長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)1/4

(一章から五章まで)
一章 わたしはサクラバイト

 マンガ喫茶のサクラ。それがわたしの仕事。今にもつぶれそうな寂れたマンガ喫茶で、客のふりをしてマンガを読む。そしてときおり楽しそうに笑う。
 ガラス越しに見た人たちは引き寄せられるように入店し、店はたちまち大繁盛。そういった狙いで雇われている。
 時給は三百八十円。給料は安いけど、マンガは読み放題だし、ドリンクも飲み放題。こんなにおいしいバイトは他にない。
 だから今日も嬉々として、自動ドアの前に立つ。
 あぁ、嬉しいなぁ。
 今日も楽しいバイトの始まりだ。
 自動ドアが開くと、右手にはレジカウンター。そこにはエプロンにネームプレートを付けた、山口奈津さんが立っている。
 山口奈津さんは、自然な栗色の髪の毛をいつも一本で束ねている小顔の美人だ。
 わたしは彼女に会釈をした。
 心の中でこう言って──
『おはようございます』
 すると彼女も会釈をしながら、笑顔で答えてくれた。
「いらっしゃいませ」
 ……あれ?
 いや、山口さん、そこまで徹底しなくても……。
 山口さんはレジ担当で、私は客のふりをするサクラ担当。仕事内容は違うけれど、同じ職場の同僚であることに変わりはない。挨拶くらい普通に交わしても良さそうなものなのに。
 でもまぁ、『敵を欺くにはまず味方から』って言葉もある。
 あぁ、山口さんは若いのにしっかりしてるなぁ。
「お席はどうなさいますか」
 彼女が言った。
 またまたぁ。そんなこと訊かなくてもわかってるくせに。
 パソコンの使い方はわからない。タバコは吸わない……だけでなく煙にむせる。
 だからいつも、「マンガの禁煙席」を選ぶ。
 中でもレジやその横のドリンクバーの機械から遠い席だと嬉しい。なるべく人が通らないところ。そのほうが落ち着く。
「マンガの、禁煙席でお願いします」
「ごめんなさい。マンガの禁煙席、埋まっちゃってるんですよ。インターネットの禁煙席だったら空いてますけど」
「あっ、えっ、そんな……困ります。わたし、パソコン使えませんから!」
「大丈夫ですよ。インターネット席って言っても、目の前にパソコンがあるだけなんで。マンガ読んじゃってて、全然かまいませんよ」
「やっ、でも、それじゃあ宝の持ち腐れっていうか、あの……」
 山口さんは口元に手をあてて、クスクスと笑った。
 あぁ、彼女とわたしのコミュニケーションがこんなにもぎこちないのは、全部芝居のせいなんだ。決してわたしのコミュニケーション能力に問題があるわけじゃないんだ。だからもう、こんな手のこんだ芝居はやめようよ。
 山口さんは早急にわたしに伝票を渡し、わたしは早急にこの場を離れ、仕事の持ち場に着く。そうするのが二人にとって一番いいんだ。だから、早急に……。
 ──って、あれ?
 さっきの笑顔とは打って変わって、今度はいかにも困ったという顔をして山口さんが私を見ている。
「三百八十円……」
 彼女が言った。
 彼女はどうやら、私の時給の話をしたいらしい。
 たしかにわたしの時給は、彼女よりうんと安い。だけど、わたしはこの仕事が気に入っている。本当に時給のことなんてなんにも気にしていない。
「あの……」
 ……はいはい。
「三百八十円……」
 ……だからほんと、山口さんも──
「前金になります」
 ……気にしない──
「お客様、基本料金、三百八十円、前金になります」
 彼女はもう一度、今度ははっきりと言葉を区切りながら言った。
 わたしは財布の中から三百八十円を取り出し、トレイの上に置いた。
 百円玉三枚と十円玉八枚、きっかり置いた。
 彼女から伝票を受け取り、それに書かれた番号の個室の前に立った。
 扉を押して中に入るとき、振り返るとそこにはドリンクバーの機械があった。レジからも近かった。
 ……いやだなぁ。こんな席いやだなぁ。
 無職で毎日マンガ喫茶に通ってるのが後ろめたいからって、サクラのバイトだと思い込もうとしたわたし、いやだなぁ。
 思い込もうとして、本当に思い込んじゃってたわたし──
 いやなのを通り越して、もうそろそろ、なんとかしないと、大変かもしれない。
 個室の扉を閉め、椅子に座った。
「はぁー」
 ……マンガ喫茶でバイトしようかなぁ、ふつうに。
 例えば彼女みたく。山口奈津さんみたく。
 昼ごろ起きて、朝食兼昼食を食べ、昼ドラとワイドショーを少し観てからここへ来る。すると彼女は、ほぼ毎日レジカウンターに立っている。
 一八歳くらいに見えるけど……
 高校生か?
 大学生か?
 だけど四時前にもう仕事をしているということは、学生ではないのかもしれない。
 ということはフリーター?
 あぁ、でもそういえば、世間では今は夏休みの時期なんだっけ。それじゃあ、やっぱり学生って可能性もある。
 いずれにしても、彼女が私よりうんと立派な人間であることは確かだ。
 二十三歳、無職、毎日マンガ喫茶通いのわたしよりは。
 きっと、モテるんだろうなぁ。
 笑顔が素敵だし。
 働き者だし。
 ……
 山口さんについて考えていたら、席に着いてから、すでに十分が経過してしまった。
 マンガ喫茶は時間との戦いだ。基本料金のみの一時間で、いかに大量のマンガとドリンクを飲み、読むか。
 ……と言っても、棚に並んでいるマンガは、少女マンガも少年マンガもすでにほとんど読みつくしてしまった。
 インターネットでもやろうかなぁ。
 せっかく目の前にパソコンがあることだし。
 使い方、わかんないけど。
 なんとか……
 なるだろうか?
 まず、電源を付けよう。
 ──えーっと、すでに付いているようだ。付けっぱなしにしておくシステムらしい。
 インターネット……
 インターネット……
 私がやりたいのはインターネットだから……
 あ!
 これじゃないかな?
 「internet explorer」と書かれた青いマークが、画面上にあった。
 クリックしてみた。
 マークの色が少し変わっただけで、目立った変化はなかった。
 えーい! いっぱいクリックしてやれ。
 クリッククリッククリッククリッククリッククリッククリッククリッククリック。
 たくさんクリックしたら、ヤフーと書かれたページが表示された。
 表示され……まくった。
 同じページがどんどん上に重なって表示された。
 どうしよう。止まらない。
 ヤフーの嵐だ!!
 こんなことなら、短大でひとつくらいパソコンの授業を選択しておけば良かった。
 ……あぁ、そういえば選択したんだ。選択したけど、どうにも付いて行けなくて、その授業には三回くらいしか行かなかったんだ。
 そんなことより、どうしよう。
 こんなにたくさん同じ画面があるのはまずい。
 何かきっとまずい。
 だめだ。
 逃げよう!
 机の上に置いていた鞄と伝票をつかみ、レジへ向かった。
 レジの山口さんは、わたしを見て不思議そうな顔をしたけど、あのパソコンをまだ見ていないせいか、何も言わずに伝票を受け取ってくれた。
 よかった。ばれていない。
 わたしがパソコンを壊してしまったことに、まだ誰も気付いていない。
 マンガ喫茶の自動ドアが開くのと同時に、一目散に走って家に帰った。

 それから三日後、またマンガ喫茶に来た。
 レジに立っているのは、今日も山口さん。
 「禁煙の、インターネット席でお願いします」
 彼女に訊ねられる前から、わたしは張りきって言った。
 あれから図書館へ行き、調べた結果、どうやらパソコンを壊してしまったわけではないということがわかった。
 インターネットの使い方もマスターした。
 だけど念のために図書館で借りた本を持参した。
 持参した本は二冊。
 一冊は『小中学生のインターネットで調べ学習』
 もう一冊は『康太と学ぼう! インターネット』
 本に出てくる八歳くらいの男の子、康太とともに学んだかいあって、順調に検索エンジンのページまでたどり着けた。
 もう同じページをたくさん表示させることもない。
「……」
 たどり着けたはいいが、これといって調べたいことも、見たいホームページもないことに気付いた。
 ……あぁ、なんのために図書館まで行って調べたんだろう。
 そもそもなんで、読みたいマンガも調べたいこともないのに、マンガ喫茶にいるんだろう。
 暗い気持ちになった。
 ……そうだ! 気を取り直して、わたしと同姓同名の人を探してみよう。
 これは楽しそうだぞ。
 全国の悩める森千歳。
 その悩みを一緒に分かち合おうじゃないか。
 検索エンジンに「森千歳」と打ち込むと、たくさんの森千歳が出てきた。
 初めに見たのは、雑誌の読者モデルをしている森千歳。
 ファッション雑誌など、生まれてこのかた買ったことのないわたしでさえ、聞いたことのある有名な雑誌。彼女はその雑誌の専属モデルらしい。
 彼女のプロフィールを見た。
 身長が……
 百七十三センチもあった。
 私はパソコンの前に座りながら、天井を見上げた。
 ……あぁ、この天井汚れてる。最後に掃除したのっていつなんだろう。そもそも、天井掃除って、どうやってやるのかなぁ。
 しばらくの放心状態ののち、彼女の全身写真を見た。
 身長とか、どうせ嘘なんだ。
 そんなの写真を見ればひと目で……
 わかった。彼女とわたしでは、腰に手を当てる目的が違うということがわかった。
 わたしは小学校と中学校の九年間、整列のとき、腰に手を当ててきた。それは乱れ無き列を作るという目的のための重要な任務だった。
 だけど彼女の場合は違う。細いウエストと長い足をこれでもかというほど強調するために腰に手を当てている。
 ……あぁ、違う。違いすぎる。
 さらに、バストのサイズを表す数字を見て、めまいがして倒れそうになった。
 ……八十七センチって、いったい──
 いったい、何がいけなかったんだろう、わたしは。
 胸に手を当てて聞いてみようとしたけれど、そのへんに手を当てると余計悲しくなるだろうからやめた。
 すでに、じゅうぶん悲しい気持ちになっている。
 ……だけど、まぁ、日本中に大勢いる森千歳の中に、彼女のような森千歳がいたって、ちっとも不思議じゃない。
 だからもう、容姿に恵まれすぎた森千歳のことは忘れ、もっと、こう、なんていうか……
 あれだ。悩んでいる森千歳を探し、わたしが救ってあげようじゃないか。

 次に見つけた森千歳は、「インテリアコーディネーター」という、かっこいい名前の職業に就いていた。
 インテリアコーディネーター……
 よく聞くけど、いったいどんな仕事なんだろう?
 きっと、インテリアをコーディネートするんだろうなぁ。
 すごそうだ。
 かっこよさそうだ。
 パンツスーツとか着てそうだ。
 颯爽と風を切って歩いていそうだ。
 そして当然ひとり暮らしをして、自立していそうだ。
 実家暮らしで家事の手伝いもしてないから「家事手伝い」でさえない、正真正銘無職のわたしとは大違いだ。

 きれいな森千歳、自立した森千歳……
 でもまだ落ち込む必要なんてない。
 そうだ。きっと、検索エンジンで上に表示された順に見ていったのがいけなかったんだ。
 もっとランダムに。
 ランダムにこのへんを。
 この森千歳を見てみようじゃないか。この森千歳は、きっとわたしよりだめな森千歳に違いない。
 見たのは、四年前に町内カラオケ大会で優勝した森千歳だった。
 写真も載っていた。
 場所は神社。赤い鳥居も一緒に映っている。年配の方々に囲まれてピースサインをしている彼女の笑顔は──
 あぁ、見ているこっちが辛くなってくる。不自然に笑う口元が、腹話術の人形みたいだ。
 それなのに、「小さくて息を吹きかけたら飛んでいきそうですね。とても愛らしいので本堂に飾っておきたいです」という神主さんのコメントが載っていた。
 それに、「ちっちゃな体で元気いっぱい歌ってくれました」という町内会長さんのコメントも。
 どちらのコメントも、十九歳の女の子に対するものとはとても思えない。
 あぁ。それにしても、十九歳で町内カラオケ大会出場かぁ。
 それに曲目『神田川』……
 人前で歌うなら、同じ南こうせつでも、せめて『赤ちょうちん』にしておけばよかったのに。『赤ちょうちん』は、最後には女だけが平凡な幸せを手に入れて、男はいつまでもだめなまんま。今もだめなまんまだといなぁ、っていう女心を歌った歌で、聴くたびに「ひどいなぁ」って思う。
「ひどいけど好きだなぁ」って思う。
 だけどやっぱり『神田川』も好きだなぁ。
 そういえば、わたしの通ってた短大からは、神田川が見えたっけ。
 「神田川」でよかったのかなぁ?
 あの頃のわたし、なにも間違ってなかったんじゃないかなぁ?
 ちゃんと短大に通ってたし。カラオケで七十点以上取ったことなくても、向かいの家のおばさんに勧められるままに、町内カラオケ大会に出場する勇気もあったし。
 どこから間違えちゃったのかなぁ。
 やり直したいなぁ。
 生まれ変わりたいなぁ。
 別な森千歳に──
 って、あーーーーー!
 これわたしだ!
 過去のわたしだ。
 なんてことだ。同姓同名の人を探していて、自分自身とめぐり合ってしまうなんて。
 そんなことはすっかり忘れて、別の森千歳を見よう。
 この森千歳はどうだ? わたしよりだめか?
 「……」
 パソコン画面に、一糸まとわぬ姿の女性が映し出された。
 ……か、彼女も、森千歳だというのか。
 彼女の出演作品として、書かれている文字は──
 それはもうすごかった。
 わたしが生まれてこのかた、口にしたことのない単語ばかりが並んでいた。
 彼女は、アダルトビデオ女優らしい。
 アダルトビデオに出演するからには、男の人と、あんなこととかこんなことを……
 って、ちょっとわたしにはうまく想像できなくて、もやのかかった映像ではあるけれど、想像してみた。
 わからない。
 とにかく、男の人に触れたり、触れられたりしているはずだ。
 それに引きかえ、ここにいる二十三歳の森千歳は、いまだかつて男の人とお付き合いしたことがない。
 偶然何かの拍子に手が触れた、なんていう記憶さえない。
 なんてことだ。全国の森千歳の中で、私が一番みじめ森千歳じゃないか。
 もう、同姓同名の人間の華々しい活躍を見るのはよそう。
 いっそう落ち込むだけだ。
 明日からまた元気に生きて行こう。
 インターネットなんてやらずに、マンガを読んで、とりあえずは楽しく暮らそうじゃないか。
 こんなページ、さっさと閉じて──
 ……あれ?
 閉じられない。
 なんで?
 閉じたいのに、閉じられるどころか、次から次へと裸の女性が──
 目が回りそうだ。
 わたしは彼女たちに責められているのだろうか。上半身も下半身もあらわにした彼女たちは、わたしを責めているのだろうか。
 お前はこんなこともできないのかと。

「うわーーーーー!!」
 悲鳴をあげ、机の上に置いていた鞄と伝票をひったくるようにつかみ、立ち上がった。
 延長はしていなかったから、レジでトレイの上に伝票を置き、そのままマンガ喫茶の自動ドアを体当たりすれすれで、走り抜けた。
 そのまま、走り続けた。手に持っていた鞄が、背中とか胸とかに、ばしばし当たった。
 涙が出そうになった。
 ──でも、大丈夫。まだ、大丈夫。
 本屋を目指して走った。
 わたしは今日、彼と本屋で会える。
 大丈夫。わたしには彼がいるから。
 夢原翼さんがいるから。


 二章 ワルになってやる

 駅ビルの本屋に来た。ここはわたしの元バイト先。ここでは店長に見つからないよう、細心の注意が必要だ。
 まずはレジを確認する。
 レジに立っているのは、わたしがバイトしていた頃からいた女子大生の稲垣さんと、それから知らない男の人。
 どうやらレジに店長はいないようだ。
 稲垣さんは大学の授業が終わった夕方からが勤務時間で、わたしは夕方までが勤務時間だった。だから彼女とは、挨拶しか交わしたことがない。
 わたしが三か月前に突然バイトを辞めてしまったことなんて、彼女はなんとも思っていないだろう。
 次に店内を確認する。
 ……うー、嫌だなぁ。こわいなぁ。
 見回して、店長を見つけてしまったら嫌だなぁ。
 そうだ! 下を向いて、早足で目的の場所まで行ってしまおう。
 新刊が平積みになっている棚の横を早足で通りすぎ、マンガの棚を迂回して……
 次に待つのは最大難関、文芸書コーナー
 文芸書コーナーは、店長の担当だった。だから、品出しや在庫チェックのために店長はよくそこにいた。
 ここを通り過ぎれば目的地の……
「森さん。今日は仕事はお休みですか」
「……」
 わたしの頭より、三十センチくらい上のところから声がした。抑揚のない話し方に聞き覚えがあった。
「店長!」
 顔をあげた。彼のかけている眼鏡に、蛍光灯の光が反射して……
 うっ、眩しい。
「あっ、あの、こんにちは。おじゃましてます」
「ひさしぶりですね。仕事のほうは順調ですか。たしか、正社員で事務の仕事に就かれるとかで辞めたんでしたね。あのときは突然で困りましたよ。うちの店は、万年人手不足ですから」
「すみません……。本当にすみません」
「いいんですよ。あなたの人生ですから。いつまでもバイトというわけにもいかないでしょう」
「は……い。その通りです」
 ……あぁ、これはもう、ばれている。
 わたしの言ったことが、バイトを辞める口実だったと、店長はわかっているに違いない。
「ところで、今日は平日ですけど、事務職でも平日は休めるんですか」
「あっ、えっと、今日は大事な用があって。なんでしたっけ? あれ? あの……。あぁ! 有給休暇! それをもらって、ここに来たんです」
「そうですか。有給休暇をもらって本屋に来たんですか」
「……」
 ……うー、だめだ。
 逃げたい。
「すみません。わたしはこれで」
 もう店長の顔は見ない。
 お辞儀をして、早く立ち去ろう。
「森さん」
「はい」
 振り返った。
 また店長の顔を見てしまった。
 店長は、哀れむような目でわたしを見ていた。
「森さん、あなたは本当に接客業には向いていませんね。事務職の仕事に就けてよかったですね。がんばってください」
 店長は、本を抱えたまま、レジのほうへ歩いて行った。
 そして、レジにいた稲垣さんと楽しく談笑。
 「もう、店長ったら」という稲垣さんの声が、ここまで聞こえてくる。
 ……どうしてうまくできないんだろう。
 わたしも、稲垣さんや、マンガ喫茶の山口さんみたく、人とうまく話せたら。
 あぁ……
 泣きたい。
 声をあげて泣きたい。
 だけど泣く必要はない。
 わたしには、夢原翼さんがいるじゃないか。
 これまでだって、辛いときはいつも夢原さんの詩集を読んで、乗り切ってきた。
 今日は待ちに待った夢原さんの新しい詩集の発売日だ。
 そんな日でもければ、ここには来なかった。
 この辺りで、誰でも一度は名前を聞いたことがあるような有名詩人以外の詩集を置いている大きい本屋は、ここくらいしかない。
 電車に乗って都内に出れば大きい本屋はたくさんある。だけど無職のわたしには、往復千円近くもかかる電車賃はかなりの痛手だ。
 早く詩集のコーナーに行って……
 また店長に声をかけられる前に、夢原さんの詩集を買って帰ろう。

 店の奥、詩集のコーナーに来た。
 わたしはここでバイトしていた頃、本の整理をするふりをして、よく詩集のコーナーにいた。
 詩集のコーナーで何をしていたかというと……
 撫でていた。
 夢原さんの詩集を撫でていた。
 これまで出版された夢原さんの詩集は三冊。三冊とも、帯には昔の若くして死んだ有名詩人の名前が書かれている。
 夢原さんが、その詩人の名前の付いた賞を処女詩集で受賞したからだ。
 あれは短大二年で就職活動をしていた頃。ことごとく面接試験に落ちて、何冊目かの面接対策本を買うために寄った本屋で、偶然夢原さんの詩集と出会った。それ以来、夢原さんを慕うようになった。
 夢原さんの詩集は三冊とも買って、家の本棚に並べてある。
 今日からそれが四冊になる。
 ……あぁ、ドキドキする。
 今度の詩集にも、あの家は出てくるだろうか。
 あの……
 「バラック」は!?
 「赤いトタン屋根」や、「雨ざらしの物干し竿」も、出てくるだろうか。
 それに、「日焼けした畳」の上の「万年床」も。
 夢原さんほど才能のある人が貧乏なんて、世の中、間違っている。
 有名詩人の名前の付いた賞を取ったところで、小説と違って詩は全然売れないこの世の中、間違っている。
 その間違った世の中で、夢を追い続ける夢原さんは素晴らしい。
 夕飯のおかずが「目刺しのみ」でも、誰も夢原さんの魅力に気付かなくて「童貞」でも、持病の「チック」がたいへんでも、詩を書き続ける夢原さんは素敵だ。
 あぁ、だけど、いつかいつか……
 夢原さんに幸せが訪れますように。
 みんながちゃんと夢原さんの良さに気付いて、夢原さんが、暖かい布団と優しい彼女を持てる日が来ます……
「あ!」
 あった。これだ。
 夢原さんの最新詩集。
 あぁ、バラック……
 じゃない!
 「ベッド」?
 ひとつ目の詩に、「ベッド」って単語が……
 なんでだ?
 なんで貧乏な夢原さんが、ベッドなんて高級品を所有しているんだ。
 バラックに、ベッドが似合うはずがない。
 日に焼けた畳の上に、ベッドなんて置いたらいけないんだ。
 あれ?
 「スリッパ」?
 だから畳にスリッパはだめだって。
 畳が余計にすり切れ……
 えっ! コンクリートが……
 「打ちっぱなし」?
 「バカラガラス」?
 「ゴディバのチョコ」?
 「バスルーム」ーーーーー!?
 なんで夢原さんの家に風呂があるんだ。
 しかも「バスルーム」なんて、英語で書いてあるんだ。
 あー、それに……
 なんてことだ。
 「茉莉」に「エンゲージリング」
 夢原さんに、彼女なんてできたらいけないんだ。
 夢原さんは、貧乏なままのほうがいいんだ。
 そのほうが、いい詩が書けるに決まっているんだから。
「うー、うー、うー……」

 あー……
 どうしよう。
 この本、わたしの汗と涙と、つばで、もう売り物にならない。
 買わないと。
 だけど、買いたくない。
 どうしよう。
 この先……
 どうしよう。
 とりあえず明るく生きて来れたのは、夢原さんがいたからだった。
 それなのに……
 それなのに……
 夢原さんは裏切った。
 わたしに希望をもたせておいて、裏切った。
 わたしはもう……
 だめかもしれない。
 もう……
 大丈夫じゃ、ないかもしれない。
 この本は、買わずに帰ろう。
 こんなの買ってたまるか。
 ……あれ? あの人、何やってんだろう。
 三メートルくらい先のところ。エッチな写真集がたくさん並んでいるコーナーの前にずっと立っていた学生服の男の子。彼が足下に置いていたリュックの中に、一冊の写真集を詰めている。
 え!? あんな堂々と……
 リュックに押し込んでいる。
 あ! チャックを閉めた。
 万引き?
 でももしかしたら、リュックに入れて持ち帰れるかどうか、確かめてるだけかもしれない。
 確かめたあとに……
 あぁ……レジを素通りして行った。
 ……
 そうか! トートバックの中に入れて、店を出てしまえばいいんだ。
 肩から下げていたトートバックの中に、夢原さんの詩集を入れた。
 レジの前を通るとき、写真集を万引した男の子の真似をして、店員を見ずに、まっすぐ前だけを見て歩いた。
 本屋を出た。
 駅ビルのガラス張りのドアを開けて外に出ると、トートバックの中から本を取り出した。
 駅ビルの入り口の前には、たくさんの自転車が停めてあった。
 ……えーい、こんな物!
 その自転車のひとつ。雨に濡れた新聞紙の入った自転車のかごに、夢原さんの詩集を入れた。
 決めた!
 わたしは今日から、ワルになる。
 ついさっきまで、まっとうな人間だった。
 だめだけど、まじめに生きてきた。
 駄菓子屋でガムひとつ盗んだことがなかった。
 それが今では窃盗犯だ。
 こんなわたしに誰がした?
 そう! こんなわたしにしたのは、夢原翼だ!

 駅を挟んで反対側にある、ダイエーに来た。
 夢原さんのせいでワルになったわたしは、これからダイエーでとても悪いことをする。
 とはいえ、三千九百円とかの高額商品が並ぶ洋服売り場は、ワルになりたてのわたしには荷が重い。
 エスカレーターに乗り、地下の食品売り場に移動した。
 夕飯の買い物どきを過ぎた時間だというのに、かなり混んでいる。
 主婦よりもむしろ、スーツを着たOLらしき女の人のほうが多い。駅前だから、仕事帰りに寄る人が多いのかもしれない。
 中にはわたしと同い年くらいの人が……
 ……うー、なんだか気が重い。
 悪いことするのって、難しいなぁ。
 だけど、わたしはやる。
 夢原さんにあてつけをしてやると決めたんだ。
 そして、いつかたまたま夢原さんに会うようなことがあったら、言ってやる。
 「救ってくれるふりをして裏切るなんて、最低だ。わたしの人生、あなたのせいでめちゃくちゃだ」と。
 悪いことをする決心は、もうついた。
 さっそく菓子パン売り場を探した。
 そこで、ピンクのかわいい蒸しパンを見付けた。
 これにしよう。
 ……えい!
 わたしは、そのピンクの蒸しパンを、袋の上から、人差し指で押してやった。
 任務完了。
 これでもう、この蒸しパンは売り物にならない。立派な営業妨害だ。泥棒と変わらない。
 ここは駅ビルの本屋と違って、私服警備員がいる可能性が高い。
 夕方のニュース番組で観たことがある。買い物をしている客のふりをした私服警備員が、食品売り場で万引き犯を捕まえている場面を。
 そんなリスクの高い場所で、わたしは蒸しパンを、盗まないまでも売り物にならなくしてやった。
 これはもう、立派な万引きではないか。
 本日二度目の万引き。
 人生二度目の万引き。
「……痛っ」
 人がせっかくワルになった喜びを噛み締めているというのに、おじいさんたら、ぶつかってこないでほしい。
 ……って、あれ?
 おじいさん、その蒸しパン……
 だめだよ。
 カゴに入れちゃだめだよ。
 それはもう、売り物じゃないんだから。わたしが売り物じゃなくしてやったんだから。 おじいさんが買ったら、立派な売り物になってしまうでじゃないか。
 待って、おじいさん……
 あぁ……
 おじいさんは、蒸しパンをカゴに入れて、行ってしまった。
 しかも、わたしがつぶした蒸しパンの他にも、同じピンクの蒸しパンを3つもカゴに入れて、行ってしまった。
 ……よっぽど好きなんだなぁ、あの蒸しパン。
 ピンク色でかわいかったけど、何味なんだろう? やっぱりイチゴ味かな?
 わたしも買って帰ろう、ピンクのかわいい蒸しパン。
 蒸しパンを持って、レジに並んだ。
 混んでいるレジに並びながら、考えた。
 もしも夢原さんに会ったとして、「あなたのせいで万引きしたんだ。人生めちゃくちゃだ」と言ったら、夢原さんは罪悪感で苦しむだろう。
 だけど、夢原さんに一生出会わなかったら?
 彼は、痛くも痒くもないじゃないか。
 だからもっと、彼の見ていないところで悪いことをするのではなく、確実な方法で彼に復讐をしなければ。
 幸いわたしは、すでにハイテク犯罪を行えるスキルを手に入れた。
 そう! インターネットを駆使して……
「お客さん!」
 ……え?
「それ! 蒸しパン!」
 考え事をしているうちに、わたしがレジを打ってもらう番になっていた。
 レジに立っている中年女性が、わたしのことをしかめっ面で見ている。
 わたしは急いで蒸しパンを彼女に手渡した。
 「いいの? 蒸しパン、ぺっちゃんこに潰れてるけど。まぁ、いいも何も、あなたさっきから、自分で蒸しパン握りしめてたんだから。お金払ってもらわなきゃ、こっちは困るんだけどね」
 見ると、手の中の蒸しパンは、わたしが指で押しておじいさんが買った蒸しパンよりも、ぺっちゃんこに潰れていた。空気圧で、ビニールの口も空いていた。
 「あっ、あの、ちゃんと買いますから。いくらですか? あ! 百円ですよね。違うか、消費税もあった……えっと」
 「百五円です。その前に、蒸しパンをこちらによこしてください。バーコードを遠さなきゃならないんで」
 「あー、そっか。ごめんなさい。はい、これ……あ!!」
 口の空いているほうを下に向けたせいで、ピンクでかわいい蒸しパンは、ぽとりとわたしの足下に落ちた。
 ……あぁ、早く彼に復讐しよう。

 翌日、わたしはまたマンガ喫茶に来た。そしてレジはまた山口さん。
 似たような毎日……
 そう見えるだろう。
 でも違う。
 今日はハイテク犯罪をしに来た。
「いらっしゃいませ。お席はどうなさいますか?」
「ハイテク犯罪を」
「え?」
「あ! 間違えました。違うんです。なんでもないんです」
 山口さんは、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
 かと思ったら……
 盛大な声をあげて、笑いだした。
 どうしよう。目の前の山口さんは、今この瞬間、腹筋に手を当てて笑い転げている。
 わたしはどんな顔をしていたらいいんだろう。
「ごめんなさい……いてっ、お腹いたっ。あははは。前から思ってたんですけど、森千歳さんって、ほんとおもしろい方ですよね」
「え? なんでわたしの名前がわかるんですか?」
「わかりますよ、店員ですから。会員証を見れば一目瞭然です」
「あっ、そっか……」
「今日は、どっちの席になさいますか? パソコン、苦手じゃなくなったみたいですね」
「あー、はい。多少使えるようになったんで、今日もインターネット席でお願いします」
「はい、そしたらこれが伝票。森さん、前金ですからね」

 個室に入った。
 ……あぁ、マンガ喫茶に通うこと二ヶ月。
 とうとうレジの山口さんに名前を覚えられてしまった。
 いけない。早くこの状況を打破しないと。誰も彼もが、わたしのことを無職で毎日マンガ喫茶に通っている人間だと知る前に、この状況を変えないと。
 夢原さんに復讐したところで、わたしの状況が何か変わるのだろうか。
 無職なことに変わりはない。友だちも恋人もいないこの現状は変わらない。
 なのに、なんだかエネルギーが沸いてきた。
 今まで夢原さんの詩集を読んだり撫でたりしていたけど、会いたいなんて一度も思ったことがなかった。
 友だちも恋人も欲しいなんて本気で思ったことがなかったし、就職だって特にしたくなかった。
 何かをしたいと、これほどまでに思ったことは初めてだ。
 そうだ、復讐がうまくいけば……
 もっと元気になるかもしれない。


 三章 夢見たバラック

 夢原さんに復讐すると決めて以来、マンガ喫茶に通い詰めた。
 その前から……
 通い詰めていた。
 ここ一週間、それまでのだらだらとしたマンガ喫茶通いとは違ってまじめに通った。
 今日だって、さっきここにたどり着いたときにはまだ朝の十時半だった。
 無職になってから、午前中に外に出ることなんて滅多になかった。
 それがここ一週間、毎日午前中にマンガ喫茶に来ている。
 これを社会復帰と呼ばずしてなんと呼ぶ。
 と言っても、わたしがここで行っているのはハイテク犯罪。
 年齢や経歴さえ明かしていない夢原さんの家を、ハイテク機器──パソコンを使ってつき止めようという魂胆だ。
 実際始めてみると、この作業はかなり骨が折れた。
 パソコンに長時間向かっているせいで、肩も腰も痛くなった。目も疲れた。
 検索エンジンに「夢原翼」と入力し、有力情報の載っていそうなホームページに当たりをつける。見ると、それは前にたどり着いたページ……
 ということを毎日繰り返した。
 目、肩、腰だけでなく、延長料金も懐に痛かった。
 本屋でバイトしていた頃に貯めたお金も、そろそろ底を突きそうだ。
「だめだ。わたしにはやっぱりハイテク犯罪は無理なんだ」と諦めかけた昨日、すごいページにたどり着いた。
 そこには「掲示板」と書かれていた。
 掲示板は本当にすごかった。
 何がすごいかというと、個人のホームページと違って、たくさんの人が書き込みをしている。
 思いがけない情報がたくさん集まった。
 頭では覚えきれないので、メモ帳に書き写して帰った。
 そして家に帰って、そのメモ帳の、すでに関係ないメモを書いていたページは切り取って捨て、表紙にマジックで「夢原翼調査書」と書いた。
 トートバックの中から、「夢原翼調査書」を取り出し、開く。
 まずひとつめの情報。
 「夢原はチンパンジー」であるらしい。
バラックというのは檻の比喩で、かしこいチンパンジーがチョークを使って地面に書いた詩を飼育係が書き留めた」
 ……ひどい!
 夢原さんを侮辱するなんて許せない。
 気を取り直してふたつめの情報。
「夢原のバラックはマニラにある。むしろ夢原はマニラ人」
 ……ひどすぎる!
 勝手な想像をするにもほどがある。
 みっつめの情報。
 今度こそ!
「グーグルでイメージ検索すると、夢原の住んでるバラックにそっくりな画像が出てくる。そのバラックはマニラにあるらしい」
 なんてことだ!!
 またマニラだ。
 みんな、どうしてこうも勝手な想像ばかりするんだろう。
 夢原さんが、チンパンジーなはずないじゃないか。
 夢原さんは、れっきとした人間だ。
 人間の男の人だ。
 年は二十代半ば。
 細身で背が高い。
 貧乏で無精な夢原さんは、しばらく床屋に行っていないから髪は長め。
 前髪の奥に隠れた目からは、優しさとともに知性がうかがえる。
 鼻は高くて唇は薄い。
 まるで少女マンガに出てくる男の人のような、整った顔立ち。
 そう。中学のとき読んだ、あのマンガに
出てきた男の人のようだ。
 名は「河田先生」。
 彼のような外見をしているのが夢原さん。
 夢原さんは詩人だから文系で、河田先生は理科の先生だから理系という違いこそあれ、頭が良いことに変わりはない。
 外見から滲み出る知性。
 それがわたしの想像してきた夢原さん。
 ……あぁ。わたしはたぶん、五十メートル先からでも、夢原さんのことを見つけられるだろう。
 あとは、夢原さんの半径五十メートル以内に入れる手がかりを見つければ完璧だ。
 家がわからなくてもいい。
 せめて最寄りの駅だけでも。
 いつも通ってる銭湯だけでも。
 夢原さんに住民税の滞納通知を送り付けてくる役所の場所だけでも。
 ……わかるといいなぁ。

 翌日もマンガ喫茶で、昨日見たのと同じ掲示板を開いた。
「あ! 書き込みが増えてる」
 ……でも読むの、ちょっと嫌だな。
 また「チンパンジー」って書いてあったら、嫌だなぁ。
 なんで正しい情報や手がかりになる情報が書かれていないんだろう。
 「夢原は幼女が好き」とか「ヒップホップ系デブ」とか、もはや情報とも言えない悪口もちらほら目に付くし、今日増えた書き込みも、その類かもしれない。
 でも勇気を出して読もう。
 これが夢原さんに繋がる手がかりかもしれないんだ。
 ……えーい!
 なになに……
「夢原の住所?」
 うん、まぁね、住所がわかれば一番いいんだけどね。人生そうも行かないからね。
 そう簡単にうまくは……
「東京都」
 そりゃあ、東京に夢原さんの家があれば、電車に乗って明日にでも行くところだけど。
「杉並区」
 杉並区かぁ。
「あぁ、番地まで載っている。個人情報保護法も顔負けだね。インターネットはすごい……って」
 ……
「えー!」
 ……
「えー!」
 ……
「えー!」
 三度同じ叫び声を繰り返した。
 隣りの人が、こちらとあちらの個室を遮る木のついたてを蹴った。
 姿勢を正した後、夢原さんの住所が書かれているパソコンのモニターに顔を近付けた。
 視力が悪いわけではない。
 これは、たいへんなことが起きてしまった。ついに、夢原さんの家をつき止めてしまった。
「あぁ、バラックバラックバラックバラック、くふふふ」
 また隣りの人がついたてを蹴った。
 キーボードの横に置いていた紙コップが倒れ、キーボードはメロンソーダまみれ。
 あわわっ! たいへん。
 だけど自然と顔がにやけてしまう。
 夢原さんのバラックが間近で見られる。
 夢原さんにも会えるかもしれない。
 さっそく明日出発だ!
 伝票を持ってレジへ向かったら、山口さんがスーツを着て、少し長めの髪を茶色く染めた、色の浅黒い、三十代半ばくらいの男性と言い争いをしていた。
 「学校」とか「卒業」、「結婚」などという人生において重要な単語がちらほら聞こえた。
 わたしがレジの前に立ったらふたりは会話をやめてしまった。
 なんの話かよくわからなかったけど、とにかく、今わたしにとって一番重要なことは、夢原さんの家に行くこと。

 冷房の効いた涼しい電車内で、端の席に座りながら、夢原さんのバラックを想像する。
 夢原さんに、もしもばったり出くわしたときのことも考える。
「あは、あは、あはははは」
 小さな笑い声が漏れる。
 向かいの席に座っていたOLさんらしき、スーツを着た女の人と目が合う。
 目をそらされた。
 いつもだったら、他人に目をそらされたら、「わたし変なのかな」と気になるけど、夢原さんのことを想像しているときのわたしは強い。
 バイト中に店長に嫌味を言われたときは、乗り切るために、いつも夢原さんのことを想像した。
 目の前にいるのは夢原さんで、わたしと夢原さんは何か別の話をしている。
 とっても難しくて、興味深い話。
 たとえば詩の話。文学の話。
 決して、釣り銭の渡し間違いの話なんてしていない。
 日曜日に自分の部屋で寝ていて、下の部屋から酒に酔ったお父さんの独り言が聞こえてきたときは、バラックを想像した。
 ここはローンの残った郊外の一戸建て住宅じゃない。バラックだ。
 「関東大震災がまた起きればいいんだよ。そしたら、物の価値も金の価値もめっちゃくちゃだ。ローンも借金も帳消しだ。あぁ、こんな家潰れちまえばいいんだ。総理大臣もホームレスになればいいんだ」というお父さんの声なんて聞こえない。
 だってここはバラックだから。
バラックバラック
 いよいよ、いつも想像していたバラックに到着する。
 掲示板には、住所と一緒に「あいつ、貧乏なふりしてたけど、とっくの昔に貧乏生活を脱出して今では豪邸暮らし」「医者の息子で優雅にニート」なんていう嘘の情報が書かれていたけど、そんなのは嘘だから気にしない。
 あと一駅で、もう着いてしまう。
 緊張して、のどがカラカラに渇いてきた。
 昨日少し風が強かったけど、夢原さんの家のトタン屋根が吹き飛ばされていないといいなぁ。

 下りたのは私鉄の小さな駅。
 チェーン店のハンバーガー屋。チェーン店のケーキ屋。チェーン店のラーメン屋……
 駅前には、個人経営の寂れたお店と、見慣れたチェーン店の店が混在している。
 知らない街に来ても、チェーン店のお店を見かけると落ち着く。
 さあ、これから夢原さんのバラックを目指すぞ!
 バラックを見付けて、夢原さんを待ち伏せし、それから……
 それから……
 えーっと。
 夢原さんに会ったら、何をするんだっけ。
 ハイテク犯罪をするはずなんだけど……
 うーん。
 インターネットで夢原さんの家を調べるまでがハイテク犯罪で……
 あー! どうしよう。
 その先を考えていなかった。
 急いで考えないと。
 歩きながら考えよう。
 夢原さんのバラックに向かいながら、着くまでに、夢原さんに会うまでに、どんな復讐をするか考えるんだ。
 あれだ。
 そうだ、ピンポンダッシュ
 いや、やっぱり違う。
 そんなんじゃ、わたしの恨みを晴らせない。
 そもそも、恨みってなんだったっけ。
 これから夢原さんの家に向かって、着くとそこには三作目までの詩集にあったバラックが建っていて、今にも崩れそう。
 夢原さんは想像通りの質素な格好をしている。
 それでいいじゃないか。
 何も問題ないじゃないか。
 そうだ、何も問題ないということを確認して帰ろう。
 それが今日の目的だ。
 あれ?
 あの家、トタン屋根だ。
 『死後裁きにあう』?
 随分変わった看板が貼られてるけど、住所を確認してみよう。
 ……
 違った。
 この辺りなはずなんだけどなぁ。
 夢原さんのバラック
 それにしても、この辺の地域は、貧富の差が激しい。
 新しくて大きな家と、バラックと呼んでもよさそうな古くて壊れそうな家が並んで立っている。
 夢原さんの住んでいるのはバラックだから、豪邸は確認する必要がない。
 バラックばかり、住所を確認して行けばいいんだ。
 簡単だ。
 このバラックが二の十四の六だから、二の十四の八はすぐ近くにあるはずだ。
 この新築住宅は二の十四の七か。
 えーっと……
 なんだこりゃ!
 なんだ!? このお城みたいな建物は。
 庭にきれいな女の人が立っている。
 色白だ。
 真っ白だ。
 羽が生えている。
 神話に出てきそうな、耳が長くてうさぎみたいなのとコンドルを従え、庭に立っているのは──
 ヴィーナスだ!
 ヴィーナスが、庭の花々に微笑みかけている。
 すごい。
 本当の金持ちは、ガーデニングの置物ひとつとっても、一味違う。
 「七人の小人なんて、庶民の置くものよ。うちはなんてったって、ヴィーナスですからね。おほほほ」と笑っているに違いない。
 なんて嫌味な家なんだ。
 門からして大きすぎて嫌味だ。
 日本人は体が小さいんだから、門も小さくていいんだ。
 あ! 車だ。
 庭の一角に、白と黒、二台の車が停めてある。
 そうか、これは門ではなく、車が通るための入り口なのか。
 つくづく嫌味な家だ。
 夢原さんなんて、どこに行くにも徒歩移動なのに。
 近所にこんな家があったら、夢原さんがますますみじめな気持ちになるじゃないか。
 ところで、この家の住所はいくつだろう。
 門はこっちか。
 アーチ型で、上に鳥が留まっているデザインの門に近寄る。
 その横にはポストがある。
 ポストに書いてある住所で確認してみよう。
 ……むむっ、ポストにセコムシール。
 さすが金持ち。
 「夢原さんの住所が二の十四の八で、この家が、二の十四の……八……」
 なーんだ、夢原さんと同じ住所か。
 おそろいだね。
 夢原さんも、こんなヴィーナスなんて置いている豪邸と同じ住所だと、何かと困るだろうね。
 郵便物の誤配とか。
「あは、あは……あはははははははは」
 ふー。
 立ちくらみがした。
 今は夏だし暑い。
 そんなの当たり前のことだ。
 さて、どうしようかな。
 ゴン!
 夢原邸の壁を蹴った。
 ゴンゴンゴン!
「なんでだ。なんで豪邸なんだ。なんで変わっちゃうんだ。なんで嘘つくんだ。なんでなんで、バラック……バラック、うーうーうーバラックぅー」
 こんなところで蹲って泣いてるわたし、恥ずかしい。
 でも動けない。
 立ち上がれない。
 息苦しい。
 暑いからだ。
 夏だからだ。
「うーうーうー」
 ……う?
 蹲った背中のすぐ横で、門が開き、閉まる音。
「君、どうした?」
 門から出てきた誰かに声をかけられた。
 男の人の声。
 なんでもないのに。
 暑いだけなのに。
「具合でも悪いのか?」
 暑くて息苦しいだけなのに。
「何か探し物だったら、手伝うぞ」
 何もない。
 そっとしておいてほしい。
「連れはいないのか?」
 誰もいない。
 わたしにはもう夢原さんもいない。
「この家に用があるのか?」
 夢原さんなんて……
バラックに住んでない夢原さんなんて……うわーん。ヒックヒック」
 痛ッ!
 男の人がそっとしておいてくれないから、逃げようとして立ち上がった。
 そうしたら、足下がふらついて尻もちをついてしまった。
 踏んだり蹴ったりだ。
 あれ?
 体に触れられた。
 痴漢?
 じゃない。抱き起こしてくれたんだ。
「大丈夫か? 立っていられるか。手を放すぞ」
「はい……」
 え?
 あ! 待って、だって……
「あたたたたたッ」
 また尻もちをついてしまった。
 でもそれどころじゃない。
 尻もちをついたまま後ずさる。
 だって、わたしを抱き起こしてくれた人は……
 わたしにたった数秒前まで触れていた人は……
「夢原さん!!」
 尻もちをついたまま、夢原さんの顔を真っ正面から見る。
 整った顔立ち。外見から滲み出る知性。
 想像していた通りの夢原さんが、今、目の前にいる。
「ち、違うぞ。俺は夢原ではない」
 夢原さんも往生際が悪い。
 わたしは夢原さんに、出会ってしまった。


 四章 無人島で暮らすんだ

 夢原さんに連れられ、駅前の喫茶店に来た。ここはセルフサービスのお店だ。
 わたしたちは飲み物を注文するため、横に長い注文カウンターに沿って一列に並んでいる。
 前には若いカップルが並んでいる。その前にもカップル。
 男、女、男、女、夢原さん、わたし……
 後ろを振り返った。
 真後ろで、フランス書院文庫を読んでいたおじいさんと目が合った。
 慌てて前を向く。
 夢原さんは、並び始めてすぐに鞄から手帳と万年筆を取り出し、それから何かずっと書いている。さりげなく覗き込んでみたら、顔にかかる横髪の隙間から、真剣な眼差しが見えた。その目を見たら、余計に落ち着いていられなくなった。
 『落ち着いてますよ』というさりげなさを装って、客席を見渡す。
 学生にとっては夏休みの時期だというのに、客席には中高生の姿は見当たらない。
 それよりも、昼間も夕方も、夏休みだって関係ない高齢者のほうが多い。
 奥のほうにひとり、スーツを着たサラリーマンらしき中年男性が見えた。ノートパソコンを広げ、素早い指さばきでキーボードを叩いている。傍らには灰皿。
 よく見ると、他の人たちもみな煙草を吸っていた。
 そうか。
 一階は喫煙席なんだ。
 どおりで中高校生の姿が見当たらないわけだ。
 ということは、二階が禁煙席か。
 夢原さんは、煙草を吸うだろうか。
 それとも、吸わないのだろうか。
 夢原さんに訊いてみたいことは山ほどある。
 それなのに現状は、こんなに近くにいるというのに、煙草を吸うか吸わないかさえ訊けない。
 豪邸の前で夢原さんに「君のその症状は日射病かもしれない。早急にどこか涼しいところで休むんだ」と言われ、わたしたちはここまで歩いて来た。その間会話をしたのは一度だけ。
 駅方面に向かって歩いている途中、カントリー調のかわいい喫茶店を見つけた。
 店頭には、イーゼルに立て掛けられた黒板が置かれていた。
 チョークでメニューとトトロのイラストが書かれていて……
「かわいい! ここ……」
 前を歩く夢原さんに声をかけた。
「だめだ。こんなチェーン店じゃない喫茶店、落ち着かなくて君が余計具合悪くなる」
 夢原さんは一瞬見ただけで、きっぱりと断った。
 そしてまた、スタスタ歩き始めた。
 それ以来、わたしたちは言葉を交わしていない。
 『もし夢原さんが目の前に現れたら』という状況を何度も想像してきた。
 夢原さんと喫茶店で向かい合って、ストローでカラカラ氷をかき回しながら、現代詩の話をするところ。
 夢原さんの住むバラックの一室、和室の部屋でお茶を飲み、羊羹を食べながら詩の書き方を教わるところ。
 今、そのチャンスが訪れている。
 ……にもかかわらず、なんと話しかけていいか、まったくわからない。
 何を話そうか。
 何を……
 もしかしたら、いきなり深い話をしようと意気込むからいけないのかもしれない。
 一般的に、深い話をするには、親友とか恋人にならなくてはいけない。
 ……え?
 恋人?
 わたしが?
 夢原さんの?
 恋人?
 だめだ。
 だめだだめだだめだ。
 無理だ無理だ無理だ。
 わたしが夢原さんの恋人になるなんて、そんなの無理に決まっている。
 前に並んでいるカップルみたく、夢原さんと顔を寄せ合って、囁くように会話をするなんて、わたしには似合わないし、第一恥ずかしい。顔から火が出る。
 あぁ。想像しただけで、顔が火照ってきた。
 そんな、突拍子もない想像をするのはやめよう。
 まずは……
 まずは……
 お友達から始めよう。
 友達になるには、相手の持っているものを褒めればいい。
 小学校のとき、友達の多い絵里奈さんは、わたしの持っていた筆箱や、定規を入れていた布袋などを褒めてくれた。
 わたしだけでなく、他の子の持ち物もよく褒めていた。
 そこから自然と会話は広がり、絵里奈さんのまわりには、いつでも人と笑顔が溢れていた。
 小学校のときは、真似したくてもうまく真似できなかった。
 今こそ、絵里奈さんの使っていたコミュニケーション技術を真似するときが来た。
 夢原さんの今持っているものと言えば……
 手帳と万年筆。
 まずは手帳を褒めて、次に万年筆を褒める作戦決行!
「あの、その手帳……」
 夢原さんが振り向いた。
 開いた手帳に万年筆の先を当てたまま、わたしを見ている。
 たいへんだ。「手帳……」と言ったはいいが、なんと褒めるか決めていなかった。
 どうしよう。早く褒めないと。
 夢原さんが、わたしを見ている。
 怪訝な表情に変わっていく。
 えっと……
 『かっこいいですね』は、ありきたり。
 『いかした手帳ですね』だと古くさい。
 あぁ、どうしよう。
 絵里奈さん、絵里奈さん……
 絵里奈さんはどうやって人を褒めていたんだっけ。
 あぁ、絵里奈さん!!
モレスキンだ」
「は? え……」
 英語?
「これはモレスキンと言って、実に素晴らしい手帳だ。ヘミングウェイピカソもこれと同じ手帳を使っていた。天才たるもの、この手帳は必需品と言える。それから、こっちの万年筆だが、セーラー社のもので、値段のわりにはなかなかの優れものだ。ペン職人長原幸夫氏が……」
 夢原さんは、自ら万年筆のことも語りだした。
 少年のように活き活きとした表情で、手帳と万年筆をそれぞれ左右に持って、小刻みに揺らしながら語っている。
 ぴりぴりとした緊張感を漂わせていた、さっきまでの夢原さんとは別人のようだ。
 そして、会う前に想像していた夢原さんとも、容姿はそっくりだけど、かなり印象が違う。
 わたしが想像していた夢原さんは、いつも物思いにふけった表情で静止したまま動かない、まるで銅像のようなものだった。
 なのに、今わたしの傍にいる夢原さんは、動いている。
 表情が変化している。
 すぐに怒る。
「おい、聞いているのか」
「は、はい。聞いてます。夢原さんはモレスキンが大好きなんですよね」
 鋭い目で、夢原さんがわたしのことを睨みつけた。
モレスキンの話はもう終わった。今は、君が何を飲むかが問題とされている。セルフサービスなんだから、自分のことは自分でやれ」
 いつのまにやら、わたしと夢原さんが注文する番が来ていたようだ。
 ポロシャツを着てキャップをかぶった男の店員さんが、わたしを見ている。
 ……あぁ。
 いつから待たせてしまったんだろう。
 後ろにも人が並んでいるというのに。
 店員さんから目をそらし、夢原さんのほうを見た。
「あの、何を注文したんですか?」
「俺か? 俺はアイスソイラテだ。イソフラボンは体にいい」
「そうなんですか。それなら、わたしもアイスソイラテを」
 これで一安心。
 もう夢原さんに怒られなくて済む。
 なんだか夢原さんの、わたしに対する態度は厳しい。
 何か気に障ることでも、してしまったのだろうか。
「それでは、アイスソイラテをおふたつでよろしいですね」
 あ!
「ちょっと待ってください。わたし、コーヒーだめなんです。飲むとソワソワしちゃうんです。だから、すみませんが『ラテ』っていうコーヒーの部分を抜いてもらえませんか」
「……」
 店員さんが、笑顔のまま固まってしまった。
 そのまま、だんだん眉間にしわが寄っていく。あくまで口もとは笑顔のまま。
 とても悩ましげというか、無理難題を突き付けられた人間の表情だ。
 ということは、わたしの注文は無理難題。
店員さんにも夢原さんにも、わがままなやつと思われたに違いない。
「あのー、お客さま。ラテを抜きますと……ただの豆乳になります。それでもよろしかったらお作りできますが……」
 夢原さんが、般若のような顔でわたしを見た。
「はい。豆乳をお願いします」

 夢原さんはソイラテを、わたしは豆乳の入ったグラスを持って、二階の席に上がった。
 夢原さんが当たり前のように階段を登るから着いてきてしまったけれど、本当に禁煙席でよかったのだろうか。
「煙草、吸わないんですか」
 夢原さんがトイレに近い隅っこの席に座ろうとしたとき、向かい側の椅子を引きながら訊いた。
「当たり前だ。俺はJTの奴隷なんかになりたくない」
「ど、奴隷!?」
 だめだ。
 いけない。
 話題を変えよう。
 椅子に深く座り直し、夢原さんに気付かれないよう、小さく深呼吸をした。
 そろそろ、第二ステップに進んでもいい頃合ではないか。
 持ち物を褒めた。
 ──夢原さんは上機嫌になった。
 豆乳を注文した。
 ──怒られた。
 煙草の話をした。
 ──奴隷の話になった。
 えーっと……
 そろそろ詩の話をしよう。
 隣のテーブルでは、七十歳くらいの男女が、公民館のウクレレ講座で習った、ウクレレのチューニング方法について話している。実に和やかな雰囲気。
 もしかしたらロマンスが……
 うふふふふッ。
「おい!」
「はい!?」
 夢原さんに声をかけられた。
 びっくりしたけど、夢原さんのほうから話しかけてくれるなんて嬉しい。
「夢原翼の他に、どんな詩を読むんだ?」
 しかも、詩の話を振ってくれた。
「あの、えっと、昔の詩人だと黒田三郎が、好……」
「あー、あいつはクズだな」
 詩の話を振られたと思ったら……
 切り捨てられた。
「あいつの詩なんて、貧乏な生活をそのまま詩にしただけの、詩とも呼べないゴミ屑だ。現状を変える勇気のない人間に、俺は興味がない」
 興味、ないのかぁ……
 そっか、夢原さんは黒田三郎に興味がないのか。
「……」
 豆乳をいっきに半分ほど飲んだ。
 高校の教科書で読んで以来、わたしは黒田三郎の詩が好きだった。それに、夢原さんの詩は、黒田三郎の詩に少し似ていると思っていた。
 もしも夢原さんではなく、黒田三郎と同じ時代に生きていたら、そんなことが頭に浮かぶことがあった。
 その場合、わたしは夢原さんではなく黒田三郎に……
 強く魅かれた?
 あるいは同じくらい好きになった?
 ……
 そんなことはありえない!
 あってはいけない!!
 夢原さんは、わたしにとって唯一の特別な存在なんだ。この世で一番素晴らしいんだ。
 今、目の前にいる夢原さんが!
「そんなに黒田三郎が好きか?」
「いえ! ぜんぜん。まったく。……ほとんど読んだこともありません」
「そうか。そうだろう」
「……はい。あのー」
「なんだ」
高村光太郎についてはどう思われますか? 有名だし、やっぱり、尊敬したり見習ったり、しているんですか」
「興味がない」
 ……え!?
「俺は智恵子に興味がない」
 ……そんなぁ。
 高村光太郎の、智恵子さんへの愛は素敵だと思ってたんだけどなぁ。
 それに、国語の授業で高村光太郎の『ぼろぼろな駝鳥』を朗読したら、先生に褒められて、あれは中学生活の中でも一番良い思い出だった。
 でも別に高村光太郎が特別好きというわけでもない。
 うん、そうだ、好きじゃない。
 わたしの好きな詩人は、夢原さんだけだ。
 そんな夢原さんの尊敬している詩人は……
「誰ですか?」
「俺が尊敬しているのは」
 夢原さんが尊敬しているのは!?
「俺だ!」
 ……え? へ?
「ちょっと意味が……」
「俺は、俺を尊敬している」
 くらくらした。
 めまいだ。
 立っていたら、倒れていたかもしれない。
 だけど、座っていたから大丈夫。
 テーブルの縁をつかみ、横に傾いた体勢を整えた。
 実際の夢原さんは、想像していた温和で謙虚な夢原さんとは違った。
 自信に満ちあふれ、それを臆せず口に出す人だった。
 想像していた夢原さんとは違ったけど、でも、いま目の前にいる夢原さんが、わたしは……
「好きです!」
「ななななッ、何を言い出すんだ、急に」
 夢原さんが、アイスソイラテを口から少し吹いた。
 テーブルに備え付けの紙ナプキンで、口元を拭っている。
 どうしよう。思い余って変なことを言ってしまった。
「あの、違うんです。夢原さんが夢原さんを尊敬しているように、わたしも夢原さんのことを尊敬しています」
 あぁ、もうだめだ。あたふたして、早口になってしまう。
「そして、実際お会いできて、三冊の詩集で知りつくしたと思っていた夢原さんのことがまた新たに知れて……」
 ──とても幸せだ。
 わたしは夢原さんのことが、やっぱり大好きだ。
 ドンッ!!
 夢原さんが、テーブルを手のひらで叩いた。
「俺は夢原じゃない」
 夢原さんの顔を見る。
 眉間にしわが寄っている。
 相当怒っているみたいだ。
「いい加減、目を覚ませ。初めから言っているだろ。俺は夢原じゃない。それにあいつの出した詩集は三冊ではなく四冊だ。ファンならそのくらいのこと知っておけ」
 四……冊?
 なんのこと?
 夢原さんが今まで出した詩集は三冊。これからまたバラックの出てくる詩集が……
「あれ? 出たんだっけ」
 わからない。
 わからない。
 知らない知らない知らない。
「豪邸なんて見てないし、あなたは夢原さんなんです」
 ストローで氷の入った豆乳をぐるぐるかき回した。
 こうしていると、知りたくないことは全部消えてなくなりそうだ。
「なくなっちゃえ。消えちゃえ。溶けちゃえ」
 カラカラカラカラカラ。
「おい! そんなに氷をかき回すもんじゃない。豆乳が……テーブルじゅうに飛び散っているじゃないか!」
 夢原さんが、紙ナプキンでテーブルを拭いた。
「冷静になって聞くんだ。俺は断じて夢原じゃない」
「嘘です……」
「嘘じゃない」
「だって夢原さんは、あの豪邸から出てきて……夢原さんの家は豪邸で……でも夢原さんの家は豪邸じゃなくて……バラックで、バラックが、バラックだから……」
「お、落ち着くんだ。あと、もう一度言うが、豆乳をそんなにかき回すな。かき回しても味は変わらないし、氷が溶けてむしろ薄くなるだけだ。それにほら、またテーブルの上に」
 夢原さんが、わたしのグラスに手を伸ばしかけた。かき回すのを阻止しようとしたのかもしれない。
 夢原さんがグラスをつかむのよりも早く、わたしがグラスをつかんだ。
 持ち上げた。
「こんな夢原さん……」
 グラスをつかもうと、軽く前のめりになった夢原さんの頭上で、グラスを逆さにした。
 夢原さんの髪は、一瞬で豆乳まみれ。
 髪から豆乳が滴っている。
 氷が床に落ちて、ガラスのような音を立てた。
 豆乳まみれの夢原さんの頭上に、ひとつだけ乗っている氷がある。
「……嫌いです!」
 夢原さんが顔を上げた。
 頭から氷が床に落ちた。
「なんなんだ! 俺が何をしたっていうんだ。言ってみろ。勝手に夢原と決めつけておいて、好きだの嫌いだの……。挙げ句の果てには豆乳か。初対面で体調を気使ってやった人間に豆乳をかけるのか!」
 一度テーブルを拭いた紙ナプキンで髪を拭き始めた夢原さんは、すぐにそれでは足りないと気付いたようで、残っていた紙ナプキンを全部わしづかみにした。
 そして、わたしのことを憎々しげに睨みつけながら髪を拭いている。
「だって……だって、夢原さんが嘘を付くから。夢原さんじゃないって嘘を付くから。どうして、人の希望を奪うんですか。期待させておいて、何度もわたしの希望を奪った夢原さんを……」
 立ち上がった。
「許さない!!」
 夢原さんが椅子の背もたれにかけていた肩掛け鞄をつかみ、走った。
 この鞄の中には、夢原さんの手帳が入っている。
 手帳に書かれた内容を読めば、夢原さんが、本物の夢原さんであるということがはっきりする。
 だからわたしは、これを持って逃げるんだ。
「おい! 待て」
 夢原さんの声にも振り返らず、いっきに階段を駆け降りた。
「ありがとうごさいました。またお越しくださいませ」
 カウンターの横を走り抜けるとき、店員の声が聞こえた。
 夢原さんは、まだ階段を降りてきていない。
 店の入り口から、十五メートルもしないところに駅が見える。
 その直前には踏み切り。
 どうやら、踏み切りのあちら側にしか改札はないようだ。
 この踏み切りを渡り終えたところで、ちょうど遮断機が下りれば、夢原さんに追いつかれることはない。
 そしてわたしは、そのままやってきた電車に乗り込もう。
 どこか遠くへ行こう。
 人のいないところがいい。
 無人島にしよう。
 夢原さんの手帳は読むまでもない。
 疑う必要なんてない。
 わたしは本物の夢原さんと会えた喜びと、この手帳だけを持って、一生を終えよう。
 だから追いつかれて、手帳も希望も奪われる前に、早く……
 カンカンカンカンって、遮断機が下りてくれないと……
「わたし、泥棒になっちゃうよー!」
 わたしが欲しいのは手帳だけなのに、鞄ごと持ってきてしまった。
 この中には、お財布だって入っているかもしれない。
 これじゃあ、立派な泥棒だ。
 ますます、早く遠くに行く必要が出てきた。
 誰かに通報される可能性があるから、無人島にしか住めなくなった。
 その前に夢原さんに捕まってしまったら、警察につき出されて牢屋行き。
 早く遠くに!
無人島、無人島。はぁはぁ。無人島……」
 後ろを気にしつつ、踏みきりを渡った。
 遮断機は閉まらない。
 喫茶店から、夢原さんが出て来るのが見えた。
 すごい形相、すごい早さ。こちらへ向かって走ってくる。
 このままだと、一瞬で追いつかれてしまう。
 わたしと夢原さんでは、背が違う。足の長さが違う。
 急がないと。
 いまが運命の分かれ道だ。
 夢のような無人島か。
 それとも牢屋か。
 ……
 やった!
 逃げ切った。
 追いつかれる前に、なんとか改札を通ることができた。
 この鞄の中にお財布が入っているとしたら、夢原さんは無一文だから、どうしたって改札の中に入ることはできない。
「俺のかばん、返せー!」
 改札前まで走ってきた夢原さんが、キヨスクの隣りでティッシュを配っていたミニスカートの女の人にぶつかった。
 夢原さんは深々と頭を下げた。
 そこから数メートルのところに、わたしは立っていた。
 相変わらず、改札を入ってすぐのところで立ち止まり、夢原さんの様子を見ていた。
 改札を挟んで、夢原さんとわたしは向かい合った。
「泥棒にはなりたくないから、鞄は返します。でも、手帳は返しません」
「手帳か。お前がほしいのは俺の手帳か。財布でも鞄でもないのか」
「そうです。でも、いまここで鞄を返すと、夢原さんは鞄の中から、お財布を取りだして、改札の中に入ってきてしまいます。だから……」
 電車が来るのを待とう。
 電車がホームにやって来たというアナウンスが聞こえるまで、もう二度と会うこともない夢原さんと話をしよう。
 改札の端、窓口の中にいる駅員さんが、こちらを気にかけている。
 夢原さんが駅員さんに、「泥棒です」と告げ口すれば、この会話は終わってしまう。
 改札のこちら側にでも鞄を置いて、早急にホームまで逃げたほうがいいのかもしれない。
 でも……
 夢原さんと、もっと話がしたい。
「なんで……トトロのお店に入ってくれなかったんですか」
 あぁ。
 夢原さんとの最後の会話としてわたしが選んだのは、トトロだった。
「一緒に喫茶店に入るのが、最初で最後なら、かわいいお店がよかったのに」
 しかも、喫茶店の店主が描いたであろうトトロは、かわいいと言っても、本物のトトロよりかなり顔が細かった。
「だから言っただろ。チェーン店じゃないと挙動不審な君が……」
「落ち着かないのは夢原さんじゃないんですか?」
 夢原さんはずっと落ち着かなそうにしていた。それに……
「夢原さんが真剣な表情で手帳に何か書いているふりをして、何も書いていないことは、途中から気付いていました」
「ぐッ……」
「夢原さんがぴりぴりしていたのは、怒っていたんじゃなく、緊張していたんじゃないですか? もしかしてわたし以上に……」
 夢原さんは知らない人が苦手なのかもしれない、ということを言おうとしたとき、駅員によるアナウンスが聞こえた。
 電車がやってきたようだ。
 夢原さんの鞄の中から手帳を取り出す。
 それを自分のトートバックに入れた。
「手帳以外は返します。だから、警察には言わないでください。これとともに、ひっそりと暮らします」
 改札の外にいる夢原さんに向かって、鞄を投げた。
 夢原さんが鞄をキャッチした。
「さようなら」
 夢原さんに、背を向けた。
 ホームに向けて、走り出そうとしたそのとき……
「読め!」
 夢原さんがわたしに向かって叫んだ。
 振り返って、夢原さんを見た。
「その手帳の中身を全部読め! 読めば、俺が夢原よりすごいってことが、わかるはずだ。そして読んだら、電話して来ても……かまわないぞ!
手帳の一番初めに連絡先が書いてある。俺が、俺が、お前の目を覚まさせやる」
 夢原さんの目は、真剣だった。
 わたしはホームに向かって全速力で走った。

 読まない。
 絶対読まない。
 無人島へ行く。
 発車寸前の電車に、乗り込んだ。


 五章 上り電車に希望はある


 下り電車に乗った。
 どうせなら、上り電車が来るのを待てばよかった。
 都心に近いほうが、何かと無人島へ行きやすい。
 次の駅で、上り電車に乗り換えた。
 座席はがら空き。だけど座らずに、窓のそばに立って景色を見た。
 だんだん大きなビルが増え……
 無人島に近い……
 都心に近付く。
 夢原さんと一緒にいた場所が遠ざかる。
 新宿に行くにはこの駅で乗り換えだというアナウンスが車内に聞こえた。
 ……新宿!?
 都心だ!
 降りよう!!
「……」
 新宿駅構内で、出口の案内表示を見上げながら、ふらふら歩く。
 あっちへ行けば西口。
 こっちなら東口。
 中央東口なんて出口まである。
 どの出口から出たらいいかわからない。
 そもそも新宿駅で降りて、どこへ行こうとしているのかもわからない。
 駅構内を歩いているあいだ、三人の人にぶつかった。
 四人目は、しましまのポロシャツを着た五十代の男の人だった。
「じゃまだ。チビすけ!」
 怒鳴られた。
 早く、てきとうな出口から外へ出てしまおう。
 雑貨屋、パン屋、花屋……
 改札を出ると、店が点在していた。
 ここは駅なのか、駅ビルなのか……
 わからない。
 もう二度とここから出られないかもしれない。
「あ! 階段」
 よかった。
 助かった。
 これを登れば外に出られる。
 踊り場に立ち、さらに階段を登ろうとしたとき、外から日の光が入ってきた。
 夕方だというのに、まだ日が差している。
 明るさにつられ、そのまま外に出ようとした。
 外に出る直前。左を向くと、かろうじて駅構内という場所に、旅行案内所が見えた。
無人島!」
 そうだ。
 わたしが目指していたのは、新宿ではなかった。
 新宿はあくまで通過点。
 外に出るのをやめ、旅行案内所をのぞくことにした。
 旅行案内所には、外にも中にもマガジンラックがいくつも並んでいる。
 すべてのパンフレットが見渡せるよう、沖縄のパンフレットの後ろに北海道のパンフレットが入れてあったりはしない。
 ざっと見渡し、「島」という文字がないか探す。
 ……あった!
奄美大島
宮古島
佐渡島
 だめだ。
 島の名前がみんな漢字。
 わたしが行きたいのは日本国内ではなく、もっと遠い島。
 無人島。
 中に入れば、無人島のパンフレットがあるかもしれない。
 中には十人弱の客がいた。
 日本人のカップル。外国人のカップル。小さな男の子を連れたお父さんお母さん。
 わたし以外、ひとりでパンフレットを見ている客はいない。
 三組座れるようになっている相談カウンターはひとつだけ使われていた。
 椅子に座り、タータンチェックの制服を着た女性に旅行の相談をしているのは、肌の浅黒いカップル。
 女性のほうはキャミソール一枚、男性のほうはタンクトップ一枚。これ以上は絶対に脱げない薄着。
 こんなに冷房が効いているというのに……。
 見ていたら、寒くなってきた。
 五分袖のカーディガンの上から腕をこすった。
 あのふたりがこれから行くところは、きっと暑い島なんだろう。
 それとも、あの日焼け具合からすると、すでにもう三回くらい行ってきたのかもしれない。
 まだ行くのか?
「……」
 他に二か所ある席に、客は座っていない。
 カウンターの中で書類を整理していた女性と目が合った。
 慌てて、パンフレットに目を走らせる。
「島、島、島……」
 ……あった!
 カタカナの島の名が書かれたパンフレット
を見つけた。
 それを手に取る。
 一番上に、「アジアビーチ」と大きな文字で書かれている。
 その下には、島の名前が八つ。
 バリ島、プーケット島、サムイ島、ビンタン島、ボルネオ島ランカウイ島、ペナン島セブ島
 バリ島とプーケット島は、テレビで聞いたことがある。
 たしか旅番組で芸能人が行っているのを観た。
 人が住んでいた。
 現地人と温かな交流をしていた。
 ……無人島じゃない。
 サムイ島、セブ島あたりも、なんだか聞いたことがあるような気がするし、きっと観光地だ。
 この中では、ビンタン島とランカウイ島だけが有力候補。
 なんだか、無人島っぽい名前じゃないか。
 とくにビンタン島なんて、いかにもサバイバルな雰囲気が漂っている。
 どきどきしながら、パンフレットを開こうとして、気になる文字を見つけた。
「アジアビーチ」の上、角のところに「成田発」と書いてある。
 成田空港なら、新宿からより、わたしの家からのほうが近い。
 家に寄って旅支度をしてから無人島を目指すこともできた。
 下り電車に乗ったままのほうが、よかった。
「……」
 まぁ、いい。
 過ぎたことだ。
 気を取り直して、パンフレットの中を開く。
 わぁ!! ホテルだ!
 ──無人島にホテルがあるなんて、ずいぶん気のきいた無人島だ。
 「デラックスルーム(海側のお部屋)」と書いてある部屋には、天蓋付きのベッドがある!
 枕がふたつ!
 なんて素敵なんだ。
 ──でも誰と寝るんだ?
 誰がいるんだ?
 無人島なのに。
 さらに、南国感漂う部屋でマッサージをしている女性と、されている女性。その横で、なぜか上半身裸でくつろいでいる男性が写っていた。
 ──人が三人もいる。
「ここも無人島じゃない……」
 パンフレットをラックの中に戻した。
 他のパンフレットを探したけど、表紙に島の文字があるパンフレット自体が少ない。
 やけになって、「ハワイ・アイランズ」と書かれたパンフレットを手に取った。
 わたしは知っている。
 ──ハワイに人が住んでいることを。
 ついでに曙がハワイのオワフ島出身なことも。
 武蔵丸だってそうだってことも。
 横綱を輩出するほど、人のたくさん住んでいるハワイ。
 中を見ないでも、このパンフレットに無人島が載っていないことはわかる。
 またまた「成田発」と書かれていたことには絶望したけれど、それ以外はここに入る前から知っていた。
「ハワイに行かれるご予定ですか」
 カウンターの中で書類を整理していた女性が、いつのまにか隣に立っていた。
無人島へ……」
 女性の目をまっすぐ見た。
 戸惑ったように目をそらされた。
 わたしの様子、そんなに変なのか……。
「違うんです。わかってるんです。ここに無人島のパンフレットがないことは。……初めからわかってたんです」
 お辞儀をして案内所を出た。
 そして走った。
 待ち合わせをしている人。
 勧誘をしている人。
 立ち止まっている人。
 歩いている人。
 それらの人のあいだをすり抜け、走った。
 すり抜けられずにぶつかった。たくさんの人にぶつかった。
 カラフルな色で「ALTA」と書かれたビルを見て、「ここにタモリさんが……」と、立ち止まりそうになったけれど、立ち止まらず走り続けた。
 今は夢原さんに追われているわけでもないし、他に追いかけてくる人もいない。
 それなのに、逃げているような気持ちで、新宿の街を走っている。
「コンタクトレ……」と言って、ティッシュを差しだした女性の手が脇腹に当たった。
「ぐっ……痛い」
 人にぶつかりながら走る勇気が、そこでなくなった。
 立ち止まって唇をかんだ。
 そのとき、知らない男の人に腕をつかまれた。
「ぼく、美容師やってるんだけど」
 知らない。
 あなたがなんの職業についていようと、わたしには関係ない。
 腕をぶんぶん振って、振りほどこうとした。
 なかなか放してくれない。
「どうしたの? なんで泣いてるの? うち、メイクもやってるんだけど、直していかない」
 化粧を直していかないかと言われても、わたしは家を出るときから化粧をしていない。
 無人島に行けば、化粧どころか服だって、きっと木の皮とかそんなもので作るんだ。
 だから、知らない男の人に化粧をお願いしている場合じゃない。
 腕を振らずにひねってみたら、案外簡単にほどけた。
 自称美容師さんは、驚いた顔をした。
 わたしも驚いた。
 すかさず、どこに逃げようかと見回すと、そこはちょうど本屋の目の前。
 紀伊国屋書店本店。
 一度来てみたかったところだ。
 美容師さんに言われるまで、自分が泣いていることに気付かなかった。
 手の甲で涙を拭い、本屋に入った。
 振り返ると、美容師さんはまた、別の女の人の腕をつかんでいた。
 女の人は、瞼にブルーのアイシャドーを付けていた。
 美容師さんと、笑いながら話していた。
 腕をつかまれているというよりは、手を繋いでいるように見えた。
 館内表示によると、旅行ガイドは七階に売っているらしい。
 旅行案内所のパンフレットには載っていなくても、紀伊国屋無人島の本がないはずはない。
 こうなったら、自力で調べて無人島へ行こう。
 火の起こし方や、イカダの作り方も、ついでに調べよう。
 意気込んで階段を探していたら、エレベーターが見つかった。
 エレベーターガールも付いていた。
 エレベーターガールは押しボタンの前にぴったりと張り付き、客にボタンを押させまいとしている。
「七階をお願いします」
 うわずった涙声が出て、恥ずかしかった。
 一方、「かしこまりました」と返事をしたエレベーターガールの口調は、バスガイドと同じだった。
 そういえばエレベーターガールを見たのは初めてかもしれない。
 ……ん?
 違う。
 むかし、家族で東京タワーに行ったときにも見た。
 それに、母のふるさと青森でも……
「三階、文芸書コーナーです。本日……原……先生によるサイン会を開催しております」
 ……え?
 いま、なんて言った?
 エレベーターガールさん、なんて言った?
 夢原翼先生って、言わなかった?
 夢原さんのサイン会があるって!?
 後ろの壁に寄りかかって乗っていた大学生風の男の人が、エレベーターを下りようとした。
 それを跳ねのけ、先に下りた。
「ごめんなさい」
 七階を押してくれたエレベーターガールと、跳ねのけた大学生に小さく謝りながらも、彼らの顔はちらりとも見なかった。
 一刻も早く夢原さんのサイン会にたどり着きたかった。
 通りかかった店員に、どっちに行けばいいかきいてみた。
「夢原……先生ですか? 梅原司先生のサインでしたら、あちらになりますが」
「……」
 夢原さんのサイン会ではなかった。
 当たり前だ。
 さっきまで一緒にいた夢原さんが、ここでサイン会をしているはずがない。
 それに、サイン会が開けるほど夢原さんは売れていない。
 とぼとぼと歩いて、サイン会の会場を一応覗いてみた。
 白いテーブルクロス。花瓶に花。編集者らしき人が数人立っている。
 その中心にいるのは、夢原さん……ではなく梅原司さん。
 今までわたしが知らなかった人。
 近くに貼られたポスターには、「新進気鋭の作家」と書かれている。
 すごい人みたいだ。
 本のタイトルだって、才能に溢れた人が付けそうなタイトルだ。
 梅原さんが、少し気になってきた。
 読者の差し出す本にサインをして、握手をする梅原さんは、わたしより少ししか年が上ではなさそうなのに、見るからに知識の深そうな顔をしている。
 若そうなのにおでこのあたりから髪が薄くなってきているのも、知識人の証。
 そして、読者に対するあの優しそうな笑み。
 夢原さんだったら、あんな笑みを浮かべたりはしないだろう。
 ずっと眉間にしわを寄せ、「君!」とか怒鳴るんだ。
 夢原さんだったら……
 夢原さんだったら……
 なんで今、夢原さんのことなんて思い出しちゃったんだろう。
 夢原さんのことは良い思い出だった。
 一度だけでも、会えて良かった。
 怒られたり、不愉快なこともあったけど、良い思い出だった。
 嘘つきだったけど、良い思い出だった。
 今日からは、梅原さんを頼りに生きよう。
 あの笑みが、わたしを救ってくれる。
 本を買い、列に並んだ。
 サイン会が始まって、すでに三十分以上が経過していたせいか、わたしの前には二十人くらいしか並んでいない。
 列はぐんぐん進んでいく。
 わくわく……
 しない。
 わくわくしないけど、しようと試みる。
 新進気鋭の作家。
 優しい人。
 髪の毛が薄い人。
 ……薄いのは関係ない。
 知識豊かな人。
 夢原さんと……
 名前が似ている人。
 もう、それだけでいいじゃないか。
 生きていくためには嘘も必要なんだ。
「梅原さんの詩が、ずっと前から好きでした」
 わたしの番が来て、新進気鋭の作家、初めて目にする梅原さんに言った。
「……ありがとう。だけど僕、これが初めての本なんですよ。それに詩ではなく小説なんです。ぜひ読ん……」
 梅原さんがわたしににこやかに語りかけてくれている最中、後ろから首根っこをつかまれた。
 首を直接ではないけれど、カーディガンの裏に付いているタグのあたりを誰かにつかまれた。
 怪しいファンから作家を守る屈強な体をしたSPにつまみ出されてしまうのか。
 これからファンになります、好きになります。
「だから許してください」
 つかまれたまま、振り返ると、そこにいたのは、屈強な体をしたSPではなく、細身で長身。無造作に肩まで伸びた髪。
 数時間前まで一緒にいた人。
 豆乳をかけた相手。
 夢原さんだった。
「なにふらふらと彷徨ってるんだ。行くぞ」
「どこへですか?」
「喫茶店にでも……」
「チェーン店ですか?」
「当たり前だ」
 優しい梅原さんが身を乗り出して、本を渡してくれた。
「ありがとうございます、梅原さん」
 握手をしようと腕を伸ばしたけど、夢原さんに引っぱられ、手は届かなかった。
 階段のところまで来て、やっと夢原さんは、わたしの服を放してくれた。
「ここからは自力で歩け」
 ……勝手に引きずってきたくせに。
「それより、エレベーターありますよ」
「階段でじゅうぶんだ」
「ところで、なんでここにいるんですか」
 夢原さんは、答えなかった。
 紀伊国屋書店を出たあとは、チェーン店の喫茶店を探しながら、ふたりとも無言で歩いた。
 つい数時間前と同じ。

 前を歩く夢原さんの髪は、汗なのか、わたしのかけた豆乳なのか、少し濡れていた。


六章から九章まではこちら 2014-08-24