長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)4/4

(十四章から最終章まで) 
十四章 わたしはマンガ喫茶バイト


 朝になって、驚いた。
 ベッドじゃなく、ふとんに寝ている。
 綿素材のネグリジェを着ている。
「ここは、夢原さんの家だ!」
「あらあら、起きた?」
 夢原さんのお母さんが、わたしの体をまたぎながら言った。
「ちょっとごめんね。ベランダに洗濯物干すのに、ここからしか出られないから」
夢原さんのお母さんはさっそく、柵の錆びついた小さなベランダに出て、洗濯物を干している。
「眠れた?」
「はい、よく眠れ……あ! おじいさんの部屋奪っちゃってごめんなさいって……おじいさんに言わないと。おじいさん、昨日は半分寝ぼけたまま、下に降りて行ってくれたから」
 ふとんの上で正座をしながら、夢原さんのお母さんを見た。
「あぁ。あのまま仏間でわたしと並んで寝て、朝起きたら『ここはどこじゃ?』って言ってたくらいだから気にしないで」
 夢原さんのお母さんが、音を立てて白いランニングシャツのシワを伸ばしながら言った。
 腰を屈め、色褪せたプラスチックのカゴから今度はトランクスを手に取った。
 ……ゆ、夢原さんのかも?
 目を逸らした。
「おじいさんとお母さんは、お嫁さんとお舅さんなのに、本当の親子みたいですね」
 夢原さんのお母さんが振り返った。
「うーん。そうね。そんなもんじゃないかしら。四十年近くも一緒に住んでるんだもの。別に毎日一緒に寝たって、どっちが気兼ねすることもないだろうね」
 お母さんは引き続き洗濯物を干している。
 わたしはふとんを畳んで、昨日来ていたワンピースに着替えようとした。
 ……あ!
 シワになっている。ちゃんと畳んで寝たつもりが、畳めていなかったみたい。
 おじいさんのことは言えない。昨夜この家に着いたとき、わたしも疲れていて半分寝ているみたいだった。
 夢原さんと会話をした記憶があるけど、あれは夢?
 着替えてから、襖をそーっと開けてみた。
「和夫なら」
「わ!」
 後ろに、洗濯カゴを持ったお母さんが立っていた。
「散歩に出かけたわよ。たぶん、近くの児童公園。そこのベンチに座って何か書いてる和夫をよく見かけるの。だけどそういうときは、そっとしておいてあげるのよ」
「じゃあ、わたしもそうします」
 夢じゃない。「完璧な詩」を書くために夢原さんは、さっそく頑張っているんだ。
 軽やかな足取りで階段を降りた。
 台所にも仏間にも、おじいさんはいなかった。
 お母さんが、空になった洗濯カゴを持って降りてきた。
「あの、おじいさんは?」
「いないってことは、また病院でしょう。どこかしら痛くないと楽しみのない人だから」
 お母さんが笑った。
「千歳ちゃんがずっといてくれたら、おじいさんの楽しみも増えるだろうけどね」
 ……わたしが、ずっとここにいたら?
「お母さん、これ、ありがとうございました。また来ます」
 お母さんにネグリジェを返し、夢原家を後にした。

 家に帰ってきた。
 四LDK。玄関にみかんが落ちていることが多々ある、鉄筋コンクリート製のわたしの家。
 ……はぁ。
 今日は日曜日。
 父の仕事が休みだから、みかんが靴の上に乗っている可能性の高い曜日。
 父は、母が家にいないと機嫌が悪くなって、物を投げる。
 母が家にいると、口喧嘩をふっかける。
 あ! 母の自転車は玄関前に停まっている。
 ということは、みかんではなく、言い争いか。
 ドアを開けた。
「あなたがいつも千歳をじゃま者扱いするから」
 途端に、母の叫声が耳に入った。
「あいつももう二十三だろ」
「二十三だから、何をしてもいいって言うの!? 今頃、変なお店で働いているかもしれないじゃない」
「もう昼だろ。だとしても、もうとっくに勤務は終わってるよ」
「もう終わったって……。自分の娘でしょ! よくそんな言い方できるわね」
「恋人ができただけかもしれないだろ!」
「だから、千歳には無理だって!」
 音が立たないよう、ドアをそーっと閉める。
 バタン!
 無理だった。わたしには無理だった。音が立たないようドアを閉められるような、器用な人間じゃない。
「千歳!」
 母がスリッパの音をパタパタさせながら、玄関までやってきた。
「お母さん、スリッパ……」
 片方、脱げている。
「お帰り」
 わたしの言葉は耳に入らなかったようだ。
 母は、真正面に立ち、わたしの顔を見ずに言った。
「ただいま」
 ……なんで直接訊かないんだろう。
「お昼ご飯は食べたの?」
 ……お昼ご飯じゃなく、「どこに泊まったの?」「何してたの?」「この先どうするつもりなの?」って。
 黙って頷いた。食べてないけど頷いた。
「そう……。お母さん、着替えてちょっと出かけてくるから」
 母が、片方だけスリッパを履いたまま、階段を昇りかけた。
 着替えて行くところといっても、喫茶店くらいしかないくせに。
「嫌い……」
「え?」
 階段に足をかけた母が振り返った。
 母のことは無視し、リビングを通り、父のいるテレビとソファーのある部屋に向かった。
 父はソファーの上に寝ころび、独り言を言っていた。
「千歳さえ短大にいれなけりゃあ、よう。男ができたんなら、そんな嬉しいことはないだろ。結納金、がっぽりもらえばいいんだよ」
 ソファーの周りには、いつも通りビールの空き缶。
 わたしが帰ってきたことに、まったく気付いていない様子。
 わたしは床に転がっていたリモコンを手にし、父が見ているわけでもないテレビの電源を切った。
 点いていないテレビの前。父の正面に正座する。
 父が、バツの悪そうな顔をしている。
「千歳……帰ってたのか」
「はい、帰ってました」
 こうして父の顔をまっすぐ見るのは、小学生以来かもしれない。
 もう随分、部屋越しにとか、目を逸らしながらとかしか、会話をしていない。
「お父さん、まじめな話があります」
「なんだ!?」
 父が、酔っぱらって赤い顔をしながらも、ソファーに座り直した。
「お父さん。わたしはお父さんが嫌いです」
「……」
「お母さんも嫌いです。今までお世話になりました。わたしはこの家を出て、あたたかい家庭に居候します」
 スリッパの音が近付いてきた。
 母が、キッチンとこの部屋の境目に立って、ぼう然とわたしを見下ろしていた。
 もう片方のスリッパも、脱げていた。

 階下から、母の泣く声が聞こえる。
 父の声は聞こえない。
「えーっと。服は三枚あればじゅうぶん。夢原さんの詩集は、夢原さん自身が持ってるから、それを見せてもらえばいい」
 置いていけばいい。
 最低限のものだけ持って行こう。
 この白とピンクの、かわいらしすぎる部屋とも今日限りさようなら。
 わーい。嬉しい。
 夢原さんのおじいさんも、お母さんも、きっとわたしを家族にしてくれる。
 そうだ。バイトをしよう。
 できれば、牛島さんが店長の本屋がいい。
 牛島さんの店でバイトを募集していなかったら、他の店でもいい。
 きっとできる。
 夢原さんは、「完璧な詩」を書くために頑張っている。
 夢原さんの書く「完璧な詩」と、夢原さん、おじいさん、お母さんがいれば、わたしはなんだってできる。
 修学旅行のときに使った旅行鞄に持って行く物を詰めたけど、鞄はすかすかだった。
 鞄を持って階段を駆け降りると、そのまま逃げるように家を後にした。
 早足で歩きながら、見上げると燦々と輝く太陽。青い空に白い雲。
 今日からわたしの新しい生活が……
「……」
 後ろから、なんか変な音がする。
 おそるおそる振り返る。
 ……ぎゃーーーーー!
 父が、サンダルをバタバタ言わせながら、ものすごい形相で追いかけてきている。
 逃げるようにこそこそしている場合じゃない。
 逃げる。
 走って逃げる。
「千歳! 待て」
「嫌だ」
「待つんだ」
「嫌だったら。戻らないから」
「ちょっと待てってば」
 アル中の父に、追いつかれてたまるか。
「千歳! 止まれ」
「止まらないよ」
 左側の駐車場から右側の住宅街へと横切ろうとしていた猫が、走っているわたしに驚いて、わたしと同じ進行方向に走って行く。
 猫が一番早い。
「一万円!!」
 後ろから、父の声がした。
「え!?」
 立ち止まった。
 振り返った。
「何? 一万円って」
 父がみるみる追いついて来た。
 一万円札を、むき出しに手にしているのが見えた。
「これ……とりあえず持って行け。後で……必ず電話して……通帳の番号教えろ。もう少し……金……振り込むから」
 わたしに追いついた父は、肩で息をしながら、途切れ途切れにそう言った。
「ありがとう」
 わたしがそう言って一万円札を受け取ると、父が笑った。
「がんばれ」
 ……ありがとう。
 でも、通帳の番号は教えない。
「じゃあな。電話しろよ」
 ……電話もしない。
「うん。電話するから。それじゃあね」
 歩き出しても、後ろからまだ父がわたしを見ているような気がした。
 角を曲がるまで……
 角を曲がるまで……
 涙が流れて、顎まで垂れてくるけど、拭わない。
 後ろから見ている父に、泣いていることが伝わらないように。
 角を曲がり終えたとき、鞄を地面に落とした。
「うわーん。ごめんなさい。お父さん、お母さん、ごめんなさい。好きになれなくてごめんなさい。」
 道路標識に抱きついて泣いた。

 駅に行く前に、マンガ喫茶に来た。
 お別れを言わないといけないのは、父と母だけじゃない。
 夢原さんの家に住むようになれば、山口さんにもなかなか会いに来られなくなる。
 笑顔が素敵で、社交能力が高くて働き者の山口さん。
 彼女はわたしの憧れだった。
 少しだけど、交流を持てたことは嬉しかった。
 だから彼女にお礼を言おう。
 笑顔が素敵で、社交能力が高くて働き者の……
「あれ?」
 山口さんがいない。
 怪訝な顔をして、レジを覗き込んでいる客の女の人がいるだけ。
 女の人と目が合った。
 白いブラウスを着た三十代後半くらいの女の人。
「店員さん、どこに行ったのかしら。延長料金、取られちゃうわ」
 女の人が、わたしに言っているのか独り言なのか、呟いた。
 もしかしたら、山口さんは今、トイレの清掃中かもしれない。
 前にもレジに誰もいないことがあって、そのときは「トイレ清掃中。ご用の方はお声をおかけください」という手書きの文字とイラストの書かれた紙がお金を置くトレイの上に置いてあった。今日はその紙を置き忘れたんだ。
 山口さんを探しに、ドリンクバーの機械やマンガの並んだ棚通り過ぎ、店の奥にあるトイレに向かった。
「山口さーん」
 男子トイレと女子トイレ、どちらを掃除しているかはわからないけど、とりあえず女子トイレに入り、みっつ並んだ個室全体に向かって声をかけた。
 返事はない。
「いませんかー? お客さん、並んじゃってますよ」
 やっぱり返事はない。
 ここじゃないんだ。
 女子トイレを出ようとしたとき……
「森さん……」
 一番奥の個室から山口さんの声がした。
「山口さん、たいへんです。レジでお客さんが待ってます」
「わたし、だめかもしれません……」
 その声は涙声だった。
 続いて、カラカラとトイレットペーパーを回す音と、小さく洟をかむ音も聞こえた。
「いえ、違うんです。わたしじゃなく友だちがね、昨日、自分から先生に別れを告げたそうなんですよ」
 盛大に泣く声が聞こえた。
「大丈夫だと思ったんだけど、だめみたいなんですよ。なんででしょうね。奥さんと子どものためには、彼女さえ消えれば、万事うまく治まるって、初めからわかっていたことを、昨日ただ実行に移してだけなのに。なぜか、彼女、だめみたいなんですよ……」
 山口さんの入っているトイレのドアを叩いた。
「山口さん、聞いてください。わたしは恋愛をしたことがありません。でも、大切な人を失う辛さはわかります。拠り所がなくなる辛さはよーくわかります」
「ヒック……。わたしは、いつか失うのが怖かったんです。本当は、奥さんとか子どもなんてどうでもよくて……十七歳のわたしが、ハタチになって、三十歳になって……そしていつか捨てられるのが……」
 山口さんがドアを開けて、そーっと出て来た。
 朗読会の日のわたしのように、恐る恐る。
 頬に幾筋もの涙を残しながら、わたしを見た。
 怯えた目をしていた。
 目の前にいるのは、いつもの、「笑顔が素敵で社交能力が高くて働き者の」山口さんではなく、わたしよりも六歳も年下で、ひとりでは抱え切れない問題をずっと抱え込んできた、左手首から……
「血がダラダラ流れてますよ、山口さん。それに、右手に持ったそのカッター、こちらに渡してください」
 山口さんは、いたずらを見つかった子どものような表情で、血の滴るカッターを、ちゃんと持ち手がわたしに向くように渡した。
 ハサミを渡すときと同じ一般常識……
「じゃないですよ。山口さん、まず、刃を閉まってください。そうしないと、わたしが受け取るとき、山口さんの手のひらが切れちゃいますから」
「あ……」
 山口さんは、カッターを見つめながら、刃を閉まった。
 カチカチという音がトイレ中に反響して聞こえた。
 カッターを受け取ったあと、洋式トイレのふたを閉め、山口さんにはそこに座ってもらった。
 あ! 山口さんの着ている長袖シャツにまで血が……
「シャツの血はあとで落とすとして、まず、止血しますね」
 ポケットから取り出したティッシュペーパーを傷にあてがい、その上から、トイレットペーパーをぐるぐる巻いた。
「ちょっと不格好ですけど、出来上がりです」
「森さん、頼もしいですね」
 山口さんは小さく笑った。
「立てますか?」
 トイレットペーパーぐるぐるでない、山口さんの右手をそっとつかんだ。
「イヤー!! 無理です。ひとりで生きて行くなんて無理。先生がいない生活なんて無理。わたしは、ただの高校中退で、何もない何もない……」
「お客さんが待ってますよ」
 山口さんの肩を抱きしめた。
「わたしみたいに、無職で毎日毎日、マンガ喫茶に通っている人間が他にもいて、山口さんの笑顔を見て気分がよくなったり、憧れたり……何もないなんてことはないはずです」
「でも、わたし、今日は……」
 ……山口さんにだって、笑えない日があったっていい。
「山口さん、落ち着くまで、わたしが代わりに店員をやります!」
「え!?」
 山口さんの付けていた黒いエプロンを、服の上から被った。
 ネームプレートには「山口」。
 トイレを出て、小走りにレジへ向かう。
 いきなりレジ操作は無理だから、お金を預かるたび、レジ横にある電卓を使っておつりを計算し、山口さんから預かった鍵でレジを開け、そこからおつりを取り出して渡す。
 よし! 山口さんからそれだけのことは習ってきたからなんとかなりそうだ。
「お、お、お待たせしました」
 レジに並んだ四人の人に、声を張り上げて言いながら、レジカウンターの中に入った。
 初めに見かけた、三十代後半くらいの女性客はもういなかった。
 代わりに、トレーに伝票と基本料金の三百八十円。
 鍵でレジを開けて、そのお金を閉まった。
「どれだけ待たせるんだよ、俺はちゃんと時間内にここに来てたんだからな。延長料金取るなよ」
 と、体格のいい三十歳くらいの男性。
「はい。すいません。取りません。三百八十円です。ありがとうございました」

「あれー? 山口さんって女の子、今日いないの? おっちゃん、いつも楽しみにしてんのよ。彼女のスマイルを。あ、君も山口さん」
 と、六十歳近いおじさん。
「えっと、いまは……そうです。ありがとうございました」

「別に急いでないから平気ですよ。いつもの子じゃないってことは、新しく入った人? がんばって」
 と、わたしより三、四歳若い女性。
「ありがとうございます。がんばります。ありがとうございました」

 レジに立っていると、無言でお金を払って行く人がほとんどだけど、声をかけてくれる人もちらほらいる。
「森さん」
 そう、こんなふうにすでに名前を覚えて、呼んでくれる人も。
 ……え? わたしのネームプレートは「山口」。
 それにこの声は……
「て、店長!!」
 前にバイトをしていた本屋の店長が、レジカウンター越しに立っていた。
「緑のエプロンから、黒のエプロンに転職ですか。ここで働いていたんですね」
「えっと、あの、その、今日はちょっとした手伝いで……」
「まぁ、わたしにはどうでもいいことなんですけど、正社員で事務職に付いた方が、マンガ喫茶の手伝いとは変ですね。……あー、わかりました。この『マンガ喫茶トレンド』の、本社に就職したんですね」
 長身の店長が、わたしを見下ろしている。
「あ、はい! そうなんです。本社に就職して、今日はちょっと手伝いで……」
 店長から目線を逸らしたとき、山口さんがしっかりとした足取りで、こちらに歩いてくるのが見えた。
 長袖シャツの袖には血。その隙間からは、トイレットペーパーぐるぐる巻きの手首が見えている。
 その左手を上げると、グーに握って親指だけを立て、「わたしはもう大丈夫」という合図を送って寄越した。
 わたしは店長に向き直った。
「わ、わ、わたしは……」
 ……うッ。息が苦しい。
 鼓動が速い。
 吐き気がする。
「森さん、なんですか?」
「わたしは……本当は……。正社員どころか、バイトでさえありません。本屋を逃げるように辞めたあと、ずっと無職でした。今も無職です。ずっと無職です!」
 レジから身を乗り出し、店長の目を真正面から見て言った。
 店長が、呆気に取られている。
「そ、そうですか。……よくわかりませんが、インターネットの禁煙席をお願いします」
 店長が言った。
「店長! それに、わたしはここのレジも打てません!」
 いつの間にか隣に立っていた山口さんが、わたしの付けているエプロンを、クイクイと引っぱった。
「もう、代わりますね。森さんがレジに立ってくれていた間、入店客がなくてラッキーでした」
 エプロンを脱いで、山口さんに渡した。山口さんはそれを手早く着ると、本屋の店長に伝票を渡した。
 席を探し、歩き出した店長が振り返った。
「森さん、がんばってくださいね」
 店長は、わたしのことをまた同情するような目で見た。バイトしていたとき、何度も見た目。
「そんな言葉、必要ないですよ。森さんは、じゅうぶんがんばってますから。きっとあなたより」
 山口さんが、満面の笑みで店長に向かって言うのを、横で見つめていた。
 笑いが込み上げてきた。
 山口さんの笑顔は、本当に素敵だ。


 十五章 花火が上がった


 わたしは夢原家のダイニングテーブルで、さやいんげんの筋を取っている。
 隣におじいさん。向かいに夢原さん。斜め向かいにはお母さん。
「千歳ちゃんがここに住むようになって、まだ二週間しか経ってないのね」
 お母さんが四人の中で一番早いスピードで筋を取りながら言った。
「もう随分前からいるみたいじゃな。実家には一週間に一回くらいは電話してやらんといかんよ。『元気にやっとる』のたったひとことでもいいんだ。それだけで親は安心する」
「そうだ。『元気にやっとる』って、電話してやれ」
 ──夢原さんまで。
「わかりました。『元気にやっとる』、電話でそう言いますね」
 いんげんの入ったボールを持って立ち上がったお母さんの肩が、プルプル震えている。笑い上戸のお母さんが笑っているのは、後ろ姿を見ただけでわかる。

 二週間前、わたしが突然、「この家に居候させてください」とお願いした日。おじいさんもお母さんも、驚きながらも快く受け入れてくれた。そしてお母さんがわたしの母に、「娘さんはたしかに預かりました」と電話をかけてくれた。
 夢原さんと襖を挟んで隣の部屋、朝になるとお母さんがベランダに洗濯物を干しに来る部屋を、わたしの部屋として貸してくれた。
 お母さんとおじいさんはふたりして仏間に寝ている。夜中にトイレに起き、そーっと仏間の扉を開けると、二人がおちょこにお酒を注ぎ合っている姿が見られることもある。
 お母さんと、お母さんのボーイフレンドは、相変わらずふたりでパチンコや買い物に出かけている様子。

「そうだ。お母さんのボーイフレンドは、今日の花火を見に、ここへは来ないんですか」
 ガスコンロに向かっていんげんを茹でているお母さんに訊いた。
「あの人も奥さんに先立たれたとはいえ、息子さんやお嫁さん、それにお孫さんと一緒に住んでるから。今年は家族で川のほうまで見に行くそうよ」
 菜箸を持ったお母さんが言った。
「去年はここで一緒に見たのに、今年は来れんのかい」
 おじいさんはなんだか残念そう。
「あいつは呑むとおもしろいからなぁ。あんな真面目な顔して、「マジック貸してくれ」って言って、その場で腹に顔書いて腹芸しよる。あれが今年は見れんのかい」
「そうね〜。順番ってことで、来年は来るかもしれないわね」
「一昨年も、来なかったっけか?」
「一昨年はあの人、ここに越してきてなかったわよ」
 夢原家のベランダからは、花火大会の花火が見られるらしい。
 音まではっきり聞こえると、おじいさんに教わった。
「ドーン! たまや〜」
 花火の話題に加わらない夢原さんに向かっていんげんを投げてみた。
 夢原さんが眉間にシワを寄せてわたしを見る。
「食べ物を粗末にするな」
「別に粗末にしてませんよ。ほら、『たまや』って言ったら、なんて言うんですか」
「お前は小学生か。花火大会の予行練習なんかしなくていい。それより……」

 夢原さんに連れ出され、近所の公園に来た。
 ベンチにふたりで並んで座っていると、目の前にカンガルーの形をしたすべり台が見えた。
 カンガルーのお腹の部分が空洞になっていて、そこから次々と子どもが滑ってくる。
 公園の入り口近くにあった幼児向けプール、「じゃぶじゃぶ池」からは、かなり離れているというのに、ここまで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。
「夢原さんは、いつもここで詩を書いているんですね」
「まぁ、だいたいはな。ここで詩を書くようになって、もう二十年近くか……」
 ……に、二十年!?
「そんなにずっとひとりで!? ここで詩を書いてきたんですか」
「朗読会で話したことを聞いてなかったのか!? 始めはひとりじゃなかった」
 夢原さんは手を組み、ベンチに浅く腰かけながら、「朗読会で話したことは全部実話だ」と絞り出すような声で言った。その後、その幼なじみとのことをもっと詳しく話してくれた。
 話しているときの夢原さんは、辛そうだった。
 足を組んだり、さらに組みかえたり、貧乏揺すりをしたり、涙ぐんだり。
 そうして時間をかけて夢原さんが話してくれたこと。それは、夢原さんの幼なじみが、あたかも夢原さんの住む家で生活しているかのような詩を書き、それを出版した。
「そんなことってひどいです! 嘘つきです」
「貧乏なら同情されて売れるとでも思ったのか、バカが……」
 夢原さんは吐き捨てるように言った。
「やっと目が覚めて自分の境遇と向かい合うようになったと思えば、今までのことは水に流して助言してやろうとわざわざ出向いた俺を、あいつは家政婦に門前払いさせやがった」
 しばらく、夢原さんはカンガルーの滑り台を見つめたまま、黙っていた。
 たぶん、カンガルーの滑り台を見ているのではないのだろう。
 わたしは別のことを考えていた。
 ……夢原さんの他にも、「バラック」の出てくる詩を書く人がいる。
 夢原さんの詩よりも先にその人の詩を読んでいたら、わたしに本物とニセ物の区別が付いただろうか?
「悪い。こんな話をするためにここに呼び出したんじゃないんだ」
「なんの話ですか?」
 突然声をかけられて、声が上ずった。
「新しい詩ができたんだ。今度は、君も気に入ると思う」
 夢原さんが、真ん中あたりのページで開いたモレスキンの手帳をこちらに差し出した。
「じゃあ、読みますね。心して読みますね。えーっと、読みますね。今から、読みますね」
 夢原さんが睨んだ。
「早く読め」
「読むほうだって、緊張するんですよ。感動するのも、感動できないのも、一大事なんです」
 目をつむって深呼吸する。
 目を開け、夢原さんの開いたページに書かれた詩を読んでいく。
 何篇も、何篇も。前に見せてもらったのとは違う詩が並んでいる。
 ページを捲る。
 何ページも、何ページも……
「あのー、これは、どこまで続くんですか」
「ん? 確か五十ページくらいか。それがどうした」
「もしかして五十ページ分全部、『恋』の詩ですか」
 夢原さんが、顔を真っ赤にして下を向く。
 わたしも下を向きながら、続ける。
「あからさまに、『千歳』という名前が出てくるんですけど、この人は、函館か鎌倉に住んでる
夢原さんの親戚ではないですよね」
 夢原さんは答えない。
「どうだ? 感極まったか」
 小さな声で言う夢原さんは、両足の間に顔が隠れんばかりに頭を低くしている。
 わたしは立ち上がり、夢原さんの正面に立った。
 手帳を持った両手を後ろに回し、腰を屈めて夢原さんの目を見る。
「極まりません。全然、感極まりません。やり直しです。約束ですからね。わたしだけじゃなく、世の中の人みんなを感動させてください。そして、バイトとか家族とか、辛いことに耐えられるよう助けてあげてください。わたしは来週バイトの面接なんです。元気の出る詩で助けてくださいったら」
 もう、夢原さんが感動できない詩を書いても取り乱したりはしない。
 それも全部、夢原さんの書いた詩だから。
「あ! カンガルーの滑り台、空きましたよ」
 夢原さんの手を引っぱった。
「空いたから、なんだっていうんだ。俺は大人だ。君だけ滑ってこい」
「わかりました。わたしだけカンガルーの子どもになってくるんで、そこで見ててくださいね」
 階段を昇り、カンガルーのお腹の中から顔を出す。
 ベンチに座る夢原さんに向かって、手を振った。
 夢原さんは手を振り返してくれないで、「恥ずかしいから早く滑ってしまえ」という、手招きのようなジェスチャーをした。
 カンガルーのお腹の中から飛びだし、滑って行くと、ベンチに座っている夢原さんにどんどん近付いて行く。
 滑り台を滑っている最中に見えた夢原さんの表情は、子どものようだった。
 ……なにさ。自分だって子どもみたいに笑うこともあるくせに。

 今夜の花火大会のために酒屋に寄ってお酒を買ってから帰ると、台所にも仏間にも、お母さんとおじいさんの姿はなかった。
 夢原さんとふたりで、二階に上がった。
 ベランダは開け放たれて、畳みの上にはお母さんお得意のいんげん胡麻和えや、枝豆、おにぎり、それにスイカなどが用意されていた。
「おかしいですね。食べ物だけあって、誰もいないなんて」
「買い忘れたものでもあったんだろ」
 一時間経っても、おじいさんとお母さんは帰ってこなかった。
 夢原さんは、座布団を三つ折りにして、スイカの横で寝てしまった。
 わたしはスイカを二切れつまみぐいした後、夢原さんの部屋から持ってきた埃っぽい本を読んでいた。「百円」という古本屋のシールが貼られた、海外の小説だった。
 途中まで読んだとき、「ドン! ドン! ドン!」という、地響きのような音がした。
「夢原さん、夢原さん。起きてください。これは、もうすぐ花火の始まる合図ですよ」
「ん……あ〜。俺の番か」
 夢原さんが起き上がり、伸びをしながら言った。
「なに寝ぼけてるんですか。もう、夢原さんったら。花火大会に俺の番もわたしの番もありませんよ」
 夢原さんは、目を擦っている。
「髪もぐしゃぐしゃになっちゃってますよ」
「……夢を見ていたんだ」
「どんな夢ですか?」
「子どもの頃の……」
 そのとき、一発目の花火が上がった。
「わー! 近い!! 目の前に花火があるみたいですね」
 夢原さんを見ると、目を細めてわたしのことをじっと見ている。
 ……照れるじゃないか。
「せっかくなんだから、わたしじゃなく花火を見てくださいよ。ほら、今の見ましたか。わたし、あの花火好きです。あれを詩にしてください」
「そんな無茶言うな。詩にしろと言われてできるもんじゃない」
「やっぱり見てなかったんですね」
「いや、見てたさ。彼岸花のような赤だった。あれは美しかった。こうして話しているあいだに、五発も六発も上がってるけどな」
 ……はッ!
 もったいない。
「それにしても、おじいさんとお母さんも、もったいないですよ。こんなにご馳走用意して、どこかに行っちゃうなんて」
「ちょっと川の近くまで見に言ったんじゃないのか。そのうち戻ってくるだろ」
 夢原さんは、枝豆ばかりをつまんでいる。
「あ! わたし、ちょっと箸持ってきますね」
 立ち上がって、部屋を出ようとした。
「待ってくれないか?」
 夢原さんに呼び止められた。
「俺に、才能はあると思うか?」
 振り返ると、あぐらをかいた夢原さんと、その後ろに花火が見えた。
「当たり前じゃないですか。あなたは、夢原さんなんです!」
「前に見せた詩を君がたまたま気に入っただけで……」
「弱気にならないでください、ね。夢原さん」

 箸を取りに階段を降りる。
 ……きっと、もう少しすればおじいさんもお母さんも帰ってくる。
 平穏で、暖かい生活。夢原さんの幼なじみが、この家を自分の家として、自分がこの家の息子であるかのように。そんな詩を書いた理由も、少しはわかる気がする。
 盛大に軋む階段を降り終えたとき、玄関におじいさんとお母さんが立っていた。
「千歳ちゃん、ごめんね」
 お母さんは、クリーニング屋のビニールのかかった服をどっさりと抱えていた。
 花火の音で、お母さんの声は耳を澄まさないと聞こえない。
「花火ねぇ……」
 お母さんが言う。
「見られなくなっちゃったのよ」
 クリーニング屋のビニールに顔をうずめてお母さんが泣いている。
「お母さん、なんで泣くんですか? ボーイフレンドと一緒に見に行くことになったんなら、気にしないでください。来年、また……」
 ──見れば……。
「死んだんじゃ」
 おじいさんが家に上がり、台所に向かいながら言った。
 蛇口をひねり、コップを使わずに直接、水を飲んでいる。
「和夫の幼なじみ、茂典が肺炎で呆気なく死におったわい。これから結婚もするらしかったのにのう。和夫と同い年じゃ。わしの半分も生きとらんのに」
 おじいさんは、台所のシンクに手を付いて、こちらを振り返らない。
「うえーん。お母さん……」
 台所のテーブルにクリーニング屋のビニールのかかった服を乗せたお母さんの手を両手でつかんだ。
「千歳ちゃんまで泣かないの。これ、三人分の喪服。近所の人から借りてきたの。今から和夫と三人でお通夜に行って来るわね」
 夢原さんの幼なじみが──
 夢原さんにとって大切な人が──
 本当は嫌いになんてなりきれてない人が──
「死んだんだな。そうか……茂典、あいつ死んだのか」
 亡霊のように青白い顔で、肩がガクンと落ち、生気のない夢原さんが横に立っていた。
 ガタンッ!
 夢原さんが、立っていられなくなって、ダイニングテーブルの横にへたり込んだ。
 そのとき、おでこをテーブルの角にぶつけたのを見た。だけど本人はまったく気付いていないようだ。
「夢原さん、しっかりしてください! 夢原さん! 夢原さん!」
 しゃがんで、肩を揺すった。
「夢原翼が、死んだんだよーーーーー!! 君は、俺に死人のふりをずっと続けさせるつもりか」
 夢原さんに、すごい力で振り払われた。
 わたしは、床に仰向けに寝ころんだ。
 遠くから声が聞こえる。抑揚のない声。
「茂典が本当の夢原翼だ」
 ……茂典さん?
 朗読会の日に、わたしが一度だけ見た人が夢原さんだった?
 じゃあ、この声は誰?
「君に俺は必要なくなった」
 ……わたしが今まで必要としてたのは誰?
 死んだ茂典さん?
 遠くから聞こえる、この声の人?
「死んだんだ。夢原翼は完全に死んだんだ」
 ……死んだ。
 ……死んだ。
 ……死んだ。
 台所の、電気の傘が大きく揺れているように見える。
 ドン! ドン! という音が、絶え間なく続いている。
 大きな地震が来たのかもしれない。
 目を閉じたのに、瞼の中がまだ眩しい。
「千歳ちゃん、しっかりして」
「息はしとるか」
 もう、誰の声も聞きたくない。
 何もわたしに知らせないで。
 耳を押さえて、玄関を飛びだした。
「ぎゃーーーーーーーーーー!! 死んだんだ死んだんだ死んだんだ死んだんだ死んだんだ」
 夢原さんと初めて会った場所。豪邸の前を通った。庭に飾られたビーナスは見えない。
 花輪と、喪服を着た人たちで埋め尽くされ、何も見えない。
 花輪の前にしゃがみこんだ。
 わたしの前を、黒い靴が、いくつもいくつも通り過ぎて行く。
 革靴……パンプス……革靴……革靴……
 わたしの肩を叩く人はいない。
 夢原さんはいない。

 花輪を見上げた。
「白い花火みたい……」


終章 みんなみんなみんな夢でありました


 わたしには、何もなくなった。
 拠り所とする人はいなくなった。
 代わりを探す気も起きなくなった。
「何もないって、なんでこんなに気持ちがいいんですかね?」
 わたしはエプロンをかけ、本屋のレジに立っている。レジ台のすぐ横でパソコンに向かう牛島さん……いや、牛島店長に言った。
牛島店長はパソコンで在庫確認をしているようだったが、顔を上げ、こちらを向いた。
「何もないなんて言うもんじゃないですよ」
 穏やかだけど、真剣な口調。
 ……またまたぁ、牛島店長ったら、前向きだなぁ。
 でもわたしも、かなり前向きな意味で言ったのだけど、うまく伝えられなかったようだ。
 牛島店長は大きな体を横向きにして、レジ台の外に出ると、振り返ってわたしを見た。
「仕事が何もないと感じたときは、自分で見付けてみてください。たとえば本にかけるカバーを折ってストックを作るなり、レジの周りを拭くなり、何かしら見つかるはずです」
 そう言ったあと、平積みの本を整えて歩く牛島さんの背中を見つめながら、思う。
 牛島店長は仕事に対しいつも真摯な姿勢だ。
手際の悪いわたしは、同僚たちよりもたくさん注意を受ける。
 なのに、前に働いていた本屋でレジに立っていたときのように、わたしは常にビクビクしているということはない。過度に緊張していない。
 気付いたらこうして、レジでぼんやりと考え事をしてしまうくらい、リラックスして働いている。
「おはようございます」
 遅番の田川さんが、後ろ手にエプロンのヒモを結びながらレジ台の内側に入って来た。
「はぁ……。外、夕方だっていうのに、まだ暑いんですよ。信じられない。いつになったら夏は終わるんですかね。ところで、今日は新刊のマンガはあります?」
 マンガ喫茶で初めて山口さんを見かけた頃によく似た印象の田川さんは、いつもハキハキとした口調で話す。
「今日は木曜だから、新刊はないよ。だから見ての通り、暇なんだ」
 わたしは先輩だし年上なので、敬語を使わず、答える。
 敬語を使わない……
 たったそれだけのことだけど、前に本屋でバイトしていたときにできなかったことが今こうしてできる。
 それがときどき不思議に思える。
 ……わたしの何が変わったのだろう。
 たしかにわたしの中で何かが変わった。
 本物の詩人、夢原翼さんを失って、昨日で一年が経った。
 そう。一年前の、今日と同じ日付の日に、夢原翼と、それから同時に「夢原さん」と読んでいた人も失った。
 憧れの夢原さんのそばにいられて嬉しいという気持ちとともに、彼が夢原翼でなかったらどうしようと怯える日々は、たった一夏で呆気なく終わってしまった。
 その後わたしは何ヶ月も実家の二階で呆けたように暮らしていた。階下では相変わらず父と母が言い争いをしていて、わたしは夢原翼の詩集を読んで逃避するでもなく、ただ虚ろに、何をするでもなく、ベッドの上に体育座りをしたり、眠っていたりしたら、秋と冬が終わった。
 春になって、しばらくぶりに夢原翼の詩集を開いてみた。
 そこには、夢原家の温かさがあった。抜け落ちそうな畳貼りの床や、軋む階段、おじいさんやお母さん、それから夢原さんと一緒に花火を見るはずだったベランダを思い出した。
 だけど……
 これは……
 ただの入れ物だ!
 重要な中身が存在していない。
 わたしの思い浮かべた光景から、おじいさんとお母さんと夢原さんが音もなく姿を消した。
 そのままわたしは、玄関の外へ瞬間移動のように追いやられる。
 見えるのは、山田家の表札。
 赤茶色のトタン屋根をゆっくりと見上げた。
 それが、詩人の夢原翼が見ていた光景。
 夢原翼は……
 わたしは……
 欲しかったけど手に入らなかった物のことばかり考えて生きてきた。
 もう、ただ嘆いているのはいやだ。
 このわたしのまま、何かの拍子に死んでしまうのはいやだ。
「いやだーーーーー!!」
 わたしは泣き叫びながら、階下に降りた。
 トイレとお風呂に行く以外、ここ数ヶ月ほとんど降りることのなかった階下へと階段をかけ降りた。
「わたし、バイトする。一人暮らしをするよ!」
 リビングでそう宣言するわたしの顔に、みかんが命中した。
 父は、母がいないときだけでなく、母とのケンカの最中にも物を投げるようになっていた。
 わたしが夢原家に居候するために出て行こうとしたとき、一万円札を渡してくれた父は、何も変わってはいなかった。
 母も変わらなかった。
 詩人の夢原翼は作風を変えて、進路変更した矢先に病気で死んでしまった。
「わたしは変わりたいんだ。このまま死にたくないんだ」
 みかんが当たって傷む鼻頭と、みかんの汁で汚れたパジャマに少し気を取られながらも、自分に言い聞かせるように宣言した。
 その翌日、牛島さんが店長をしている本屋へ向かった。
 「働かせて下さい」と必死で頭を下げるわたしに牛島さんは、「この仕事をもう二十年やっていますが、そんな必死の形相でバイトの面接に来た人は初めてですよ」と笑った。
「本来なら喫茶店にでも移動して面接をするところですが、喜んで採用させて頂きます」と、レジ台越しに履歴書を差し出すわたしに言ってくれた。
 そして、ここで働き始めて四ヶ月が経った。今はバイト代を切り詰めてのぎりぎりな生活ながらも、一人暮らしをしている、
 わたしにはもう、夢原翼は、必要ではない。
「何もないって、いいものですよ」
 牛島さんは本棚の整理に行ってしまったので、隣の田川さんに、牛島さんに言ったのと同じことを言ってみた。
「何言ってるんですか。いやですよー。彼氏ほしいですよ。就職決まらないと死にますよー」
 田川さんは、へなへなーッと床に座り込むような仕草を見せた後、店内を見回すと、お客さんの目を気にしてか、すぐに立ち上がった。
「まぁ。あるに越したことはないかもね」
 わたしは田川さんに小さく手を振って、レジの外に出た。
「あ! おつかれさまです」
 追いかけるように田川さんの声がした。
 振り返って挨拶をすると、倉庫兼控え室へ入り、エプロンをはずした。
 エプロンの下には、水色のワンピースを着ている。それに合わせて、いつもバイトへ来るときはスニーカーなのに、足もとは白いサンダルだ。
 朝からサンダルで立ちっぱなしだったから、靴擦れが数箇所できているのを確認した。
 鞄を持って店内に出ると、バインダーに挟んだコピー用紙を右手に持ち、それを見ては売り場に並んでいる雑誌を抜き取って、もう片方の腕に抱える牛島店長が見えた。
 駆け寄って声をかける。
「すいません! 今日、返本の日だったんですね。やり忘れてました」
「わたしも、頼み忘れてました、細かい仕事を見付けるよう指示する前に、これを頼めばよかった」
 牛島店長は照れ笑いを浮かべた。
「まぁ、いいですよ。わたしはレジでもどこでも、本を触っているのが好きですから」
 牛島店長が言った。
「変な趣味ですね」
 すかさず言葉を返した。

 本屋を出ると、駅に向かった。アパートはここから徒歩圏内のところにあるけど、今日はまっすぐ帰らずに、行くところがある。
 一年前、最後まで見られなかった花火を一人で見に行くのだ。
 私鉄に乗ると、懐かしい景色が通り過ぎて行った。
 降り立った駅前には、チェーン店のハンバーガー屋。チェーン店のケーキ屋。チェーン店のラーメン屋……
 それに、個人経営の寂れたお店が、チェーン店のお店に混ざって点在している。
 一年前とまったく変わらない。
 と、思ったら……
「夢原さんと入ったチェーン店の喫茶店が、別のチェーン店の喫茶店に変わっている!」
 なんてことだ!!
 声を出して笑った。
 少し、涙が出た。
 踏み切りのそばの電柱に「花火大会」のポスターが貼ってあった。
 日付は……
「明後日だ」
 な、なんてことだ。去年と同じ日付に来れば花火を見られると思っていたのに、毎年八月の第三土曜日に開催されていたとは。
 せっかくお気に入りのワンピースを着てきたのに。
 せっかく今日で、ほんの少し残っている未練も、完全になくなると思っていたのに!
 しばらく電柱の前で思考停止した後、ふと横の掲示板に目が行った。
 そこには「フラメンコ教室生徒募集」「一緒に太極拳をしませんか」など、手作り感が漂うA4サイズの紙が何枚も貼られていた。その中の一枚に「障害のある人もない人も、楽しくフォークダンスを踊りませんか」と書いてあるポスターがあった。
 達筆な文字の下に、色鉛筆で人らしきものが描かれていた。二人一組でフォークダンスを踊っているんだ……きっと。
 日付は今日だった。開始時間は今から三十分後。
 せっかくだからここへ行ってみよう!
 会場である小学校へ向かう途中、電柱だったり個人商店の壁だったりに、ところどころフォークダンス大会のポスターは貼られていた。だけど全部、描かれている絵は違うものだった。
 本当はもっと広範囲に貼られているのだろうけど、一枚一枚楽しみながら見て歩いていたら、導かれるように小学校の校門までたどり着いてしまった。
 校門をくぐると、黄色の腕章を付けた係員が数人立っていた。
「こんばんは。フォークダンス大会はまだですけど。キャンプファイヤーはもう始まってますから、どうぞ中へ」
 中学生くらいの女の子に腰のあたりを掴まれたまま、三十代半ばくらいの女性がわたしに向かって言った。
 わたしは会釈をして、校庭へと入って行った。
 まだ完全には陽の落ちていない水色の空に対し、松明の明かりは所在なげに見えた。
 これから始まるフォークダンス大会のために集まった人々も、なんとなく円のような形を成してはいるが、やっぱり所在なげだ。
 おずおずと、出来損ないの輪の中へとわたしも入っていく。
 しばらく立ち尽くしていると、まだまだ暮れないだろうと思っていた空は薄暗くなり、拡声器を通した声と音楽が流れるのを合図にして、フォークダンス大会は始まった。
 サンダルで砂の感触を確かめながら、両手を肩の高さまで上げて構えていると、後ろから次々と知らない人がわたしの手を握り、そして踊り終えると前方へと流れていく。
 ……この曲はなんてタイトルだっけ?
 フォークダンスの曲、としか覚えていない。
 足の動きなんかは当然見よう見まねだ。斜め方向に見える人を真似して踊ってはいるけど、その人の踊りが合っているのか間違っているのかもわからない。
 それでも楽しい。
 音楽を流していたスピーカーが音割れを起こすと、あちこちから、笑いと悲鳴が上がった。
 わたしはびっくりして、手を繋いで踊っている相手の足を踏んでしまった。
 ……よりによって、スニーカーじゃなくサンダルで。
「……ごめんなさい」
 わたしが言うと、相手の男性は手話でたぶん「いえいえ、かまいませんよ」というようなことを言った。
 にこやかだったから、きっとそう言ったに違いない。
 後ろから前へ、笑顔の人々がくるくる通り過ぎて行く。それに合わせて、わたしが着ている薄地のワンピースの裾も揺れる。
 いつの間にか辺りは真っ暗になっていて、松明の明かりが眩しい。夏の夜の涼しさを肌で感じると同時に、松明の火によって顔だけが火照っているのがわかった。
『あぁ。きれいだなぁ』
 てきとうに踊ることに慣れてきて、松明の明かりが反射した、校舎の窓に目をやる余裕が出てきた。
 ずっと後ろのほうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 音楽のせいで、何と言っているかまでは聞き取れないけれど、たしかにその声は知っている声だった。
 踊っているうちに、光を照り返す窓ガラスに見とれているうちに、意識しないようにするうちに……
 声はどんどん後ろから近付いてくる。
 わたしは体を強ばらせた。
「はじめまして。夢原翼です。よろしくお願いします」
 思わず振り返った。
 七組くらい後ろで踊っている、長身に長髪の、整った顔立ちの男性を、見た。
 彼は、踊り始める前に必ずパートナーに名前を名乗っていた。
「はじめまして。夢原翼です」
 音楽が耳に入らなくなり、しんと静まり返った中で、彼の声だけがわたしの耳には入ってくる。
 まるで踊りになんか集中できず、自分が自動的に動くロボットか、紐から離れた独楽になったような気がした。
 他人の足を踏んだり、よろけて支えられたりもする、独楽だ。
「はじめまして。夢原翼です」
「はじめまして。夢原翼です」
「はじめまして。夢原翼です」
 声は、どんどん近付いてくる。
 わたしの手から、完全に力が抜けた。握っていたパートナーの手も放してしまい、ぶらりと手をぶら下げ、棒立ちのまま。時間が過ぎていく。
 わたしの隣に立った人は、所在なげに立ち尽くしては、音楽が切り替わると同時に前絵と移動していく。
 そうして、何人かの人を見送った後、わたしの真後ろに立った人が言った。
「はじめまして。夢原翼です。よろしくお願いします」
 振り返った。悲しいくらい虚ろな目をした、夢原さんが立っていた。
 口元だけ笑みを浮かべ、踊る準備をして待っている夢原さんから、わたしは目を逸らし、サンダルと、その下に広がる砂を見つめた。日が暮れた中で見る砂は、灰色ではなく黒く見えた。
 ……わたしのせいだ。
 わたしのせいで、夢原さんはいまだに夢原翼を演じている。
「夢原さん! 違う! 山田さん、山田さん、山田さん!」
 わたしが叫ぶと、前で踊っていた二人が、怯えたようにこちらを振り返った。
 夢原さんも、わたしをじっと見た。
 向かい合いながら、わたしは夢原さんの言葉を待った。
「どうも、はじめまして。夢原翼です」
 わたしは下を向き、両手を肩の高さまで上げた。
 その手を、夢原さんが掴む。
 そして、わたしたちは踊る。
 わたしは泣きながら踊る。
 わたしの肩に、ポタポタと涙が垂れてきた。
 ……おかしいな。
 泣いているのはわたしのはずなのに、なんでわたしの手に、涙がかかるのかな。
 手で拭ってもないのに、わたしの手は湿っていく。
 なんで、夢原さんまで泣くのだろう。
 虚ろな目で、わたしの手を後ろから握っているはずの夢原さんは今、何を考えているのだろう。
 夢原さんの手を強く握り、振り返って見上げた。
 夢原さんは、しゃくり上げるようにして泣きながらも、しっかりとわたしを見ていた。
「俺に……俺に、才能はあったのだろうか」
 唇を噛みしめながら、わたしの返答を待つ夢原さんから、目を逸らした。
 ……わからない。
 才能があるかないかなんて、わたしには初めからわからなかった。
 わたしが夢原翼に求めていたことは……
 それは、才能のあるなしではなく……
 いつまでも変わらないこと。
 曲に合わせてターンし、わたしたちは向き合った。
「わたしは、夢原翼に、才能なんて求めてませんでした。ただ、変わらずいてほしかった。だけど、いい詩を書いたり、全然だめな詩を書いたり、あなたは変わってばかりいました。そんなあなたと過ごした時間は……」
 とても楽しかった。
 最後まで伝える前に、夢原さんはわたしの手をそっと放し、列を抜けて校舎のほうへ歩いて行ってしまった。
 才能があると言ってあげられなかったから、傷付いたのだろう。
 だけど、本音だから仕方がない。
 もう、自分にも夢原さんにも嘘はつきたくない。
 夢原さんが校舎の手前で立ち止まり、振り返った。
 その目はもう、虚ろではなかった。
 しっかりとわたしを見据えていた。
「はじめまして、山田和夫です! よろしくお願いします!!」
 松明の照り返しで輝く校舎の窓を背にして、夢原さんだ叫ぶ。
 叫んだあと、笑いかける。
 温かい笑顔だ。
 わたしも真似をして叫ぶ。
 この距離では音楽にかき消され、わたしの声は届かなそうだから、口の横に両手を当てて……
 山田さんに向かって!
「はじめまして、森千歳です! よろしくお願いします!!」
 わたしは山田さんに向かって走って行く。
 後ろでは音楽が鳴り響き、フォークダンスが続いていた。


                了