この猫は違う猫

結婚して少し経って、同棲していたマンションから今のところに引っ越してきたとき、わたしは「主婦らしくなろう」と意気込んだ。


同棲時代があまりにもひどかった。
天才はいつも寝ていた。
わたしはDSでどうぶつの森をやって、我に返ると、我に返ったことが嫌で寝た。
常にどちらかが畳に敷きっぱなしの布団の上にいた。


引っ越して心機一転、いっきにまともな大人でまともな主婦になろうとした。
気負いすぎたせいか、別に遠くから引っ越してきたわけでもないのに……たった1駅最寄りの駅が変わっただけなのに、心細くて自信がなくて、寂しかった。


引っ越し数日後に、スーパーへ行く途中にある駐車場に、1匹の野良猫が住み着いていることを知った。
焦げ茶のトラ模様で、尻尾が短く曲がった猫だった。
片足が悪かった。


駐車場の周りには、ちょうどよく猫じゃらしが生えていたから、その猫と遊ぼうとした。


初日は「フーッ!」と息をかけられた。
そして逃げられた。


何日も何日もかけて、駐車場にしゃがんで、猫じゃらしを持って「にゃあお」と語りかけながら、猫を馴らしていった。
全然主婦らしくない。
他の主婦たちは、猫に見向きもせず、ママチャリでスーッと通り過ぎて行った。
少し後ろめたさを感じた。


猫が、初めてわたしの持つ猫じゃらしにじゃれてくれたとき、とても嬉しかった。


時間をかけて、猫とわたしは距離を縮めていった。
そのうち猫は、わたしを見ただけで「これからじゃれるぞ」という態勢を取るようになった。
態勢を低くし、おしりを振って、猫じゃらしに飛びつく準備は万端だ、とわたしに知らせた。


猫は、猫じゃらしにじゃれたいだけでなく、奪いたがる。
猫じゃらしを取られないように上手にじゃらすのが楽しかった。
だけど、そろそろスーパーに行かないといけない時間や、スーパーからの帰り道でもう夕飯の支度をしないといけない時間になると、わたしはわざと猫じゃらしを軽く持ち、ゆっくりと動かした。
猫はわたしから猫じゃらしを奪い取り、それをくわえて軽くびっこを引きながら、車の陰まで歩いて行った。


あるとき、そうして遊んでからスーパーに行ったあとの帰り道、また駐車場を覗いてみると、猫がわたしの渡した猫じゃらしを前脚で踏んづけてじっとしているのを見た。
わたしが通りかかったことに気付くと、猫は立ち上がって、自分で猫じゃらしにじゃれ始めた。
踊るような仕草だった。
それを見て、『わたしを待っていたんだ』と思った。
「もっと遊ぼうよ」よりも、「もっと遊んであげるよ」と言われた気がした。
食品の詰まったスーパーのビニール袋をアスファルトの上に置いて、猫と遊んだ。


遊んだあとに、たまにわたしの後を付いてくることもあった。
買い物帰りでわたしに時間がなくて、少ししか遊べない日にそういうことが何度かあった。
わたしはゆっくりと歩き、足の悪い猫に歩調を合わせ、たびたびふり返りながら、『あと少し。あと少し。あと少しで家だから。家まで来て一緒に暮らそうよ』、心の中でそう思った。
縄張りがそこまでなのか、猫はいつも同じところで立ち止まり、それ以上は付いて来なかった。


その猫は、よく遊んでくれて、よく懐いたけど、触ろうとすると逃げてしまう。
だから抱きかかえて連れ帰るということはできなかった。


それに、猫が求めているのは、わたしと遊ぶことであって、わたしと住むことではないということもわかっていた。
猫は「もっと遊ぼうよ。遊んであげるよ」、そう思って付いて来るだけなんだ……
わかっていても、できれば一緒に住みたかった。


深夜にコンビニへ行ったとき、猫が道の真ん中にいるのを見た。
何かにじゃれていた。
よく見るとゴキブリだった。
駐車場の前だし、それなりに車の通る道路だ。
それなのに、道の、ど真ん中で……
足が悪いその猫は、車が来たら逃げ遅れる。
そもそも、こんなに夢中になってじゃれていたら、車が来たことにも気付かずに、轢かれてしまうんじゃないかと心配になった。
わたしは猫を駐車場の中へと誘導した。


それ以来、その猫と遊ぶのをやめた。
何かにじゃれて楽しむことを知らなかった猫が、わたしによってその楽しみを知ってしまった。
そして、そのせいで死んでしまうかもしれない。


その後も相変わらず同じ道を通ってスーパーへ行ったけど、猫の、わたしを見かけた瞬間に取る、「これからじゃれるぞ」というポーズをちらっと見ては、遊びたい衝動を堪えて早足で通り過ぎた。


猫はしだいにわたしの姿を見ても、なんの反応も示さなくなった。


寂しくなった。


わたしの姿を忘れられるのは怖かった。


わたしは寂しさに耐えきれず、駐車場に入って行って、恐る恐る「にゃあお」と語りかけてみた。
わたしの、声だけは覚えていたようで、わたしの声を聞くと何度も見たお決まりのポーズをとった。
久々に見る姿だった。


それからはたまに語りかけるだけ。
猫も耳をピクピクするだけ。
そんな浅いコミュニケーションが続いた。


猫は突然、駐車場からいなくなった。


だけど数ヶ月して、戻ってきた。
ずいぶん警戒心が強くなって戻ってきた。
初めて出会った頃みたいだった。
何か辛いことがあったのかもしれない。


わたしは通りかかっても、元気なのを確認するだけで、語りかけるのも完全にやめた。
もうわたしと猫は、離れてしまった。


それから1年以上経った。


わたしは明日、引っ越す。
昨日、猫にお別れを言いに言った。
『ずいぶんお世話になったね。もうずっと遊んでないけど、ずっと気にかけていたよ。1度見かけなくなったときは本当に心配したんだから。こっちの都合で遊んだり、遊ばなかったりしてごめんね。車に気を付けて元気にしているんだよ』
そんなたくさんの思いを込めて、わたしはひと言、「にゃあお」と言った。


今まで、ほとんど鳴かない猫だった。
それが「んにゃー」と高い声で鳴いた。
猫が餌を求めるときの鳴き声だった。


「さよなら」
わたしは言った。
猫はわたしの後を付いて来なかった。


付いてくるはずがない。


わたしが引っ越してきたばかりの頃に遊んでいたのとは別の猫だから。


同じ模様だけど、足は引きずっていないし、尻尾も短いのが同じとはいえ、曲がっていない。


1度見かけなくなって、戻ってきたときに、気付いていた。
違う猫がやってきただけだって。
でも認めたくなかった。


車に轢かれたかもしれないなんて、考えたくなかった。


もう1度猫に、「にゃあお」と語りかけた。
やっぱり「んにゃー」という高い鳴き声が返ってきた。


さよなら、猫。