ご近所間あいさつ戦争

敵はバットを持っている。
対するわたしは丸腰だ。
それでも構わない。
先手必勝。
こちらから攻撃をしかけた。


「こんばんは」
敵と目を合わさず、下を向きながらわたしは言った。
敵は、コクリと頭を下げた。
勝った。
ご近所間の『初めにあいさつしたほうが勝ちだぞ大戦争』に、わたしはまたもや勝利した。
彼とわたしの戦いは、5勝0敗1引き分け。
わたしのほうが圧倒的勝率を収めている。


『それでもなぁ・・・・・・」
夕方になると集合住宅の共有スペースで素振りをしている推定年齢17歳の少年に勝利を収めた後、自転車でスーパーに向かいながら、わたしは思った。
わたしの勝てる相手は、バット素振り少年の他にいない。
推定年齢6歳の少女にだって負ける。
思春期の、通過儀礼としての自意識過剰、人見知り・・・・・・そんな彼の弱みにつけ込まなければ、わたしに勝てるチャンスはない。
『それでもなぁ。彼に勝っても勝った気がしない』
それはたぶん、彼がバットを持っているからだと思う。


そもそも『初めにあいさつしたほうが勝ちだぞ大戦争』は、なんで初めにあいさつしたほうが勝ちかというと、ふいにあいさつされるとビクビクしてしまい、頷くくらいしかできなくなってしまう・・・・・・わたしは。
というわけで、それなら先にあいさつしてしまおうじゃないかと思って、勝手に始めた戦いだった。


だから、先にあいさつしても、ビクビクしながらだと本当の勝ちとは言えない。


『バットにだって怯えない、画期的なアイテムはないだろうか?』
自転車に乗りながら考えた。
『ネギか?それとも大根か?どちらも長いぞ』
そう考えていたとき、グッチの大きな紙袋を持った女性が、目の前を横切った。
『バットに勝てるのはグッチの紙袋だ!』
そう閃いた。
『あちらが腕力で来るならこちらは経済力だ。大人の力を見せてやる。
だれか、グッチの紙袋を所有している知人はいないだろうか。でもなぁ、今のところグッチの紙袋は持っていないから、買い物を終えて家に帰ったとき、また家の前でバット素振り少年と顔を合わせるのは憂鬱だなぁ。
1度あいさつした人とまた顔を合わせた時って、もう一度あいさつするのも変だし、だからといって、さっきあいさつしといて、今度は目も合わせないというのもなんだし・・・・・・』
そんなことを考えながら、バット素振り少年が素振りを終えている時間に帰れるよう、なるべくゆっくり買い物をした。
帰ると、共有スペースに彼はもういなかった。


ほっとして、鍵を開けて家に入ろうとしたら、家の中で電話が鳴っていることに気付いた。
急いで家の中に入り、電話に出た。
夫の仕事関係の人からだった。
会社名と名前を聞いたあと、わたしは言った。
「お世話になっております」
わたしがそう口にしている途中、相手は、「おせ・・・・・・」と言いかけたけれど、わたしの「お世話になっております」を聞き終えた後、また改めて「お世話になっております」と言い直した。


『またやってしまった」
と思った。
大人には負けるべきときもあるのだと、同じ人からの初めての電話のときに自覚したはずなのに。
それ以後、5回くらい同じ人から電話を受けているけれど、毎回、つい勝ちに行ってしまう。
電話をかけてきた相手は、会社名と名前を名乗った後、流れるようにサラサラと「お世話になっております」と言う予定でいるはずだ。
それなのに、わたしは相手が名前を名乗った後の数秒の間に割り込んで、「お世話になっております」と言ってしまう。
名前と「お世話になっております」の間の数秒は、割り込んではいけない、相手の持ち時間なのだ。
ブレスタイムなのだ!
きっと・・・・・・


勝った気がしないどころか、申し訳ない気持ちになった。
『こちらにも、グッチの紙袋さえあれば勝てるだろうか』
そう考えたけど、すぐに思い直した。
相手は大人だ。
グッチくらいで、勝てるはずがない。
『それじゃあ、エルメスはどうだ?エルメスの紙袋では!?』


そんなことを考えながらも、バットでもグッチでもない、箒とちり取りを手に、毎回着実に勝ちを収める、向かいの家のお姑さんのことが、頭に浮かんだ。
丁寧だけど堂々と挨拶できる彼女は、最強だ。


「今日も負けました。あなたには、かないません」
そう言ったら、彼女は言うだろう。
「負けってなんですか?わたしは勝ったつもりはありませんよ」


ただ、あいさつさえ一苦労のわたしには、「今日も負けました」なんて話しかけることはできないから、彼女の「わたしは勝ったつもりはありませんよ」の一言を聞く機会は、この先一生訪れない。