世界は開ける

わたしには友達がいません。
夫以外に話し相手がいません。
だからいつも、愚痴は夫に聞いてもらい、ワイドショーネタも夫に話し、街で見かけた猫の話も夫にします。
『それが負担だったんだろうなぁ、だから風俗にも通うんだろうなぁ』
そう思い、わたしは友達を作ることにしました。


友達とまでいかなくてもいいんです。
人とのふれあい……、「人ってなんて素晴らしいんだろう」
そんな出会いと新たな感情獲得のためにわたしは街へ出ました。
行った先は池袋です。
池袋は人がたくさんいます。
ふれあうには絶好の場所です。
そんな池袋で、ウイークリーマンションに泊まりながら、今回の目的を達成する予定です。


たとえばこんなふれあいがあるでしょう。
「ハンカチ落としましたよ」と、池袋らしい、きれいな服を着た女性がわたしにハンカチを差し出します。
わたしは自分のハンカチじゃないんだけど受け取ります。
「ありがとうございます」
「いえいえ。それよりそのハンカチかわいいですね。どこのブランドですか?」
アナスイって書いてありますね」


もしかしたら、こんなトラウマ解消的再会だって、あるかもしれません。
「あー、君は中学のときのクラスメートじゃないか。あの頃は随分辛い思いをしただろうけど、今では元気そうでなによりだよ」
「そういうあなたは、野球部だった山田君。あなたもあの頃わたしのこと嫌って……。でもそれも過ぎたことね」
「ああ。遠い昔のことだよ」
「それじゃ」
「おー。」
「元気でな」
「元気でね」


期待を胸に、気付くとわたしは……


おじいさんを尾行していました。


始まりはサンシャイン60の前でした。
わたしは道に迷っていました。
街の地図看板を見ても、ウイークリーマンションのホームページから転送したケータイの地図画面を見ても、どっちに行ったらいいのかわかりません。
ネットで予約したチェックインの時間も、刻々と迫っていました。
フロントに電話して道を訊く、という方法も考えたけれど、わたしは電話が苦手です。
電話克復は、また次の機会に取っておこうと思いました。


だから今は、街行く人に道を訊くしかありません。
これぞ神様のくれたチャンスかもしれません。
神様は、わたしが人とふれあうきっかけをくださったのです。


あたりを見回すと、ちょうどいい具合にシルバーポリスの方を見付けました。


『わたしはシルバーポリスと会話をするぞ!
そこから人とのふれあいの素晴らしさを学ぶぞ!


いざ!』


わたしがシルバーポリスに話しかけようとしたそのとき、青いハンチング帽をかぶり、青い傘を手に持ったおじいさんが、わたしの狙っていたシルバーポリスに話しかけました。


「豊島郵便局には、どう行ったらよいですか」


わたしはその言葉を聞いて、『あー!!』と思いました。
『わたしもわたしも。わたしも豊島郵便局方面なんです。そのさらに先にウイークリーマンションはあるはずなんです』


そう、心の中でシルバーポリスと、青いハンチングおじいさんに語りかけました。


そして熱心にシルバーポリスの道案内を聞くおじいさんの傍で、わたしも密かにうんうんと頷きながら聞いていました。
でも途中で気付きました。
『覚えきれないし、どうせ同じ道を行くのだから、このおじいさんの後を付いて行けばいいんじゃないか』と。


そうして、わたしによる、おじいさんの尾行が始まりました。
おじいさんは、青い傘をステッキのように揺らしながら、ゆらりゆらりと歩いていました。
どうやら、街の景色を楽しみながら歩いているようです。
だから歩くのがとても遅いです。
気を抜くと追い越してしまいそうです。


『もう。しっかり歩いてよ。尾行がうまくできないじゃないか』
そう思ったところで、『もしかして、わたしが後を付けていることをおじいさんに知られたところで、なんら問題はないんじゃないか』と気付きました。


「さっきから後を付けてるようですが、何かご用ですか」
わたしはくるりと振り返ったおじいさんに訊かれます。
「いえいえ、実はあなたとシルバーポリスの会話を聞いていて、同じ方向のようなので、付けさせてもらってただけです」
そう、毅然とした態度で答えます。
するとおじいさんは言います。
「そういうことだったんですか。それなら、旅は道連れ世は情けとも言いますし、会話でもしながら一緒に歩きましょう」


これぞ、ふれあいです。
でも、ふれあうには、時すでに遅し、といった感がないでもありません。
もう散々後を付けて来てしましました。
こんなに無言で尾行した後では、もはやふれあうことは不可能でしょう。


だから、おじいさんとはテレパシーでふれあうことにしました。


『あぁ、今日はいい天気だなぁ』
長いこと後ろを歩いていたため、わたしには、おじいさんの心の声が聞こえるようになっていました。
その声に勝手に答えます。
『ほんとですね。これが秋晴れっていうんですかね』
『おぉ!休むのにちょうどいい公園があるじゃないか。帰りに寄って行こう』
『そうです。くれぐれも帰りにしてくださいね。今寄られると、ウイークリーマンションのチェックイン時間に間に合わなくなって困ります。できればもう少し急ぎめに』


わたしはテレパシーによるおじいさんとの会話、ふれあいに満足し、今回の『3泊4日池袋ふれあいの旅』の目標は達成できたよな充実感を味わいました。
そんな充実した気分のところへ、見知らぬ女性が話しかけてきました。
年はわたしより少し下の、20代前半といったところでした。
大人しそうな女性です。


『この人となら友達になれるかも』


さっきまで、テレパシーによるふれあいで満足していたのに、いっきに、「友達を作る」という最終目標まで、意識が飛びました。


「みなさんに読んでもらいたい本があって、お配りしているんです」
そう言って彼女は、茶封筒を差し出しました。
わたしは彼女の差し出した封筒を受け取りながら、訊きました。
「ほんとにもらっちゃっていいんですか」
彼女は「はい」と笑顔で答えました。


場所は池袋です。
池袋には同人誌を売っている本屋がたくさんあると聞きます。
この女性はきっと、自作の同人誌をみんなに読んでもらいたくて、でも、売るにはまだ自信がないから、こうして街で配っているのでしょう。


なんて謙虚な人なんだと思いました。
謙虚な人はわたしを傷付けません。
わたしはますます彼女と友達になりたくなりました。


「わたしのメールアドレスも書いてあるんで、よかったら感想聞かせてください」


そうして彼女は笑顔のまま、わたしの傍を離れていきました。


わたしは封筒を手にし、にこにこ顔で辺りを見渡しました。
おじいさんの姿は、いつの間にか消えていました。
目の前に郵便局が見えました。
おじいさんは無事に目的地にたどり着けたことでしょう。


『ここからは1人で行けます。寂しいけれど1人で行きます。いや、わたしは1人じゃないんです。彼女との絆がこの胸に。この胸に……」


胸に抱いた茶封筒の中から本を取り出そうとしました。
早く見てみたいと思いました。
友達のことを早く知りたいと思いました。
でも、まだ彼女がすぐ後ろにいるはすです。
こんなにすぐに見たら、はしたないと思われるかもしれません。
せっかく友達になれそうな人に、嫌われてしまっては困ります。


10メートルほど歩き、『そろそろ見てもいいかな』と、封のされていない封筒に手を入れました。


わくわくしました。


『どんなだろう。どんなだろう。わたしの未来の友達は、どんなマンガを描く人なんだろう。
たとえ好みに合わなくても、ちゃんと最後まで読もう。
隅々まで読もう。友達のことを理解しよう。
それに、ウイークリーマンションの中は退屈だから、読み物がもらえてちょうど良かった。
こんなタイミングでマンガをくれるなんて、なんてありがたい人なんだ。
これぞ友達だ!』


そうしてドキドキしながら取り出した本のタイトルは、『日蓮聖人に背く日本は必ず亡ぶ』でした。


マンガではありませんでした。
彼女の自作でもありませんでした。


封筒の中に本を戻し、封筒の表、裏と確認すると、宗教団体の名前とともに、彼女の名前とメールアドレスが書いてありました。
かわいらしい女の子のイラストが手書きで描かれ、イラストの女の子は吹きだしで「ご意見ご感想お待ちしております」としゃべっていました。


わたしは日蓮聖人を胸に、再び歩き出しました。
歩き出したけれど、またすぐに道に迷いました。
駅前を離れたため、もうシルバーポリスも見当たりません。
地図看板とケータイの地図画像を見て1人で頑張るしか、わたしには方法がありません。


「えーと。目の前に小学校が見えるから、わたしのいるのはここで」
と呟きながら地図看板を指で辿ったり、覗き見防止シートを貼ったせいで陽の光が強いと真っ暗に見えるケータイ画面を透かしたり手で覆ったりしながら、道順を考えました。
順調にいけば3分でたどり着けそうところにいるのは確かなのに、右へ行けばいいのか左に行けばいいのか、かわかりません。
へたに歩くと、余計遠ざかってしまういそうな気がしました。
チェックイン時間まで、5分を切っています。


意を決して、ウイークリーマンションのフロントに、電話をかけることにしました。
その前に深呼吸をしました。


深呼吸したら、咳き込みました。
『あと5分でたどり付けるだろうか』という焦りと『チェックインに遅れたら怒られるんじゃないか』という恐怖から喉はカラカラに渇き、それに『電話が繋がって第一声が掠れでもしたら恥ずかしい』という神経症から、わたしはゴホゴホ咳き込みました。
日蓮聖人の本を口元にあてがい、咳き込んでいると、目の前をわたしと同年齢くらいの男性が通りかかりました。
地図看板を見たそうに覗き込んでいたけれど、わたしがいて咳き込んでいるせいか、すぐに通り過ぎて行きました。


『ごめんなさい、地図看板を見たかった人……』
そう思いながら再び深呼吸をして、ケータイの発信ボタンを押しました。
ダイヤル音を聞きながら、数度深呼吸をしていると、後ろから誰かに声をかけられました。
さっき通り過ぎた、地図看板が見たくて見られなかった男性でした。
どうやら戻ってきたようでした。


「大丈夫ですか。どちらに行かれるんですか」
とやさしい笑顔でわたしに言いました。
たぶん、わたしが宗教団体の名前の書かれた封筒を持って、ひどく咳き込んでいたものだから、不治の病だと思ったのでしょう。
「どこに行かれるんですか」と訊きつつ、病院に連れて行ってくれる気まんまんだったに違いありません。
なぜかユーミンの「卒業写真のあの人はやさしい目をしてた」という歌声がわたしの脳内バックミュージックとして流れました。
わたしたちの姿は、当然スローモーションです。


『これぞ出会いだ!ユーミンの歌は別れの歌だけど、これは出会いだ!ただ、この人はそのくらいやさしそうな人なんだ』


出会いを喜んでいた瞬間、電話口から「ウイークリーマンション東京です」という、無機質な声が聞こえました。
わたしは、「はっ!」という顔で一時停止しました。
早くもわたしたちに別れが訪れました。
わたしはやさしい男性に会釈をし、彼も不治の病のわたしが電話中と気付き、会釈をして去って行きました。


そして、ウイークリーマンションの人から聞いたとおり歩いたつもりが、もう何度目かわからない迷子になりました。
さっきの男性が恋しくなりました。


『さっき道教えてくれるって言いましたよね。お願いだから、今教えてください。もう1度チャンスをください。わたしを見つけてください。目印は日蓮聖人です』
そう心の中で叫び、辺りを見渡しても、彼の姿は見当たりませんでした。


代わりに、江ノ電が見えました。


江ノ電が見えたとき、ぱーっと世界が開けたように感じました。


『明日あれに乗ってどこかへ行こう。人と話さず、ただ景色を眺め、人も景色と同じように眺め、江ノ電に揺られよう』


人とのふれあいを思うより、ワクワクした気持ちになりました。