子どもです

子どもの頃は、早く大人になりたかった。
自分がまだ子どもなのは明らかな事実なのに、他人から子どもだと思われることが、とてつもなく嫌だった。
わたしでなくとも、たいていの子どもはそういうものだと思う。


それなのに、今日、子どもが自ら「子どもです」と言うのを聞いた。
バスの中だった。
わたしは運転席のすぐ後ろの席に座っていたので、一部始終を見ていた。
ランドセルを背負った男の子が「子どもです」と言うと、運転手は「はい」と答えた。
子どもが料金箱にバス共通カードを通した。
運転手は料金箱の内側に付いているボタンを押した。
たぶんそのボタンには、「子ども」などといった表示があるのだと思う。
それを押してもらうために、子どもは「子どもです」と言ったのだろうと推測できた。


『それにしてもなぁ』と、わたしはバスの中で考えていた。
子どもに、子どもだと宣言させるのは、いかがなものか。
わたしがその立場だったら、屈辱的だったり恥ずかしかったりしたはずだ。
なんとしても、違う言葉に言い換えたいと思ったに違いない。


ということで、代わりの言葉を考えた。


まずはオーソドックスに。
「身も心も大人なんだけど、年齢だけが子どもです」


遠回しに。
「姉は11歳です」


「運転手さんのお子さんと同じくらいの年齢かと思われます」


わけわかんなく。
「昨日、学校でかけ算九九を習いました。と言っても、3ヶ月前に塾ですでに習っているので、昨日初めて九九を知ったわけではありません」


もっとわけわかんなく。
「黙って俺を見ろ」


運転手に、それとなく年齢が伝わればいいとなると、バリエーションは無限にある。
無限にあるせいで、運転手は混乱し、業務を迅速に行えなくなるだろう。
すると、運転手だけじゃなく、乗客にも迷惑がかかる。


『あぁ!わかった!!』


だから子どもは、わかりやすいよう、「子どもです」と言うのだということがわかった。
自分自身の屈辱や恥ずかしさよりも、運転手さんや他の乗客のことを考える子どもは、なんて大人なんだろうと思った。


それに引き換え、『わたしが子どもだったら意地でも「子どもです」とは言わず、他の言葉に言い換えてやる』と考えたわたしは、なんて子どもなんだろうと思った。


わたしこそ、運転手さんや大勢の乗客の前で、「わたしは子どもです」と宣言するべきだ。


さぁ!
今、ここで宣言するぞ!!


立ち上がって宣言しようと思ったけれど、バスはまだ走っていた。
そしてわたしはすでに乗るときに大人料金を支払っていた。


ここで宣言すれば、運転手は混乱するだろう。


運転手を混乱させるなんて、なんて大人げない行為なんだ。