わたしは幸せです
昨夜は30分間髪をとかし、今日は1時間髪をとかしました。
髪をとかしながら、天才に言いました。
「やっぱり今度のライヴ、行くのやめる」
昨夜、一緒にライヴに行こうという話をしていました。
わたしは、もうすぐやってくるライヴの日を思うと、わくわくしました。
わくわくしながら布団に入り、わくわくわくわく、ライヴのことを考えました。
そこで突然布団から飛び起き、髪をとかし始めました。
天才と一緒に出かけるということは、「いつものあれをやられるんだ……」と、憂鬱になりました。
「いつものあれ」とは、一緒に道を歩いているときに、天才が突然立ち止まり、わたしの髪を押さえつける動作のことでした。
「髪、はねてる?」と聞くと、「少し」と答え、掌でわたしの髪を押さえつけ、ヘアーアイロンの代わりにしました。
そのたびにわたしは、「あぁ、直毛に生まれたかった。っていうか、縮毛矯正するべきなんだろうか。きっと天才は、髪のはねたわたしと一緒に歩くのが恥ずかしいんだ」と、悲しい気持ちになりました。
だから今日、「ライヴだけじゃなく、天才とはもう出かけない」と宣言しました。
天才は理由を尋ねました。
理由を話しました。
「わたしの髪がはねてるから」と話しました。
「掌ヘアーアイロンされるのが嫌だから」と話しました。
そしたら天才は、「それは髪を直そうとしているんじゃなく、頭を撫でているんだ。いい子いい子してるんだよ」と言いました。
わたしはそれを聞いて、「ウソだ!詐欺師!だまされないぞ!死ね!」と天才を罵りました。
「君もよく俺の頭を撫でるじゃないか」
天才がそう言ったので、わたしはちょっと口篭りました。
それは……
「それは、天才に髪が生えてくるように、おまじないをかけていたんだよ」
天才はわたしの言葉を聞いたあと、数歩後ずさり、椅子に力なく腰掛けると、貧乏ゆすりを始めました。
『貧乏ゆすりは、ここにいたくないっていう意思表示なんだ』と、何かの映画の誰かが言っていました。
……天才は、スキンヘッドです。
なんでスキンヘッドなのかについては書かないけれど、事実、スキンヘッドです。
わたしは天才の頭をしょっちゅう撫でているけれど、それはスキンヘッドだから撫で心地が良くて撫でているわけではありません。
たぶん天才がドレッドでも、パンチパーマでも、七三でも、しょっちゅう撫でていたと思います。
それにしても、すれ違いとは怖いものです。
わたしは2年間くらい、天才に頭を撫でられるたび、髪のはねを直されていると思っていました。
きっと今日から2年間、天才はわたしに頭を撫でられるたび、おまじないをかけられていると思うのでしょう。
勘違いを正すことは簡単です。
「さっきのは冗談だよ。ごめんね」と謝ればいいのです。
でも、この先、幾度も勘違いやすれ違いが起こるでしょう。
それをひとつひとつ正すことも、確かに大切なことかもしれません。
でも、いくつかの勘違いがあっても、2人の仲は壊れない……、ただひとつ、これさえあれば!
……的な、「これ」があるとないとでは、安心感が違います。
わたしたちには、「これ」があります。
「これ」、すなわち「スパーリング」です。
ちなみにわたしには格闘技経験がありません。
天才は空手白帯です。
そんなわたしたちは、最近毎日のように部屋でスパーリングをしています。
「天才にやられたー」と、DV被害者みたいに脛を数ヶ所、青紫に腫らしていることは、日常茶飯事です。
それを冷水のシャワーで冷やし、ついでに滝に打たれるように背中からシャワーを浴び、「これで皮膚が強くなる、打たれ強くなるぞ」とほくそえむのも日常茶飯事です。
今回は、わたしが1時間も髪をとかし、天才に悪態をつくくらい脳の調子が変だったので、いつものスパーリングと違い、天才からの反撃はなしで、わたしに一方的に攻撃させてくれるということでした。
最初は遠慮がちに。
だんだんと強く。
最後には「死ねー」と叫びながら、天才に殴る蹴るの暴行を加えました。
しかし、白帯とはいえ、天才は空手道場に通っている身……、ほとんど払われてしまいました。
そのうえ、「そんなんじゃ殺せないぞ」「殺すつもりで」と煽るので、ムカついてきました。
ムカついたので、「体の中心にあるところは、みんな急所だ」と、天才に教わったとおり、急所ばかり狙いました。
そしたら、1発、天才の鼻をかすめました。
かすめただけだと思い、尚も顔面を狙い続けていたら、天才にタイムと言われました。
天才の鼻から、ツーッと血が流れてきました。
天才は、ティッシュを鼻に詰めると、「まだまだー」と言いました。
でもちょっと動揺したのか、動きが鈍くなっていたので、蹴るフリをして、鳩尾を殴りました。
天才は、「ケホッ」と言いました。
スパーリングをしたら、些細な悩みなど、一気に吹き飛びました。
この間、ずっと会ってない叔母から手紙が来て、その手紙には、「いま、幸せですか?」と書いてありました。
わたしは、「引っ越しました。猫が欲しいです」と、全然キャッチボールになってない返事を返しました。
「あぁ、これが幸せっていうのかもなぁ」と、ティッシュの箱の前にしゃがんで、鼻にティッシュを詰め替える天才を見て、思いました。