短編小説「初恋」

 とても顔色の悪い男の子だった。彼は小学校2年生の途中にわたしのクラスに転入してきて、すぐに同級生たちと打ち解けた。彼の提供する話題は自分が重い心臓病であるということで、重い病気が身近ではない同級生たちの興味を引くのにそれは充分であった。
「嘘だー」
「嘘じゃねぇよ」
 彼と、同級生とが何度も交わすその会話はお互いに割り当てられたセリフを繰り返しているだけのように見え、誰も彼を責めるような意味合いで「嘘だ」という者はいなかった。中には休み時間になるたびに彼のそばに言って同じことを言う者もあった。
 彼らは、珍しい人間のそばにいたい、その欲求を満たしているに過ぎなかった。
 わたしはその様子を隅っこの席から、見ていた。
 しかし、彼が転入してきて10日くらい経ったある日から、彼と彼らとの予定調和の会話は、なぜかタブーとなった。
 「そういうことを言うのはやめなよ」
 それは、同級生の誰かの親か先生か、大人の間接的な介入を想像させられる出来事だった。

 それまで唯一の持ちネタだった心臓病であるという話のネタが使えなくなった彼は、急に口数が少なくなった。前に住んでいた福岡県がここと違ってどれほど田舎かということを笑い話にしてみたところで、それは誰の興味を引くこともできなかった。わたしたちのほとんどは生まれも育ちも東京都のすぐそばで、それでも都民ではないため、田舎よりもいつも東京に憧れを抱いていた。その証拠に、休み開けに週末は親に連れられ都心のどこそこへ行ってきたという話をする子のまわりには人が集まった。

 誰にも話しかけられなくなった彼と、掃除の班が同じになった時、わたしははじめて彼に話しかけた。
「心臓病って本当なの?」
「本当だよ」
 箒を持ちながらのその会話は一問一答で終わった。でも彼は心なしか嬉しそうに見えた。

 その後もわたしは、彼が同級生たちの誰よりも早く新しいゲーム機を買ってもらって再び一時的な人気者になったり、波が引くように引いていった人の中で残ったゲーム好きな子たちと数人のグループを形成したりという、クラスでの彼の不安定な立ち位置を観察し続けた。

 秋の遠足の時、心臓の悪い彼は途中から担任の女の先生に負ぶわれ、青白い顔をいっそう青くしていた。呼吸も荒く、辛そうだった。誰もがすっと目を逸らしたが、わたしは見ていた。

 3年生になってクラス替えがあり、彼とは同じクラスにならなかった。その後も同じ公立中学に上がったが同じクラスにならなかったので彼のことを見ることは少なくなり、また彼の名前を誰かから聞くということもなかった。

 ところが中学3年生のある放課後、忘れ物をして教室に戻ると、彼の名前を口にし噂話をする同級生の男子ふたりがいた。わたしは教室に入るのを躊躇って、もと来た廊下を引き返した。
「霊が見えると言っては人の気を引こうとしているらしくてさ」
 その時聞こえた彼に関する噂を3日ほど気にし続けた。
 
 3日経った後、わたしは今の彼が見てみたいと思った。すれ違うことくらいあっただろうに忘れていた彼が今どんなふうに成長しているのか、それを知りたかった。
 彼がどこのクラスなのかは、噂話を聞いてしまった時に「何組の誰々って……」と言っていたのを聞き、知った。
 昼休みを選んで、一番端の自分の教室から反対側の端の教室である、彼のいるはずの教室に向かってわたしは歩いた。

 彼の教室の前にたどり着くと、開いたままのドアから彼を捜すまでもなく、彼は教室から勢い良く飛び出して来るところだった。
 わたしよりも背の少し低い彼が、立ち止まってわたしを見上げた。
 彼の髪は明らかに自分でセットしたのではなく誰かにやられたのであろう、前髪のうちのほんの一部だけが整髪剤で上方に向かって固められていた。
「妖気。妖気」
「まじ、受ける」
 教室の外まで、中の笑い声やはやし立てる声がはみ出してきた。
 わたしは、彼に何か声をかけようと思った。わたしに行く手を阻まれる形で立ち止まり、固められた髪を下を向いてぐしゃぐしゃに掻く彼に何か優しい言葉を。
「あのさ」
 わたしは言った。
「わたしのお母さんも、霊、見えるんだよね。同じだからさ、気にすることないよ。去年、うちの学年の子がお父さんを亡くしたでしょ。担任の先生からそれを聞いて家に帰ってそのことをお母さんに伝えようとしたら、すでにお母さん知ってたんだよね。でもその知ってたっていうのが曖昧でおかしいの。ほんと、笑っちゃうくらいおかしいんだ。お母さんが水を飲もうとしたらグラスの側面に性別の分からない顔が、こんな」
 わたしは、親指と人差し指で豆粒を挟むようにして、彼に見せた。
「こんな小さな顔がグラスの側面に映ってたんだって。何か言いたげだったけど、喉が乾いてたから飲んじゃったって。でもきっとその死んだひとが何か伝えに来たのねって言ってた。ねぇ、信じる? わたしは信……」
 そのときにはじめて彼がわたしを正面から見た。
「お前さ、小学校の頃から、なんで俺を見かけるたび睨むの? きもいんだけど。それにお前の母さん、昔っからずっとキチガイだろ。変な宗教に入ってんのも、坂の上の有名な病院に通ってんのも、知らない奴はいないよ。そこまでいじりにくいと」
 そこで彼は言葉を区切った。
「いじめられなくていいよな」
 自分がいじめられていることを認めることになるのが恥ずかしいというように、吐き捨てるようにその言葉だけ早口に言った。
 そこで初めてわたしは、ドアの内側の教室内が静まり返っていることに気づいた。彼の教室。わたしの教室ではないけど、それをわたしは怖いと思った。
 わたしの意識がそちらに向いているうちに、彼はすでにわたしに背を向け廊下を歩いていた。きっとトイレへ向かって髪を直すのだろう。
 彼の背中を見ながら、わたしの頭の中にはたくさんの言葉が思い浮かんだ。見ていないのに。小学生のあの頃はたしかに見ていたかもしれないけど、その後ずっと気にかけてもいなかったはずなのに。なんで彼はわたしが見ていると、睨んでいると思ったのだろう。彼を見ていたのは、このわたしでないとしたら誰だろうか。
「ねぇ! それって生き霊かな?」
 10メートルほど先まで行った彼の後ろ姿に向かって言った。
 小学校のときに彼を気にかけすぎてしまったから、未だに彼の元にはわたしの念みたいなものが残っているのかもしれない。
 振り返った彼は、わたしに向かって「ごめん」と言った。
「俺別にそういうの詳しくないから」
 わたしはその時、自分が泣いているということに気がついた。
「ごめん」
 彼がもう一度言った。
 その表情はとても悲しそうだった。