風呂、こわい

風呂で頭を洗っていると、「ぎゃーーーーー」と叫んだり、石鹸置きやシャンプー、リンスの容器などを手当たりしだい投げたりする奇病にかかったので、天才が一緒に風呂に入ってくれました。
「大丈夫か?怖くないか?髭剃りを取りに、俺は一瞬いなくなるけど、何かあったら呼ぶんだぞ」
そんな天才の優しい言葉を聞いていて、気付きました。


『あ!これ、介護だ』と。


何か話しながら頭を洗っていれば、話に集中して、嫌な考えが頭に浮かぶこともありません。
だからわたしたちは一緒に風呂に入り、話をしました。


わたしは頭をゴシゴシ洗いながら。
天才は湯船に浸かりながら。


10代の頃、村上龍の影響で内股に蝶の入れ墨を入れたいと思っていた、という話をしたら、「90歳になって介護の人に風呂に入れてもらうときのこと考えろよ。洗うほうも洗われるほうも嫌だろ。ちゃんと考えて行動しろよ」と天才に叱られました。
ちゃんと考えて行動する人間ではなかったけれど、その後、好きな作家が村上龍から村上春樹に変わったので、結局、入れ墨は入れませんでした。


「わたしは村上龍が好きだったんです。
でも心変わりをしたんです。
だから内股に蝶の入れ墨がないんです。
蝶の入れ墨は・・・・・・
えっと、何の話でしたっけ。
何の話をしていたか、忘れてしまいました。
でも、別に何の話でもいいんです。
こうして話していると、叫び出さずに済みますから。
あー、20代の頃も、介護をされながら、同じ話をしたような気がします。
でもおかしいですね。
20代じゃあ、介護されてるはずないですものね」


90歳になったわたしは、介護の人にそんな話をします。