共有生活

西友で買った自転車に乗って、西友に行った。
店頭には、自転車が並べられ、売られていた。
前にわたしもそこから買った。


それとは別に、客が乗ってきた自転車も並んでいた。


店頭は、「自転車売り場」兼、「自転車置き場」になっていた。


わたしと同じ型の自転車が売られていた。
わたしと同じ型の自転車が自転車置き場に止められていた。


西友で買った自転車を西友に乗って来る人は、案外多いようだ。


店内に入って、タオルを買った。
『ホテルで使用されているタオルをご家庭用にそのまま織り上げました』と書かれた590円のバスタオルを、1枚買うか2枚買うか悩んでいたら、すっかり時間が経ってしまった。


自転車置き場に戻った。
わたしが自転車を置いたはずの場所に、同じ型の自転車が置いてあった。
それがわたしの自転車であると考えるほうが、自然だ。
でも、違うかもしれない、と思った。
錆が増えているように見えた。


置いた場所は確かにそこだ。


やっぱりこれがわたしの自転車なのだろうか……


いやいや、違う。
たぶんこれは同じ型ではあるけど、他人の自転車だ。
この自転車の持ち主も、西友で自転車を買ったのだろう。
わたしと同じように、名前を書かずに乗っていたみたいだ。


西友に来ている人たちで、自転車を共有しているということはあり得ないだろうか』


考えてみた。


隣の奥さんが家の前に止めている自転車は、昨日は向かいの家の奥さんが自分の家の前に止めていた自転車であり……


元は西友で売られていた自転車が、今では、たくさんの人に共有されている。
自転車が入れ替わる場は、当然、西友である。


あながち、あり得ないとも言えない。


その証拠に、ファミレスのケチャップは共有である。
スパゲッティーを頼んだときに、店員がテーブルの上に置いて行く、タバスコと粉チーズも共有である。


さっきまで、別のテーブルのおじさんが使っていたケチャップが、今度は、(一度厨房に引っ込めた後)わたしに渡される。


「お父さん、ちょっとケチャップ取って」
「うむ。ほれ、使いなさい」
といった、娘と父のやり取りみたいだ。


わたしは強制的な共有から逃れるため、自転車に名前を書くことにした。


我ながらいいアイデアだ、と思った。


「この錆の多い自転車は、結局誰が買ったものなんだろう」という考えが一瞬頭を過ったけれど、気にしないことにする。