払われた。
 わたしは、床に仰向けに寝ころんだ。
 遠くから声が聞こえる。抑揚のない声。
「茂典が本当の夢原翼だ」
 ……茂典さん?
 朗読会の日に、わたしが一度だけ見た人が夢原さんだった?
 じゃあ、この声は誰?
「君に俺は必要なくなった」
 ……わたしが今まで必要としてたのは誰?
 死んだ茂典さん?
 遠くから聞こえる、この声の人?
「死んだんだ。夢原翼は完全に死んだんだ」
 ……死んだ。
 ……死んだ。
 ……死んだ。
 台所の、電気の傘が大きく揺れているように見える。
 ドン! ドン! という音が、絶え間なく続いている。
 大きな地震が来たのかもしれない。
 目を閉じたのに、瞼の中がまだ眩しい。
「千歳ちゃん、しっかりして」
「息はしとるか」
 もう、誰の声も聞きたくない。
 何もわたしに知らせないで。
 耳を押さえて、玄関を飛びだした。
「ぎゃーーーーーーーーーー!! 死んだんだ死んだんだ死んだんだ死んだんだ死んだんだ」
 夢原さんと初めて会った場所。豪邸の前を通った。庭に飾られたビーナスは見えない。
 花輪と、喪服を着た人たちで埋め尽くされ、何も見えない。
 花輪の前にしゃがみこんだ。
 わたしの前を、黒い靴が、いくつもいくつも通り過ぎて行く。
 革靴……パンプス……革靴……革靴……
 わたしの肩を叩く人はいない。
 夢原さんはいない。

 花輪を見上げた。
「白い花火みたい……」


終章 みんなみんなみんな夢でありました


 わたしには、何もなくなった。
 拠り所とする人はいなくなった。
 代わりを探す気も起きなくなった。
「何もないって、なんでこんなに気持ちがいいんですかね?」
 わたしはエプロンをかけ、本屋のレジに立っている。レジ台のすぐ横でパソコンに向かう牛島さん……いや、牛島店長に言った。
牛島店長はパソコンで在庫確認をしているようだったが、顔を上げ、こちらを向いた。
「何もないなんて言うもんじゃないですよ」
 穏やかだけど、真剣な口調。
 ……またまたぁ、牛島店長ったら、前向きだなぁ。
 でもわたしも、かなり前向きな意味で言ったのだけど、うまく伝えられなかったようだ。
 牛島店長は大きな体を横向きにして、レジ台の外に出ると、振り返ってわたしを見た。
「仕事が何もないと感じたときは、自分で見付けてみてください。たとえば本にかけるカバーを折ってストックを作るなり、レジの周りを拭くなり、何かしら見つかるはずです」
 そう言ったあと、平積みの本を整えて歩く牛島さんの背中を見つめながら、思う。
 牛島店長は仕事に対しいつも真摯な姿勢だ。
手際の悪いわたしは、同僚たちよりもたくさん注意を受ける。
 なのに、前に働いていた本屋でレジに立っていたときのように、わたしは常にビクビクしているということはない。過度に緊張していない。
 気付いたらこうして、レジでぼんやりと考え事をしてしまうくらい、リラックスして働いている。
「おはようございます」
 遅番の田川さんが、後ろ手にエプロンのヒモを結びながらレジ台の内側に入って来た。
「はぁ……。外、夕方だっていうのに、まだ暑いんですよ。信じられない。いつになったら夏は終わるんですかね。ところで、今日は新刊のマンガはあります?」
 マンガ喫茶で初めて山口さんを見かけた頃によく似た印象の田川さんは、いつもハキハキとした口調で話す。
「今日は木曜だから、新刊はないよ。だから見ての通り、暇なんだ」
 わたしは先輩だし年上なので、敬語を使わず、答える。
 敬語を使わない……
 たったそれだけのことだけど、前に本屋でバイトしていたときにできなかったことが今こうしてできる。
 それがときどき不思議に思える。
 ……わたしの何が変わったのだろう。
 たしかにわたしの中で何かが変わった。
 本物の詩人、夢原翼さんを失って、昨日で一年が経った。
 そう。一年前の、今日と同じ日付の日に、夢原翼と、それから同時に「夢原さん」と読んでいた人も失った。
 憧れの夢原さんのそばにいられて嬉しいという気持ちとともに、彼が夢原翼でなかったらどうしようと怯える日々は、たった一夏で呆気なく終わってしまった。
 その後わたしは何ヶ月も実家の二階で呆けたように暮らしていた。階下では相変わらず父と母が言い争いをしていて、わたしは夢原翼の詩集を読んで逃避するでもなく、ただ虚ろに、何をするでもなく、ベッドの上に体育座りをしたり、眠っていたりしたら、秋と冬が終わった。
 春になって、しばらくぶりに夢原翼の詩集を開いてみた。
 そこには、夢原家の温かさがあった。抜け落ちそうな畳貼りの床や、軋む階段、おじいさんやお母さん、それから夢原さんと一緒に花火を見るはずだったベランダを思い出した。
 だけど……
 これは……
 ただの入れ物だ!
 重要な中身が存在していない。
 わたしの思い浮かべた光景から、おじいさんとお母さんと夢原さんが音もなく姿を消した。
 そのままわたしは、玄関の外へ瞬間移動のように追いやられる。
 見えるのは、山田家の表札。
 赤茶色のトタン屋根をゆっくりと見上げた。
 それが、詩人の夢原翼が見ていた光景。
 夢原翼は……
 わたしは……
 欲しかったけど手に入らなかった物のことばかり考えて生きてきた。
 もう、ただ嘆いているのはいやだ。
 このわたしのまま、何かの拍子に死んでしまうのはいやだ。
「いやだーーーーー!!」
 わたしは泣き叫びながら、階下に降りた。
 トイレとお風呂に行く以外、ここ数ヶ月ほとんど降りることのなかった階下へと階段をかけ降りた。
「わたし、バイトする。一人暮らしをするよ!」
 リビングでそう宣言するわたしの顔に、みかんが命中した。
 父は、母がいないときだけでなく、母とのケンカの最中にも物を投げるようになっていた。
 わたしが夢原家に居候するために出て行こうとしたとき、一万円札を渡してくれた父は、何も変わってはいなかった。
 母も変わらなかった。
 詩人の夢原翼は作風を変えて、進路変更した矢先に病気で死んでしまった。
「わたしは変わりたいんだ。このまま死にたくないんだ」
 みかんが当たって傷む鼻頭と、みかんの汁で汚れたパジャマに少し気を取られながらも、自分に言い聞かせるように宣言した。
 その翌日、牛島さんが店長をしている本屋へ向かった。
 「働かせて下さい」と必死で頭を下げるわたしに牛島さんは、「この仕事をもう二十年やっていますが、そんな必死の形相でバイトの面接に来た人は初めてですよ」と笑った。
「本来なら喫茶店にでも移動して面接をするところですが、喜んで採用させて頂きます」と、レジ台越しに履歴書を差し出すわたしに言ってくれた。
 そして、ここで働き始めて四ヶ月が経った。今はバイト代を切り詰めてのぎりぎりな生活ながらも、一人暮らしをしている、
 わたしにはもう、夢原翼は、必要ではない。
「何もないって、いいものですよ」
 牛島さんは本棚の整理に行ってしまったので、隣の田川さんに、牛島さんに言ったのと同じことを言ってみた。
「何言ってるんですか。いやですよー。彼氏ほしいですよ。就職決まらないと死にますよー」
 田川さんは、へなへなーッと床に座り込むような仕草を見せた後、店内を見回すと、お客さんの目を気にしてか、すぐに立ち上がった。
「まぁ。あるに越したことはないかもね」
 わたしは田川さんに小さく手を振って、レジの外に出た。
「あ! おつかれさまです」
 追いかけるように田川さんの声がした。
 振り返って挨拶をすると、倉庫兼控え室へ入り、エプロンをはずした。
 エプロンの下には、水色のワンピースを着ている。それに合わせて、いつもバイトへ来るときはスニーカーなのに、足もとは白いサンダルだ。
 朝からサンダルで立ちっぱなしだったから、靴擦れが数箇所できているのを確認した。
 鞄を持って店内に出ると、バインダーに挟んだコピー用紙を右手に持ち、それを見ては売り場に並んでいる雑誌を抜き取って、もう片方の腕に抱える牛島店長が見えた。
 駆け寄って声をかける。
「すいません! 今日、返本の日だったんですね。やり忘れてました」
「わたしも、頼み忘れてました、細かい仕事を見付けるよう指示する前に、これを頼めばよかった」
 牛島店長は照れ笑いを浮かべた。
「まぁ、いいですよ。わたしはレジでもどこでも、本を触っているのが好きですから」
 牛島店長が言った。
「変な趣味ですね」
 すかさず言葉を返した。

 本屋を出ると、駅に向かった。アパートはここから徒歩圏内のところにあるけど、今日はまっすぐ帰らずに、行くところがある。
 一年前、最後まで見られなかった花火を一人で見に行くのだ。
 私鉄に乗ると、懐かしい景色が通り過ぎて行った。
 降り立った駅前には、チェーン店のハンバーガー屋。チェーン店のケーキ屋。チェーン店のラーメン屋……
 それに、個人経営の寂れたお店が、チェーン店のお店に混ざって点在している。
 一年前とまったく変わらない。
 と、思ったら……
「夢原さんと入ったチェーン店の喫茶店が、別のチェーン店の喫茶店に変わっている!」
 なんてことだ!!
 声を出して笑った。
 少し、涙が出た。
 踏み切りのそばの電柱に「花火大会」のポスターが貼ってあった。
 日付は……
「明後日だ」
 な、なんてことだ。去年と同じ日付に来れば花火を見られると思っていたのに、毎年八月の第三土曜日に開催されていたとは。
 せっかくお気に入りのワンピースを着てきたのに。
 せっかく今日で、ほんの少し残っている未練も、完全になくなると思っていたのに!
 しばらく電柱の前で思考停止した後、ふと横の掲示板に目が行った。
 そこには「フラメンコ教室生徒募集」「一緒に太極拳をしませんか」など、手作り感が漂うA4サイズの紙が何枚も貼られていた。その中の一枚に「障害のある人もない人も、楽しくフォークダンスを踊りませんか」と書いてあるポスターがあった。
 達筆な文字の下に、色鉛筆で人らしきものが描かれていた。二人一組でフォークダンスを踊っているんだ……きっと。
 日付は今日だった。開始時間は今から三十分後。
 せっかくだからここへ行ってみよう!
 会場である小学校へ向かう途中、電柱だったり個人商店の壁だったりに、ところどころフォークダンス大会のポスターは貼られていた。だけど全部、描かれている絵は違うものだった。
 本当はもっと広範囲に貼られているのだろうけど、一枚一枚楽しみながら見て歩いていたら、導かれるように小学校の校門までたどり着いてしまった。
 校門をくぐると、黄色の腕章を付けた係員が数人立っていた。
「こんばんは。フォークダンス大会はまだですけど。キャンプファイヤーはもう始まってますから、どうぞ中へ」
 中学生くらいの女の子に腰のあたりを掴まれたまま、三十代半ばくらいの女性がわたしに向かって言った。
 わたしは会釈をして、校庭へと入って行った。
 まだ完全には陽の落ちていない水色の空に対し、松明の明かりは所在なげに見えた。
 これから始まるフォークダンス大会のために集まった人々も、なんとなく円のような形を成してはいるが、やっぱり所在なげだ。
 おずおずと、出来損ないの輪の中へとわたしも入っていく。
 しばらく立ち尽くしていると、まだまだ暮れないだろうと思っていた空は薄暗くなり、拡声器を通した声と音楽が流れるのを合図にして、フォークダンス大会は始まった。
 サンダルで砂の感触を確かめながら、両手を肩の高さまで上げて構えていると、後ろから次々と知らない人がわたしの手を握り、そして踊り終えると前方へと流れていく。
 ……この曲はなんてタイトルだっけ?
 フォークダンスの曲、としか覚えていない。
 足の動きなんかは当然見よう見まねだ。斜め方向に見える人を真似して踊ってはいるけど、その人の踊りが合っているのか間違っているのかもわからない。
 それでも楽しい。
 音楽を流していたスピーカーが音割れを起こすと、あちこちから、笑いと悲鳴が上がった。
 わたしはびっくりして、手を繋いで踊っている相手の足を踏んでしまった。
 ……よりによって、スニーカーじゃなくサンダルで。
「……ごめんなさい」
 わたしが言うと、相手の男性は手話でたぶん「いえいえ、かまいませんよ」というようなことを言った。
 にこやかだったから、きっとそう言ったに違いない。
 後ろから前へ、笑顔の人々がくるくる通り過ぎて行く。それに合わせて、わたしが着ている薄地のワンピースの裾も揺れる。
 いつの間にか辺りは真っ暗になっていて、松明の明かりが眩しい。夏の夜の涼しさを肌で感じると同時に、松明の火によって顔だけが火照っているのがわかった。
『あぁ。きれいだなぁ』
 てきとうに踊ることに慣れてきて、松明の明かりが反射した、校舎の窓に目をやる余裕が出てきた。
 ずっと後ろのほうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 音楽のせいで、何と言っているかまでは聞き取れないけれど、たしかにその声は知っている声だった。
 踊っているうちに、光を照り返す窓ガラスに見とれているうちに、意識しないようにするうちに……
 声はどんどん後ろから近付いてくる。
 わたしは体を強ばらせた。
「はじめまして。夢原翼です。よろしくお願いします」
 思わず振り返った。
 七組くらい後ろで踊っている、長身に長髪の、整った顔立ちの男性を、見た。
 彼は、踊り始める前に必ずパートナーに名前を名乗っていた。
「はじめまして。夢原翼です」
 音楽が耳に入らなくなり、しんと静まり返った中で、彼の声だけがわたしの耳には入ってくる。
 まるで踊りになんか集中できず、自分が自動的に動くロボットか、紐から離れた独楽になったような気がした。
 他人の足を踏んだり、よろけて支えられたりもする、独楽だ。
「はじめまして。夢原翼です」
「はじめまして。夢原翼です」
「はじめまして。夢原翼です」
 声は、どんどん近付いてくる。
 わたしの手から、完全に力が抜けた。握っていたパートナーの手も放してしまい、ぶらりと手をぶら下げ、棒立ちのまま。時間が過ぎていく。
 わたしの隣に立った人は、所在なげに立ち尽くしては、音楽が切り替わると同時に前絵と移動していく。
 そうして、何人かの人を見送った後、わたしの真後ろに立った人が言った。
「はじめまして。夢原翼です。よろしくお願いします」
 振り返った。悲しいくらい虚ろな目をした、夢原さんが立っていた。
 口元だけ笑みを浮かべ、踊る準備をして待っている夢原さんから、わたしは目を逸らし、サンダルと、その下に広がる砂を見つめた。日が暮れた中で見る砂は、灰色ではなく黒く見えた。
 ……わたしのせいだ。
 わたしのせいで、夢原さんはいまだに夢原翼を演じている。
「夢原さん! 違う! 山田さん、山田さん、山田さん!」
 わたしが叫ぶと、前で踊っていた二人が、怯えたようにこちらを振り返った。
 夢原さんも、わたしをじっと見た。
 向かい合いながら、わたしは夢原さんの言葉を待った。
「どうも、はじめまして。夢原翼です」
 わたしは下を向き、両手を肩の高さまで上げた。
 その手を、夢原さんが掴む。
 そして、わたしたちは踊る。
 わたしは泣きながら踊る。
 わたしの肩に、ポタポタと涙が垂れてきた。
 ……おかしいな。
 泣いているのはわたしのはずなのに、なんでわたしの手に、涙がかかるのかな。
 手で拭ってもないのに、わたしの手は湿っていく。
 なんで、夢原さんまで泣くのだろう。
 虚ろな目で、わたしの手を後ろから握っているはずの夢原さんは今、何を考えているのだろう。
 夢原さんの手を強く握り、振り返って見上げた。
 夢原さんは、しゃくり上げるようにして泣きながらも、しっかりとわたしを見ていた。
「俺に……俺に、才能はあったのだろうか」
 唇を噛みしめながら、わたしの返答を待つ夢原さんから、目を逸らした。
 ……わからない。
 才能があるかないかなんて、わたしには初めからわからなかった。
 わたしが夢原翼に求めていたことは……
 それは、才能のあるなしではなく……
 いつまでも変わらないこと。
 曲に合わせてターンし、わたしたちは向き合った。
「わたしは、夢原翼に、才能なんて求めてませんでした。ただ、変わらずいてほしかった。だけど、いい詩を書いたり、全然だめな詩を書いたり、あなたは変わってばかりいました。そんなあなたと過ごした時間は……」
 とても楽しかった。
 最後まで伝える前に、夢原さんはわたしの手をそっと放し、列を抜けて校舎のほうへ歩いて行ってしまった。
 才能があると言ってあげられなかったから、傷付いたのだろう。
 だけど、本音だから仕方がない。
 もう、自分にも夢原さんにも嘘はつきたくない。
 夢原さんが校舎の手前で立ち止まり、振り返った。
 その目はもう、虚ろではなかった。
 しっかりとわたしを見据えていた。
「はじめまして、山田和夫です! よろしくお願いします!!」
 松明の照り返しで輝く校舎の窓を背にして、夢原さんだ叫ぶ。
 叫んだあと、笑いかける。
 温かい笑顔だ。
 わたしも真似をして叫ぶ。
 この距離では音楽にかき消され、わたしの声は届かなそうだから、口の横に両手を当てて……
 山田さんに向かって!
「はじめまして、森千歳です! よろしくお願いします!!」
 わたしは山田さんに向かって走って行く。
 後ろでは音楽が鳴り響き、フォークダンスが続いていた。


                了

『ザ・インタビューズ』サービス終了にともなって

『ザ・インタビューズ』というウェブサービスがなくなってしまうらしいので
こちらへいくつか文章を移すことにしました。
インタビューという形式を意識して、ですます調の他人に語りかけるような文体になっています。
回答ごとに写真を添えるのも『ザ・インタビューズ』の特色でした。

質問「おじ​いちゃんとの思い出を​語ってください。」

回答

父方の祖父はわたしが生まれる前に自殺しているんですけど、だから家族の中では祖父は幽霊か魔物か、みたいな語られ方をしていました。魔物というのは例えで、父が、今思えば心気症かうつ病か、その両方かを患っていたときに「俺は癌だ。もう長くない。いっそ自分でケリを」みたいなことを言うのに対し母は「お義父さんの二の舞かよ」と怒鳴りつけていて、10歳くらいのわたしは、よくわからないけどおじいちゃんというのは、なってはいけない反面教師なんだ、と感じていました。

会話の流れからそこまであからさまに、祖父の最期が自殺だったことは語られつつも、「結局のところおじいちゃんって、自殺したの」と母に訊ねて、そうだという答えが返ってきたのは、高校生くらいになって、やっとでした。わかっているくせにしつこく確かめたがるわたしに根負けしたのだと思います。そのときに話してくれて、「あぁ、なんだ」と思ったのが、自殺といっても70代で腸の病気を患い、手術をすれば生きられる可能性は高かったらしいのですが、人工肛門で生きることより首を吊ることを選んだそうなんです。

ほとんど病死に近いけど、「病死」なのか「ほとんど病死」なのか、ということは知っておきたかったので聞けてよかったと思います。

その後、少しだけ父や母に祖父のことを訊きやすくなりましたが、やっぱり訊くと父も母も身構えるのが伝わってきました。父方の祖母の話や、母方の祖父母の話を訊かせてくれるときとはまったく違いました。

わたしはなんで血の繋がりのある人間への興味が子どもの頃から強いのだろうという部分は、自分でもわかっていないので置いておいて、語られないからこそ、祖父への興味は強くなり、20歳を過ぎたくらいから、もはや憧れの存在のようになっていました。
その憧れの存在である祖父が極端に無口な人であったことと、親族経営の昆布屋で経営者ではなく雇われて働いていたことも聞いていたので、その点がすごく気がかりでした。人と関わるのが苦手な人物像を描いていたので、毎日昆布を売る生活は辛かったろうにと。それと自殺とは、自殺したのが定年後だったから関係ないだろうとは思っていましたが、単純に、血の繋がっている人間が、生きている間に充実した人生を送っていたとしたら自分のことのように嬉しいという感情から、気になるところではありました。

ほんの最近になって、父と母の住む実家に帰省した際、「おじいちゃん、無口な人だったって聞いてたけど、昆布屋で働くのは辛くなかったのかな」と、父に率直に尋ねました。今までは、話しやすい母からばかり祖父のことを聞き出そうとしていましたが、初めて、祖父の息子である父に、『わたしは祖父のことが本当に知りたいんです』という気持ちをぶつけました。
そうすると父は、話してくれるは話してくれるは。昆布を削る工程や、塩をまぶすときの塩加減の調整にはいかに職人技が必要かということや、臨場感たっぷりに話してくれるので、昆布の製造工場に父に連れられていって、聞いているようでした。そうして聞くうちに、祖父が店頭に立って40年くらい昆布を売り続けていたと思い込んでいたのは誤解で、祖父は昆布店のすぐ横の工場で、昆布の加工を任されていたことを知りました。無口な祖父には、きっとその仕事は合っていたんだと思います。
父に、「なんで昆布がプールみたいに大きな水を貼った箱の中をゆらゆらする様子までわたしに伝えられるのか」と不思議に思って訊いたら、「俺の子どもの頃に住んでいた家は工場のすぐ裏だったから。学校が終わったらときどき見に行っていた」という答えが返ってきました。そのときに、「あぁ、わたしは父の子なんだなぁ。おもしろいものを見てみたい。知りたい。そこに深い理由はない、そこが似ている」と思いました。

シンクロニシティーというのはあるもので、後日、父の姉である伯母が句集を自費出版したというのでそれを郵送で頂いたら、収められた句の中に、祖父のことを詠んだ句がありました。伯母にさっそく手紙を書いて、わたしの育った家族では祖父のことがあまり語られて来なかったこと、だから伯母さんの句で、祖父の人柄を知ることができて嬉しいということ、そういったことを綴った手紙を送りました。
伯母から返信の封書が届き、開けると、晩年に撮影された祖父の写真が1枚入っていました。父の実家に飾られていた遺影以外に祖父の写真を見るのは初めてです。
便箋に、祖父の生年月日や略歴も、書かれていました。

今まで、父や伯母は、実の父を自殺で失ったことに対し、わたしよりも大きな悲しみを背負っているだろうからという遠慮もあり、わたしは祖父のことが知りたいと言えなかったけれど、伯母からの答えは「私の父(貴女の祖父)に関心を示してくれて、とても嬉しく思います」という言葉と、それに手元にあった写真を焼き増ししてくれたり、調べて略歴を書いてくれたりといった行為でした。

父や伯母が生きているうちに祖父のことを以前よりもはるかに知ることができて、本当に良かったと思っています。

(2012-04-24 01:43:54回答)

小説「華厳経」について

小説「華厳経」1-1 - 楽しい日記
小説「華厳経」1-2 - 楽しい日記
小説「華厳経」1-3 - 楽しい日記
小説「華厳経」(仮題)1-4 - 楽しい日記
小説「華厳経」1-5 - 楽しい日記

2013年6月1日から6月5日の日付のところに
とりあえず書きためておいた分はアップロードしました。
書くのが遅いです。
お話の先は決まっていません。
違う方向に話が進んだら、今回アップロードしたぶんも差し替えます。
タイトルも変えるかもしれません。
何もかもが見切り発車ですが、見切りじゃないと発車できないのでこういった形で進めることにしました。

*2016年6月13日 小説「華厳経」を、タイトル「部屋」に改題予定で書き進めています。

小説「華厳経」1-5

午前11時にのろのろと起きた。「もう梅雨に入ったのか」と思いつつ、外が雨のせいで暗い部屋の中、パソコンの電源を入れた。今日は午後3時から出勤の予定を入れてある。わたしはホテヘルに籍を置いている人間にしては珍しいかもしれないが深夜の繁華街は苦手だ。だから午後3時から午後8時までの5時間を仕事の時間にあてることが多い。出かける準備を始めるまでにはまだ時間がある。
 アバターサイトにログインすると「新着プレゼント31件」の赤い文字が目に入った。
「あぁ。新しいガチャが始まったのか」
声に出して独り言を言った。
 アバターアイテムをわたしに送ったのはチョコちゃんというアバターだった。「ちゃん付けで呼んでね」そう言われたのでチョコちゃんと日記のコメント欄やチャットの吹き出しでは呼んでいるが、たぶん40歳を越えている女性だ。ちなみにわたしは27歳。決して登録数の少ないサイトではないが、20代半ば以上のアクティブユーザーというとさほど多くはないので20代後半も30代も40代も、サイト内での友達や友達の友達として固まる傾向にある。
 アイテムひとつひとつに、チョコちゃんからのメッセージが添えられているのを、ワンクリックで確認していく。
「1個目。リカちゃんおはよう」
「2個目。ガチャ始まったね」
「3個目。今回もリカちゃんは回してないと思って」
「4個目。私は今回も課金して回しちゃったよ……」
「5個目。なかなかレア出なかった〜w」
「6個目。やっと出たけどなんか微妙」
「7個目。でもまぁいっか。解禁したら過去アイテムとトレードできるかもしれないしね」
「8個目。このうさぎはレアじゃないのに可愛いと思うんだ」
「9個目。これはダブりすぎw」
「10個目。これもいらないかもしれないけど……」
そうして短文のメッセージが続いていく。
アイテムに添えられてたメッセージを、受け取った後に消せたら良いのにな、と思う。
 そのアイテムをアバターに身につけさせるたびに「これはダブりすぎw」という笑いの付いた悲鳴を感じなければならない。
「29個目。課金してること、まだ旦那に気づかれてないw」
「30個目。今日はパン教室の日」
「31個目。行ってきます」
 
『チョコちゃん、わたしも行ってきます』
 パソコンの電源を落として化粧に取りかかった。

 生活費は毎月夫から振り込まれているのに、わたしはホテヘルで働く。

小説「華厳経」(仮題)1-4

後回しにした前職の話。わたしが文芸雑誌にエッセイを寄稿し、それからすぐに身内に同業者がいることを知られ「コネだ、消えろ」とインターネット上で罵られた。
 その時わたしは、友達に心配をかけようなんて思わずに当然のことのように、こう言った。
「だからわたしは消えるといいんだと思うよ。雑誌からとかインターネットとかからではなくてこの世の中から」
 友達の秋幸は「いやいやいや。百歩譲って君が消えるのを望んでいる人の要求を飲むとしても、それは望まれていることと違うでしょう」と言った。それからわたしに旅行を勧めた。
 その話をした場所は秋幸の部屋だった。大きな書棚がふたつある秋幸の部屋で、わたしと秋幸はコンビニで買ったビールや缶チューハイを呑んだ。翻訳の仕事をしている秋幸の本棚には、洋書が多い。わたしは酒の入ったアルミ缶の冷たい感触を手に味わいながら、たいして読めない英語を目で追った。
 秋幸とは高校の同級生で、夫とわたしが別居をし、秋幸の住むアパートとわたしの引っ越したアパートが近くなったことにより、時々自転車や徒歩でお互いの部屋を行き来する仲になった。それまでは同窓会で顔を合わせる程度だったのに。
 親しくなって以降、秋幸にはいろいろと話してきたが、ホテヘルで働き始めたことだけは言っていない。離婚を望んで別居を切り出してきた夫にも。

 ホテヘルで働いた帰り道、痴漢に遭ったことがある。駅からアパートまでの細い道を歩いていたらおしりを触られて、触られたことよりも、自分のむきだしの怒りに驚いた。
 振り返って痴漢を睨みつけたときに、お互いのあいだに殺気だった空気が流れた。暴力の前兆。前兆だけで「あぁ、そうか。わたしに力なんてなかった」と脱力したのを感じ取られ、痴漢には走って逃げられた。
 それでもたしかにわたしは、相手に暴力を振るおうと考えた瞬間があった。力なんてないと思っていても、少しだけならある。それを感じた。