どん底・靴底

思春期の頃、「自分のことを自分でかわいいと思ってる私」を演じることを覚えました。
化粧をするとか流行の髪形にするとかではなく、「かわいい私」としてただ振る舞うだけです。
簡単です。


だけど、どうしようもなく性格が悪いため、一部の男子には影で「ブス」と罵られ、嫌われていることを知っていました。
わたしは好きな人を好きだと誰の前でも言うので、隣のクラスの男子を好きだという話を誰かにしたら、本人がわたしのクラスまで見に来ました。
「かわいいじゃん」という彼に対して、同じクラスの男子は「げー! ブスじゃん」と一言吐き捨てるように言いました。
それでもわたしは、教室の床の上を上履きでくるくる回って、制服のスカートを傘みたいにして遊びたいくらい嬉しかったのです。
というか、その前に、そういう遊びを唯一の友達、ヒロコちゃんとしているところを目撃され、「かわいいじゃん」と言われたのでした。


またあるときは、わたしとヒロコちゃんが「今日は七夕だから校庭で笹取ってから帰るね」(もちろん私の提案。ヒロコちゃんは本当は社交能力も常識もあるふつうの子。付き合わせてごめん、今さらだけど)と先に帰ったのをいいことに、部活の女子たちが、わたしの悪口大会を始めました。


「笹、けっこう取れたから、もうそろそろいいんじゃない」とヒロコちゃん。
「いやいや、まだ足りないよ」とわたし。


みんなが話しているテニスコート近くの、ふだん荷物置き場として使っている場所のすぐ近くで、ヒロコちゃんとわたしは、これでもかというほど笹を取りました。
笹の背丈はけっこう高かったし、わたしたちがそんなに近くで笹を取っているとは、誰も気付かなかったようです。


いよいよ悪口大会が白熱してくると、ヒロコちゃんは「帰ろうよ」とはっきり言いました。
彼女は、わたしが傷つかないよう配慮してくれる、とても優しい子でした。


それでもわたしは「聞きたいよ〜」と、まだ笹を取りながら立ち聞きをしました。
ヒロコちゃんも、気まずそうに、そしてもう笹はいらないのか、棒立ちのまま立ち聞きに付き合ってくれました。


話の主題はどうも、「わたしの好きな男子がころころ変わる」というものでした。
「今度は小松くんだって聞いたよ。たいしてかわいくないのに、よく人前で言えるよね」


それを聞いて、わたしは「帰ろう」とヒロコちゃんに言いました。
ものすっごい笑顔で言いました。


『たいしてかわいくないのに……
たいしてかわいくないのに……


ってことは、少々かわいいってことじゃん!


やった!!


女子にも認められたよ。
わたしの、かわいく見られよう作戦成功してるよ』


昔も今も、鏡を見れば、自分の顔が10人並のふつうの顔だということがわかります。
だけど、『ふつうだと思うのに、なんで「ブス」とか言われちゃうのかなぁ』って悩んだり、姉が顔も性格もよくて小学生の頃からずっとモテモテだったり……
これは、拒食症とか過食症、はたまた登校拒否にならないために、わたしなりに編み出した防御法だったのです。


それがいまでも自然に身に付いていて、この方法は一見、精神を保つのにいい方法に見えるけど、他人から絶えず「かわいいよ」と言われ続けてないと、簡単に精神が崩壊する、もろい方法なのでそろそろやめなくてはなりません。


そうじゃないと、朝から巨大ビーズクッションを蹴りながら号泣することになります。
さっき号泣しました。


「かわいいよ」に限らず、「好きだよ」「愛してるよ」と他人から言われ続けてないと精神が保てない、自分ではかわいいとも人に好かれてしかるべき人間とも、ましてや愛されるとも思っていない、これが問題なのだと思います。


精神科医の岩月先生、なんとかしてください。
先生の著書、どれを読んでも、父親が悪いとか、母親の呪いだみたいなことしか書いてなくて、解決法が見つからないのは、わたしの読解力が足りないせいですか。
そもそもテーマの違う本をわたしは選んで読んでるのですか?
先生ご自身のおすすめはどれですか。


届かない声を発している場合ではありません。
書いた時期が前後しますが、金曜日にわたしが書いた話は否定してませんよ。
明るく振る舞えば、人から明るい人として接してもらえる、いいことです。


「明るい人として接してもらえなければわたしには価値がない」……その考えに行きつくと、ビーズクッションを蹴るようになるのですね。


(ものすごく架空の)みなさん。
名前を付けてかわいがっているビーズクッションを蹴ったりしないよう、がんばりましょう。