行き倒れたい

最近よく、「行き倒れたい」と思う。


その考えが始まったのは。大雨の日だった。
わたしは、駅前の100円ショップに向かって歩いていた。
帰宅ラッシュの時間と重なり、駅方向に向かって歩く人はたくさんいた。
皆、スタスタ歩いていた。
わたしも途中まで、スタスタ歩いていた。
でも、もう少しで目的地に着く、というところで、歩くのが面倒になった。


傘を差しているのに、なぜか体の前面ばかりびしょ濡れだ。
雨の降ってくる方向に向かって傘を傾けるということを忘れていた。
今さら傾けたところで、もうどうしようもない感じに、びしょ濡れになっていた。


傘を投げ出し、アスファルトの上に大の字に寝たら楽だろうなぁ、という考えが頭に浮かんだ。
そう考え始めたら、周りを歩く人たちが誰も、傘を投げ出し、道ばたに転がっていないことが不思議に思えた。


『偉いなぁ』と思った。
『皆、雨で歩き辛くても、ちゃんと歩いている』


そして、わたし自身も、頭の中に「行き倒れたい願望」があるにしても、実際はちゃんと歩いている。


他人から見たら、わたしも偉いのかもしれない。


その日以来、晴れていても、歩くのに疲れてくると、同じことを思う。


『行き倒れたい』
『行き倒れずに歩いているわたしは偉い』
『いや、本当は行き倒れてもいいんじゃないか』
『そもそも、疲れても道端で転がらない、日本人の国民性がおかしいんじゃないか』などなど。


別に、路上で生活したいわけではない。


行き倒れたいときに行き倒れられる、そういう自由な社会が、今、求められているのではないか。


誰に?


わたしに。