長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)2/4

(六章から九章まで) 
六章 もう疑わない! あなたが夢原さん


 夢原さんに連れられ、チェーン店の喫茶店にやって来た。またしてもセルフサービスのお店だ。
「なんか文句あるか」
 向かいに座る夢原さんに怒られた。
 わたしは返事をしない。
 目も合わせない。
 ずっと下を向いている。
「君が落ち込む気持ちもわからないでもない」
 夢原さんが言った。
 まったくの見当違いだ。
 落ち込んでいるわけじゃない。
「どこの馬の骨ともわからんやつのサイン会に並ぶ気持ちもわかる」
 何がわかるっていうんだ。
 無闇矢鱈に現れて!!
 前に会ってから、数時間しか経っていないのに……
 永遠の思い出にしようとしてたのに……
 「君の前に俺が現れてしまったことに関しては、申し訳ないと思っている。なにせ、今まで君が拠り所としてきた夢原。あいつよりもはるかに才能のある人間がここに存在するってことを、はからずも君に知らしめることになってしまったんだからな」
 夢原さんが、咳払いをひとつした。
 そのあと、アイスソイラテの入ったグラスを右手に持ち、足を組みながら横を向いた。
 その動作が、あまりにぎこちなく、「ロボットみたいだ」と思った。
 今度は、わたしが夢原さんのことを見て、夢原さんがわたしを見ない。
「で、どうだった?」
 横を向いたまま、訊いてくる。
「何がですか?」
「何がって、決まってるだろ。手帳に書いてあった大量の詩だ。……いや、もちろん、君に聞かないでも充分わかっている。俺に才能があるってことは俺自身、自覚したくなくても日々自覚させられている」
 わたしはストローから紙をはがし、カフェラテの入ったグラスにさした。
「で、どうなんだ?」
 質問に答えないわたしを夢原さんが見る。
「おい! 君はコーヒーが苦手なはずだろ。なんでカフェラテなんて飲もうとしてるんだ」
 ストローからいっきにカフェラテを吸い込んだ。
 苦い。
 苦しい。
 だけど、負けてなるものか。
 わたしは今、闘っている。
 敵が夢原さんなのか、他の何かなのかはわからないけど、この闘いに勝たないと、わたしはだめになってしまう……
 そんな気がする。
 カフェラテを全部飲み干した。
 夢原さんが、組んでいた足を崩し、椅子の背もたれごと、後ろにのけ反った。
 怯んでいるように見えた。
 だけど、ここからが本当の勝負……
 きっと。
 だから、きっぱりと言う。
 夢原さんの目を見すえ、嘘偽りのない事実を言う。
「読んでません」
「……」
 夢原さんの目が泳いだ。
「なんでだ。それが本当だとしたら、君の数々の奇行、あれはどう説明がつく。死んだような目で入って行った旅行案内所。ティッシュ配りの女性への体当たり。チャラチャラした男との泣きながらの押し問答。つまらない作家のサイン会への参加」
 全部見られていた。
 ということは、紀伊国屋書店でたまたま見つけられたんじゃない!
 ずっと後を付けられてたんだ。
「なんでそんなことをするんですか?」
 夢原さんの目はさらに泳ぎ、目だけでなく首も上下左右にせわしなく動かしている。
 他の席の何人かが、その様子をちらちら見ている。
「たまたまだ。たまたま同じ電車だったんだ。たまたま……たまたま……偶然……だ!!」
「わたし、下りから上りに乗り換えましたよ」
「俺は上り電車に乗るつもりで、ホームで電車を待っていた。そうしたら、先に帰ったはずの君が同じホームにやってきた」
 ……そんなにずっとわたしを付けていたのなら、わたしが一度も手帳を開いていないことは、よく知っているはずだ。
「同じ電車だったけど、同じ車両には乗らなかった」
 夢原さんは、せわしなく動くのをやめ、やっと静止した。
 だけど左斜め下、自分の太ももの辺りという、微妙な位置で視線を固定している。
「目の前で自分の詩を読まれるのは……才能があることが確実な俺であっても……それは正直きつい」
 わたしは足下に置いていたトートバックを膝の上に乗せ、中から夢原さんの手帳を取り出した。
 それをテーブルの上に置き、開く。
 夢原さんが、邪魔しようと手を伸ばしてきた。
「夢原さんは、わたしに読めって言いました」
 夢原さんの手がぴたりと止まる。
「でも、わたしはまだ読んでません。だから今ここで読みます。わたしの後を付いてきたのだって、感想が聞きたかったからじゃないんですか」
 夢原さんがまた左斜め下に視線を戻し、今度は自分の左手人差し指を噛んでいる。
 そんなに歯を立てなくてもというくらい、思いっきり噛んでいる。
 噛んでいた指を口から離した。指には歯形が付いていた。
「わかった。ここで読め。……いや、読んでくれ」
 わたしは夢原さんの手帳に書かれている文字を読み始めた。
 いつまでも夢原さんだと認めない、夢原さんの詩を。
 メモのような走り書きを。
 時間はかかったけど、手帳に書かれているもの全ての文字に目を通した。
 途中、何度も呼吸が荒くなって、深呼吸をした。
 呼吸困難で倒れるかと思った。
 涙が流れ続け、さっきカフェオレを全部飲み干してしまったことを後悔した。
 このままでは体中の水分が無くなってしまうんじゃないかと不安になった。
 だけど、もっと読みたい。
 もっともっと、読みたい。
 次のページを開くと、その先は、まだ何も書かれていない白紙だった。
「すみません。ちょっと、ちょっとだけ待っててもらえませんか。またここに戻りますから」
 涙を拭って席を立ち、店を出て、新宿駅に向かった。
 そして電車に乗って千葉県の自宅に帰った。
 自分の部屋に置いてある、夢原さんの本、夢原さんの本の広告が載った新聞の切り抜き、夢原さんへの思いでほとんど埋まっている日記帳、夢原さんの住んでるバラック想像図や夢原さんの想像似顔絵を描いたスケッチブック、それらすべてを高校の修学旅行以来使ってなかった旅行かばんに詰めた。
 旅行かばんを持って家を出るとき、もう日は暮れかけ、夕飯どきになっていた。
 玄関先で母に「千歳、そんな大荷物を持ってどこに行くの」と聞かれたから、「ちょっとそこまで」と答えた。
 そして、ふたたび新宿に向かった。
 ……お、重い。

 新宿の喫茶店に戻ってきた。
「お待たせしました」
「待たせすぎだ」
 夢原さんの前には、アイスソイラテのグラスの他に、無料で飲める水のコップが三つ置いてあった。中身はどれも空。
 水のコップは三つも使わないで再利用したほうが店員さんのためにいいと思う。
 そう思ってグラスを見ていたら、夢原さんが空のグラスを重ねた。
 アイスソイラテのグラスだけは、形が違うから重ならず、諦めたように手を引っ込めた。
 わたしはその上に、置きっ放しにしていったカフェラテのグラスを重ねた。
「どこまで行ってたんだ」
「すいません。ちょっとそこまで行ってました」
「そこって……。軽く一時間半は待ったぞ」
「なんでそんなに待つんですか」
「それは、君が……」
 ……わたしが?
「俺にとって」
 ……夢原さんにとって?
「最初の読者だからだ。俺は今まで、自分の書いたものを人に見せたことがなかった。見せる相手がいなかった。いるにはいるが、両親に見せても仕方がない」
 ……そうかぁ、わたしが最初だからなんだ。
「失礼だが、君に特別な審美眼があるようには見えない。だけど、初めて人に読んでもらい、感動してもらえた。……少なくとも俺にはそう見えた」
 ……わたしじゃなくても良かった?
「正直、君じゃなくても良かった。誰でも良かったんだ。他人の感想が聞いてみたかった。こんな失礼な男で申し訳ない」
 これは、わたしの夢原さんに対する思いと全く変わらない。
 短大を卒業するまで、これと言って悩みもなかった。
 ふつうに働けると思っていた。
 でもどこの会社の面接も受からなかったし、バイトをしてもいじめられたり、クビになったりした。
 気付いたら、同じ年頃の子たちには友達もいたし彼氏もいて、わたしにはいなかった。
 いろんなことに気付いたとき、夢原さんの詩に出会った。
 ただのタイミング。
 だけど、わたしはそれを偶然と認めるわけにはいかない。
 特別な存在が、消えてしまう。
 ここで、夢原さんじゃないとしつこく嘘を付くこの人の言うことを信じ、夢原さんより感動的な詩を書く、誰だかわからないこの人に惹かれてしまったら……
「わたしにとって、誰も特別じゃなくなっちゃう!」
「な、なんの話だ。俺は君に詩の感想を……」
「夢原さんも、あなたも、特別な人は誰も存在しなくて、わたしはひとりぼっち!」
「……」
「そんなの嫌です。これを見てください」
 旅行かばんのチャックを開け、中から夢原さんグッズをひとつひとつ取り出し、目の前の人に見せる。
 今となっては、夢原さんと呼んでいいのか、なんと呼んでいいのかわからない、目の前の人に見せる。
「これが夢原さんの処女作。これが二作目。それから三作目。どれもシンプルな装丁が素敵ですよね。もう一冊の新刊は、万引しました。初めての万引です。しかも、ひとの自転車のカゴの中に捨ててしまったから、ここにはありません。あと、それから……」
 旅行かばんをテーブルの上で逆さにして揺すり、中身を全部テーブルの上に広げた。
 狭いテーブルに乗らず、ほとんどが床に落ちた。
 夜になり、客はご飯の食べられるファミレスに流れたのか、軽食しかない喫茶店は空いていた。
 でも隣の席には本を読んでいるキャリアウーマン風女性がいた。
 かばんから飛び出したスケッチブックが、その女性の黒いパンプスに当たった。
 拾って、手渡してくれた後、彼女はそのまま店を出て行った。
「これが全部です。少ないけど、仕方ないんです。全部集めたのに、これしかないんです。夢原さん、有名じゃないから」
「……」
「感想が、聞きたいんでしたよね」
「あ……あぁ。悪いがお願いしたい」
「夢原さんはすごいです」
「夢原への気持ちはもうわかった」
「夢原さんは素晴らしいです」
「だから夢原は……」
「その手帳に書いてあった夢原さんの新作……」
「……」
「本当に素晴らしいと思いました。今までの何十倍も感動しました。まったくの別物といっても過言ではありません」
「まぁ、別人だからな。俺が夢原なんかより才能があることがわかっただろ。そういう率直な意見がほしかったんだ。ところで、君にお願いがある。……って、なんだその怖い顔は?」
「それがもし、夢原さんの書いたものでないなら……わたしは、それらの詩になんの興味も持てません。持っちゃいけないんです」
「俺は君に、新しい詩ができるたび、読んで感想を聞かせてほしい」
「いいですよ。あなたが夢原さんなら」
「こういった喫茶店、いや、金のかからないところなら、公園でもどこでもいい」
「構いません。あなたが夢原さんである限り」
 目の前の人は黙った。
 ずいぶん時間が経った。
 わたしが千葉に帰っていた時間ほどではないにしても、かなりの時間が経った。
 目の前の人は、動き出し、自分の足下に落ちていた新聞の切り抜きを拾ってわたしに手渡してくれた。
 手渡しながら、唇を噛んでいた。
 何度も部屋で眺めた小さな切り抜き。
 そこにはもちろん、「夢原翼」と書かれている。
 それを受け取った。
「俺は……」
 息を飲んだ。
 今、わたしの希望が完全に失われようとしている。
 それを、目の前の人が発する空気から感じ取った。
 あなたは本当は……
「夢原翼だ! 俺は夢原翼だ。夢原翼として改めてお願いがある。どうか俺の読者になってくれないか」
 頭を下げられた。
 長い髪が、テーブル全体に広がる。
 モップみたいだ。
 その下には、わたしの持参した夢原さんグッズ。
 わたしも頭を下げた。
 たった数センチ下に、夢原さんの処女作と、それに目の前で頭を下げている彼の手帳が見えた。
「光栄な役目をおおせつかり、ありがとうございます……夢原さん」
 精一杯の敬語で答えた。
「わたしの名前は、森千歳です」
 夢原さんはいつまでも顔を上げなかった。
 わたしも、顔をあげて夢原さんの表情を確かめるのが怖くて、夢原さんの本と手帳を、ずっと眺めていた。


 七章 やっぱりバラック


 喫茶店を出るとき、夢原さんはわたしに手帳の一枚目を破いて渡した。
 そのページにはあらかじめ「phon」「address」など連絡先を書き込む欄があって、それに加えて、この手帳を落したときに拾ってくれた人に何ドルあげるか、ということも書けるようになっていた。
「3百万ドルって……」
 夢原さんが持ってるはずないのに。
 その紙を手に、わたしは夢原さんの家の近くの駅前にいる。
 ここが最寄り駅だということは、マンガ喫茶のパソコンで調べた。
 あの、二度も喫茶店で会った日から二週間。
 わたしの連絡先も教えたというのに、夢原さんから連絡はない。
 こちらから連絡するというのも、早く詩を書くよう催促するようで悪い。
 だから……
 連絡せずに来てしまった。
 ちょっと様子をうかがいに。
 ちょっと夢原さんのそばまで来たくて。
 それにしても、この駅は、なんだか見覚えがある。
 チェーン店のハンバーガー屋。チェーン店のケーキ屋。チェーン店のラーメン屋。それに個人経営の寂れたお店が何軒か。
 目の前の踏み切りを渡ったところに、チェーン店の喫茶店も見える。
 あの喫茶店は、わたしが夢原さんに豆乳をかけたところだ。
「あーッ! この駅は!?」
「わーッ! 君は!?」
 後ろから声がした。
 振り返った。
 夢原さんと……
 その横の地面には、夢原さんの落したビニール袋。
 中ではトマトらしきものが液体になっている。
「あは……ははははは。偶然ですね。わたしもちょっとスーパーに行こうと思って」
「スーパーじゃない。俺が行ってきたのは八百屋だ」
 夢原さんがビニール袋を拾った。
 幸いビニールは破けていないようだし、中でトマトが潰れていることに、夢原さんは気付いていないようだ。
 気付いたら、怒られる。
 勝手に来て、驚かせて、トマトが潰れたことについて怒られる。
「……へぇー、このへんに八百屋さんがあるんですか」
 そろりそろりと、隣に立つ夢原さんの後ろに回った。
「最近、八百屋さんも減りましたよね。はは……ははは……」
 夢原さんはまだ、わたしの動きに気付いていない。
 どっちみち、駅まで来たところで、夢原さんに電話なんてできなかったんだ。
 こうしてばったり会えただけで満足だ。
 夢原さんは元気そうだし。
「本当に不便なんだ。前にあった八百屋が潰れたせいで、毎日隣の駅まで歩かなければならない」
 世間話を続けてるし。
 ……あれ?
「わー!! なんで俺は君に世間話をしてるんだ。それより、なんで君は、駅のほうに引き返そうとしてるんだ。何しに来たんだ。来たのになんで帰るんだ。うわッ!
それにトマト潰れてるじゃないか。君のせいだぞ」
「あッ! 夢原さん、踏み切り……」
 警告音が鳴って、遮断機が下り始めた。
「……とりあえず渡るぞ」
 夢原さんが、ビニール袋を揺らしながら、走って踏み切りを渡った。
 わたしもそれに続いた。
 喫茶店を素通りし、そこから五軒くらい先にある、魚屋さんの前で夢原さんは立ち止まった。
 魚屋さんと、にこやかに会話をする夢原さん。
 ……どんな話をしているのだろう。
 聞いてみたい。
 でもだめだ。
 わたしが隣にいたら、きっと夢原さんは、喫茶店のときみたいな険しい表情で、怒ってばかりの夢原さんに戻ってしまう。
 他人のふりをしていよう。
「おじさんねぇ、和夫がこーんなちいちゃいときから知ってるんだよ」
 ……わわわわわッ。おじさん、わたしに話しかけちゃだめだよ。
 他人なんだから。
 それに、「こーんなちいちゃい」と示す大きさは、サンマ一本ぶんくらいしかないじゃないか。
 夢原さん、もしかして……
「未熟児?」
「違う。俺は四千グラム以上もあったそうだ。健康優良児だった」
「そんなことより、和夫って誰ですか? 夢原さん、答えてください」
 夢原さんにかけよった。
 魚屋のおじさんがきょとんとした顔でわたしと夢原さんを見ている。
 話さないわたしたちを見かねて、おじさんが口を開いた。
「和夫、夢原ってあいつのことだろ。あいつ、今では作家先生か。こないだここ通ったけど、声かけても、こっくり頷くだけだったよ」
「おじさん、いくら?」
「あぁ。悪い悪い。邪魔しちゃ悪いな」
「それと、悪いけど、大きいビニール袋、一枚くれないかな」
 夢原さんは、おじさんからビニール袋を受け取り、八百屋のビニール袋の上からそれをかぶせていた。
 目の前にいるのはもう、さっきまでのにこやかな夢原さんじゃない。
 喫茶店で向き合ったときよりも、一段と険しい表情の夢原さんがいる。
「今日はサンマですか?」
 にこやかに話しかけてみた。
「アジだ」
 ……だめだ。
 こんなに怖い声で「アジ」と口にする人になんて、会ったことない。
『夢原さんの本名は「和夫」なのか?』
『本当にそんな平凡な名前なのか?』
『さっきおじさんの口にした「夢原」さんは、この「夢原」さんじゃないのか?』
 訊きたい。
 だけど、とてもじゃないけど、そんな込み入ったことを聞ける雰囲気じゃない。
 それでもめげずに、つとめて明るく、当たり障りのない話からしてみる。
「えーっと……どこに向かっているんですか」
「もちろん家だ」
「家って、あの豪邸……ですか?」
 夢原さんは答えなかった。
 無言で歩く夢原さんの後を付いて歩いた。
「ここだ」
 ……あぁ、なんてことだ!
 この家は二週間前にも見た!!
 やっぱりここだったのか。
 豪邸の住所が掲示板に書かれていたのも、夢原さんが豪邸から出てきたのも、何かの間違いで、夢原さんの家は……
 このバラック!!
「『死後裁きに遭う』って、これも夢原さんの詩ですか?」
「違う。貼らせてくれって頼みに来たから貼らせてやってるだけだ。それにしても、頼みに来たやつは、仕切りにこの家の素材を褒めていたな。トタンを褒められるなんて初めてのことだ」
 夢原さんは、鍵を開ける動作もなしにドアを開けた。
 家全体が軋んだ。
「おじゃまします」
 夢原さんのあとに続いて玄関に入ろうとした。
「わー!? 何が『おじゃまします』だ。おじゃましていいなんて、ひと言も言ってないだろ」
「わたし、バラック大好きです」
「人の家をバラック呼ばわりするな。好きだからって勝手に入るな」
 ……あの豪邸、表札だって「夢原」じゃなく、金持ちそうな変な名字だったし。
 本当によかった、間違いで。
「ところで、このうちの表札はどこですか?」
 玄関の中に夢原さんを押し込み、ドアを閉めた。
 ドアの右隣に表札はあった。
「山田……」
 ……山田……和夫……が……
 夢原さんの本当の名前?
 そうか。夢原翼っていうのは、ペンネームなんだ。
 きっとそうだ。
 べつにこの夢原さんが、「夢原翼」とは赤の他人で、ただの「山田和夫」ってことが証明されたわけではない。
 表札なんて……
 表札から、目をそらした。
 ドアをそーっと、開けた。
 夢原さんはすでに玄関にはいなかった。
 これが、夢原さんの家の玄関。左側には木製の下駄箱があって、その上に七福神のひとり、布袋様が置いてある。
 布袋様の頭を軽く撫でてみた。
 なんだか御利益がありそうだ。
 布袋様の前に敷かれたレース網の花瓶置きの上に、花瓶は乗っていなくて、飴やらゼリーやら、うまい棒やら、お菓子がたくさん置かれている。
 ……あ! これ欲しい。
「でも溶けてる」
 チョコ菓子の小さな包みを掴んだら、包みがへこんで溶けていることがわかった。
 花瓶置きの上に戻した。
「おじゃまします」
 靴を脱いで、ふつうよりちょっと高さのある三和土の上にのぼった。
 左横の部屋から、夢原さんが現れた。
 ぶつかるとジャラジャラなる、茶色くて丸い木をたくさん繋ぎ合わせた暖簾をくぐりながら。
「入ってくるなと言っただろ。そこで待ってろ。すぐ出るから。喫茶店にでも……」
「でも、もうおじゃましちゃいました。喫茶店はお金がかかります」
 三和土の上に正座したまま、ジャラジャラの暖簾が髪の毛のように見える夢原さんを見ながら言った。
「うッ……それもそうだ。あがれ」
 靴を揃え、夢原さんの後に続いて暖簾をくぐった。
 その先は、リビング……
 というよりも、『居間』。
 六帖くらいの居間には、キッチン……
 というよりも『台所』。
 ──があって、それにダイニングテーブル……
 というよりも?
 えーっと、それよりも?
「あのー、夢原さん。『ダイニングテーブル』をバラック風に言い換えると、なんて言うんですか」
「なんだ、そのバラック風っていうのは!? 別に言い換えなくてもいいだろ。『ダイニングテーブル』は『ダイニングテーブル』だ」
「お願いします。詩人なんだから、言葉の言い換えは得意なはずです。バラック風に言い換えてみてください」
「うッ……」
「あなたは、詩人の夢原翼さんなんですよね」
「ぐッ……折り畳み式……」
 しゃがんで、確認してみた。
「このテーブル、折り畳めそうにありません!」
「あがッ……ちゃ、ちゃぶ……」
「ちゃぶ台は違いますよ。正座して食べるのがちゃぶ台なんです。あ! あれがちゃぶ台ですね。へぇー、奥にも部屋が」
「あぁ……奥は仏間だ」
 仏間というだけあって、畳の部屋に、こじんまりとした仏壇が置かれていた。
 上には、遺影がふたりぶん。
 仏壇の前の平べったい座布団に座り、手を合わせた。
「夢原さんの、お父さん、お母さん、おじゃましてます。さっき布袋様の前にあったチョコをいただこうとしましたが、溶けてるのでやめました。代わりに、このミカンを頂きます」
「勝手に取るな。それに……」
 夢原さんが後ろで何か言っている。
 チーン!
 遺影のお父さんとお母さんは、まだ四十代くらい。
 夢原さんは早くにお父さんとお母さんを亡くし、それ以来この家でひとり暮らし。
 お父さんとお母さんを亡くしたときの夢原さんの気持ちを想像したら、目に涙が滲んできた。
 辛かったですね……
「あれ? 夢原さん? どこですか」
 ジャラジャラと暖簾をくぐる音がした。
 なんだ。何か用事があって、また玄関のほうに行ったんだ。
 夢原さんひとりにしては、暖簾をくぐる音はなかなか鳴り止まなかった。
 仏壇の前に正座したまま振り返るわたしの目に飛び込んできたのは、三人の人。
 ダイニングテーブルの前に並ぶ……
「おじいさん! おばあさん!」
 それに夢原さん。
「ばあさんじゃない」
「あらあら、おばあちゃんでいいのよ。もう七十なんだから」
「母さん、六十六だろ」
「四捨五入したら七十よ。少ないんじゃ困るけど、多めに言っとけば間違いない」
「何が間違いないんだ。六十六は六十六だろ」
 遺影の人は、お母さんじゃなかった!
 じゃあ、夢原さんと、夢原さんのお母さんと並ぶ、ヘリンボーン柄のスーツを着て、落ち着いた雰囲気のこの人は、お父さん?
 仏壇の前から立ち上がり、三人の目の前に立った。
「お父さん、お母さん、はじめまして。おじゃましてます。森千歳と申します」
 右手に持ったミカンを後ろに隠しながら、頭を下げた。
「あ……あの、わたしはねぇ、お父さんじゃあなくて……」
「わたしのボーイフレンドよ」
 夢原さんのお母さんが言った。
 夢原さんのお母さんのボーイフレンドは、お母さんがパチンコで当てたお菓子や煙草の入った袋をダイニングテーブルの上に置くと、「じゃ、わたしはこれで。明日また」言って帰って行った。
「千歳ちゃんっていうのよね。さっき教えてもらったものね。ちょっと来てごらんなさい」
 玄関先でボーイフレンドを見送って、居間に戻ってきたお母さんに仏間に呼ばれた。
 お母さんは、遺影を指差して言う。
「これが、お父さん。わたしの旦那さん。それで、こっちが旦那さんのお母さん。和夫のおばあちゃんね」
「おじいさんはどこにいるんですか?」
「おじいさんはね……」
「今は病院だ」
 夢原さんが口を挟んだ。
 ……あぁ、バラック
 貧乏。
 寝たきりで入院中のおじいさん。
 詩を読んで憧れていた世界が、こうして目の前にあるというのに、お母さんの笑顔を見ていると切ない。
「おじいさん、そんなに悪いんですか」
 夢原さんのお母さんに、おそるおそる聞いてみた。
「全然、悪くないわよ。病院に行けば友だちいっぱいいるから。あっち痛いこっち痛いって理由付けて毎日行くだけ。それが楽しみなの。夕飯の時間になれば帰ってくるわよ」
 ……はぁ、よかった。
 入院しているわけじゃなかった。
「いいから、二階に来い。二階には、じいさんの部屋と、俺の部屋がある」
 玄関まで戻って、そばの階段を昇る。
 急な階段は軋んで……
「夢原さん! わたしもうだめです。怖くて昇れません。それに階段の数をかぞえながら昇るの、くせなんですけど……」
「十三階段で悪いか」
「そうですよね。やっぱり十三段ですよね。十段登って、残りがあと三段しかない……」
「そんなに気になるなら、昇り始める前の床も一段に加えとけ」
 ……あー、そうしておこう。そしたら十四段になる。
「あと、あれだ」
 ……ぎゃッ。
 手すりにつかまりながら、外れそうな階段をおそるおそる登っているというのに、いきなり振り返らないでほしい。
「ダイニングテーブルのことだが……」
「あー、はい。思いつきましたか」
 階段の上。至近距離で振り返る夢原さんを見る。
 真剣な顔付き。
「バ……」
「バ?」
バラック風テーブルだ!」
 夢原さんが背を向け、階段を登りきった。
 わたしは階段を登りきらないまま、その背中を見ている。
 これは、なんとかしないといけない!
 夢原さんには、確かに才能がある。
 それは手帳に書いてあった詩を読んでわかった。
 だけど、このままじゃ、夢原さんはいつまで経っても貧乏なまま。
 お母さんは悲しみに明け暮れ、おじいさんの病は治らない。
 夢原さんには、感動するだけじゃなく、売れる詩を書いてもらわないと。
「夢原さん、このままでいいんですか。家族を悲しませて!?」
 玄関のほうから、夢原さんのお母さんと、おじいさんの笑い声が聞こえてきた。おじいさんが帰ってきたみたいだ。
「悲しんでないぞ」
「夢原さん、お母さんとおじいさんを幸せにしましょう」
「だから、とくに悲しんでも不幸でも……」
「夢原さんに、売れる詩が書けるよう、わたしがお手伝いします」
 階段を引き返した。
 上から「母さんも、じいさんも、じゅうぶん幸せそうだぞ」という夢原さんの声がした。
 わたしは、夢原さんと、その家族の役に立ちたい。
 だから、そんな夢原さんの言葉を無視して、振り返らず階段を下りた。
 ……うぅ、上りも怖いけど、下りはもっと怖い。
 玄関には、靴を脱ぎながら「足が痛いって言ったのに、尻が痛いって聞き間違えられて、尻出せって言われたよ」と話すおじいさんと、大声で笑うお母さんがいた。
 ふたりにお辞儀をして、わたしは夢原さんの家を後にした。
 わたしでも、人の役に立てる。


 八章 みんなで聴こう、夢原さんの詩を


 わたしと夢原さんは、前にチェーン店の喫茶店で約束をした。
 夢原さんはわたしに詩を見せ、わたしはそれを読む。
「でも読みません。読まずに聞きます」
 夢原さんの部屋。ペンギンの絵が描かれた折り畳み式テーブルを挟んで、わたしたちは正座で向かい合っている。
 夢原さんだけ座布団に座り、わたしは直に畳の上。
「俺は『詩の朗読会』なんかには参加しないぞ」
 夢原さんが、わたしがテーブルの上に置いたチラシを持ち上げ、投げ捨てるような動作をした。その後、思い直したのか、投げ捨てずにテーブルの上にまた置いた。
 そのチラシには「マシューズカフェ 毎月恒例『詩の朗読会』」と書かれている。
「参加費無料。誰でもご自由に。ただしワンドリンクはオーダーしてください……って、これ……ただの喫茶店の客集めだろ。素人ばっかりだろ。どうせ頭のおかしな女とか、障害者が不幸自慢するだけだろ。最近は『ユリイカ』まで、そんな詩ばかり載せている」
「『ユリイカ』は知りませんけど、この朗読会は、ちゃんとした会です。明るく素敵な、山口さんだって参加するんです」
「誰だ、山口さんって?」
「山口さんは、マンガ喫茶の店員さんです」

 前に夢原さんの家に来た翌日、つまり昨日、わたしは家から自転車を漕いで、図書館に行った。
 市内最大級と謳われるだけあって、さすがに広い。
 入り口の自動ドアは、いつも行っているマンガ喫茶の四倍はある。
 自動ドアのあとに、さらに自動ドア。
 北海道の人たちの住む家のドアは、二重になっているのをテレビで観たことがある。
 北海道でもないのに、二重ドア。
 自動ドアをふたつ抜け、壁に小学生の描いた「おしゃれな怪獣」と題された絵が壁に貼られたホールを二十メートルほど歩くと、また自動ドア。
 ここからが、やっと本棚の並ぶ図書館。
 目指すは、ヤングアダルトコーナー。
 略してYAコーナー。誰も略して呼んでないであろう、ヤングアダルトコーナー。
 青少年の味方。青少年じゃないけどわたしの味方。
 わたしはそこに向かって一直線に歩いた。
 ちょうど、ヤングアダルトにぴったし当てはまる年齢の女子高生が前を歩いていた。
 真夏だというのに冬の制服を着ていた。
 グレーのブレザーに緑を基調としたタータンチェックのスカート。緑のハイソックス。
 近くにある成績の良い人しか入れない女子校の制服。
 校則が厳しいはずなのに、肩まである髪はまとめずにおろしている。
 夏なのに冬服なこといい、髪形といい、いくら有名私立校の生徒でも、はめをはずしたい年頃なのかもしれない。
 彼女を追い抜いた。
 ヤングアダルトコーナーに到着。
 ちょうどいい具合に、まわりに誰も人がいなかった。
 ヤングアダルトに当てはまらない年齢のわたしは、ここではとても気を使う。
 悩める青少年。
 たとえば「人間関係」……
 たとえば「恋愛」……
 たとえば「将来の職業」……
 それら、青少年特有の悩みを抱えたヤングアダルトがこのコーナーに来たとき、わたしみたいな二十三歳の、どこからどう見ても大人の女が、ここにいたら気まずくて引き返してしまうだろう。
 だから素早く目当ての本を探す。
 夢原さんのためになる本を探す。
 夢原さんと、夢原さんのお母さんと、おじいさんのために……
 『詩人になるには』……
 そういったタイトルの本を素早く見付けないと。
 ヤングアダルトが、来てしまう。
 ない!
 どこだ!
 ない!
「はッ! うわーーーーー!!」
 なんてことだ。
 こんなタイトルの本が、ヤングアダルトコーナーにあっていいというのか。
 いや、いけない。
 目に付いたその本のタイトルは、『初めてのセックス』。
 そんな本、まだヤングアダルトには関係のない話だ。わたしも、関係なく生きてきたけど、ヤングアダルトには、もっと関係ない話だ。
 これは、誰かのいたずらに違いない。
 まじめな図書館職員さんが、中高生にこんな本を読ませようとするはずがない。
 中学生とか高校生男子の、あるいは変態中年男性の悪質ないたずら。
 こんなもの、たとえばさっきの有名女子高校の生徒が目にするようなことがあれば、ショックを受けて、PTSDで取り返しの付かないことになる。
 その前に、大人であるわたしが責任を持って、しかるべき場所に戻してこよう。
 その文庫本に手を伸ばした。
「はッ! あの、ごめんなさい。わたし別に読みたいわけじゃないんです。しかるべき場所に……大人として……」
 本を取ろうと伸ばした右手に、左から伸びてきた誰かの手が触れた。
 慌てて手を引っ込めた。
 一瞬触れた手の感触は、ごわごわしていた。
 文庫に手を触れたままの手首を見ると、包帯が巻かれていた。
 右を見た。
 さっきの女子高生だった。
 そしてその女子高生は……
マンガ喫茶の山口さん!」
 小首を傾げながら、彼女もわたしを見た。
「お客さん……えーっと、お名前覚えてますよ。あれだ! 森さん」
 わたしはものすごく驚いているのに、山口さんはそんなに驚いた様子もなく、くすくす笑っている。
 この笑顔、マンガ喫茶で何度も見た。
「生活圏内、近ーい! ですね」
 山口さんは、再びさっきの本に手を伸ばした。
 ……あぁ、この年であんな本に手を伸ばしたことが恥ずかしくて、顔が火照っていく。
 ただの好奇心。出来心だったんだ。
 それより山口さん、そんな本に手を伸ばしたらいけないよ。
 明るく健康的で社交的な山口さんが、こんな本によって、汚されてしまう。
「このコーナーおもしろいですよね。あぁ、中学生の頃はこんなことで悩んでたんだなぁって、懐かしい気持ちになれて……。それにしても、この本のタイトル、露骨すぎやしませんか?」
 山口さんはその文庫本を両手に持って、表紙をわたしに見せながら、ニコリと微笑んだ。
 ブレザーの袖から、やっぱり包帯が覗いていた。
 ……あぁ、山口さん。
 毎日マンガ喫茶に通って彼女と顔を合わせていたというのに、わたしは山口さんについて、知らなすぎた。
 明るく元気で働き者のマンガ喫茶店員、山口さん。
 それは、彼女のたったひとつの側面でしかなかった。
 彼女はマンガ喫茶で働いてるだけでなく、高校にも通っていた。女子高生だった。
 そして今は夏休みだというのに、制服を着ている。
 ということは部活にも励んでいる。
 なんて活動的なんだ。
 元気なんだ。
 明るいんだ。
 どうして、その恥ずかしいタイトルの文庫本をペラペラめくって読んでいるんだ。
 なんでそんなときも笑顔を絶やさないんだ。
 本当は今、辛いはずなのに。
 夏なのに冬服のブレザーで手首の包帯を隠す山口さん……
「あなたのがんばりは、きっと報われます! バレー部のみんなも、山口さんがケガのせいでミスしたからって責めたりはしません」
 ……だから、そんなに無理しないで。
 冷房は付いているけれど「省エネ設定」という貼り紙がいたるところにしてある、この図書館の中は、外よりはかろうじて暑くないかな、という程度の暑さ。
上着、脱いだほうがいいですよ。先生にケガを告げ口されてレギュラー落ちとか、人気者の山口さんに限って、ありえませんから」
「……」
 山口さんは、本を開いたまま、わたしをきょとんとした目で見ている。
 山口さんが開いたままのページには、黒い濃い字で「初体験に適齢期はない」と書かれていた。
 山口さんが本を閉じ、わたしに渡した。
「ごめんなさい。これ、ちょっと持っててもらえます?」
 山口さんが、グレーのブレザーを脱いだ。
 白い長袖のワイシャツ一枚だけになると、彼女のウエストがかなり細いことがわかった。
「それより、中も長袖なんですか!?」
「あー、はい。そうですね。なんか、これがうちの学校の正装みたいなもんだから。わたし、この制服が気に入って、入学したんですよ。だから今日くらい、これを着たくて」
 ……まだ強がりを言っている。
 もしかしてレギュラー落ちを恐れているのではなく、これは山口さんのプライドなのかもしれない。
 負けてもケガのせいにだけはしたくない……
「わかりました。そのプライドのために、やっぱりブレザーは着てください」
「え? 着るんですか? わたし、ブレザーを……もう一度?」
 山口さんは脱いで腕にかけていたブレザーを着ようとして、途中でお腹を抱えて笑いだした。
「森さんって、ほんとおもしろいですよね」
 この言葉、そういえば前にも山口さんから聞いた。マンガ喫茶で。
「どっちにしても、大丈夫なんですよ。今日は部活で学校に行ったんじゃないから」
 ……なんだ、そうだったのか。
 部員に会ってケガを告げ口されることを心配しなくても大丈夫なんだ。
 場合によってはわたしが壁になって山口さんをみんなの目から……
 と思ったけど山口さんはわたしより十センチ以上背が高い。
「友達が……」
 山口さんは言いかけてやめると、わたしの手から、『初めてのSEX』をひょいと抜き取った。
 それを扇子がわりにして、パタパタと胸元を仰いでいる。
「さすがに汗かいちゃってるな……。そうそう友達がですね。先生と恋愛してるんですよ」
「え! 先生と!? わたし、昔そういう少女マンガ読んでました。めでたくハッピーエンドで、大泣きしました」
「あぁ……、現実はですね、けっこう複雑なんですよ。先生と恋愛すると、どういうことになるか、想像つきます?」
「えーっと……」
 想像してみたけど、マンガの中で、先生と生徒が水族館に行く素敵なシーンしか思い浮かばなかった。
「下駄箱に……アハハハハ……ねずみの死骸が入るんですよ。信じられないですよね。ハハ、ハハハハハハ」
 言ってる途中から、山口さんは大声で笑った。
 でも、目は笑っていなかった。
 わたしは周囲の視線が気になった。
 だけど、山口さんは笑い続けた。
「あぁ。おかしい。ばかみたいな話ですよね。ひどいですよね。うんざりですよ、学校なんて」
 友だちをいじめた生徒というより、学校そのものを憎んでいるみたいな口調だった。
 その後の山口さんの話を要約するとこうだった。
 いじめに耐えかねた山口さんの友だちは、今年の五月からずっと不登校
 離婚の成立していない奥さんと、二歳の娘さんがいる先生のため、慰謝料や養育費のたしにと、その間ずっとバイトをしていたらしい。
 そして、出席日数が足りず、留年の決定した今日、退学届けを出した……と。
「不甲斐ないです。彼女をいじめから守れなかったし、なんの助けにもなれなかった……。わたしなんて、ただの十七歳の小娘なんですよね」
 ……あぁ、なんて声をかけたらいいかわからない。
 真後ろの、CDの並ぶ低い棚に後ろ手を付いてもたれかかった山口さんは、焦点の定まらない目で、ヤングアダルトコーナーの棚をしばらく見つめていた。
「あッ……ごめんなさい。なんだか、ヘビーな話をしてしまいましたね」
 山口さんが、姿勢を正した。
「そうそう、なんでこの話をしたかっていうと、わたしが今日、正装なわけ。それを語りたかったんです。彼女が退学届けを出すのに付き合って、さっきまで学校にいたからなんです」
「自転車通学ですか?」
「はい。そうですね」
「その制服、かわいいですよね」
「……ありがとうございます」
 ……あぁ。わたしは、なんでこんなことしか言えないんだろう。
 辛そうだけど、明るくふるまおうとしている、友だち思いの山口さんに、気の利いた言葉ひとつ、かけられない。
「あの、こんな話、聞いてもらっちゃって、さらにお願いするのも悪いんですけど」
 ……山口さんに、なにか……できることがある?
「これ……」
 そう言って山口さんがわたしに差し出したのが、『詩の朗読会』のチラシだった。
「わたし、彼女に何もできなかったけど……せめて、彼女の気持ちを大勢の人に知ってほしくて。
詩を書くなんて初めてだけど、挑戦してみようと思うんです。彼女のから聞いた気持ちを、詩にしてみようと思うんです。よかったら、聴きに来てくれませんか」
 スカートをふわりと翻して、かばんを右肩にかけた山口さんは、はずむような足取りで去って行った。
 その姿は、うきうきして弾んでいるというより、地に足が付かず、ふわふわ浮いているように
見えた。

 夢原さんはついさっき立ち上がり、部屋の中をうろつき始めた。
 昨日の山口さんの足取りとは対称的で、大地を踏みしめるように。
 ときおり、「なんで、マンガ喫茶の店員が参加するからと言って、俺まで参加しないとならないんだ」というひとりごとが聞こえてくる。
 この四畳半の部屋は、大半が本棚で占められている。
 本棚といっても、カラーボックスの上にカラーボックスを二段重ねにしたものが、窓と押し入れのあるところ以外、全てを覆い尽している。
 夢原さんが乱暴な足取りで歩き回るたび、上の段のカラーボックスが、中の本ごと落ちてこないかひやひやする。
「止まってください」
 ……止まった!
 夢原さんが、わたしの言葉どおり、律義に立ち止まった。
 真正面より、少し左寄りに立つ夢原さんは、不自然なポーズのまま、立ち止まっている。
「ぐわッ! なんで俺が君に指図されて、素直に立ち止まってるんだ!?」
 夢原さんが再び、歩き回り始めた。
「止まッ!!」
「だから俺は君の言うとおりには……」
 窓と襖のあいだに置かれたカラーボックス、上段のふたつが、中の本ごと夢原さんの上に降ってきた。
 地響き。
 夢原さんの頭が割れる。
 血が出る。
 大けがをする。
 咄嗟につむった目を開けた。
「慣れてるんだ、こんなことには」
 夢原さんは、柔道の受け身の姿勢をはるかに不格好にしたような姿勢で、窓の近くに寝ころんでいた。
 わたしの足下近くまで飛んできたいくつかの本の中に、見覚えのある本があった。
 それは、夢原さんの処女詩集。
 肩で息をしている夢原さんを無視して、カラーボックスを見渡すと、二作目、三作目、それから四作目……
 ほとんどが古本屋で買っただろう日焼けした本の中に、夢原さん自身の本が、すべて揃っていることに、今、初めて気付いた。
 わたしは立ち上がって、四冊まとめて並んではいなかった四冊の本を一冊一冊、抜き取り、集めた。
 ひびの入ったすりガラスの窓を背にし、寝ころぶ夢原さんの前、畳みの上に四冊の本を積み重ねた。
「あなたは夢原さんです」
「……」
 失敗した受け身の姿勢のまま、夢原さんがわたしを見る。
 長い髪が、さっきの派手な動きのせいで……
 ぼさぼさ。
「あなたは、もうすでに四冊も詩集を出している、夢原さんです。初めて詩を書く山口さんだって、挑戦しようとしてるんです。夢原さんなら、『詩の朗読会』くらい怖くないはずですよね?」
 ……なんでだろう。
 わたしは「夢原さん」と口にするたび、後ろめたさを感じる。脅しているような気分になる。
 夢原さんであることは、本人も認めたはずなのに。
「たしかに認めた。俺は夢原だ。だが、これまでの過去は、もう捨てたいと思っている。今俺にあるのは、前に君に見せた詩と、それから、この数日のあいだに書いた、新しい詩のみ」
 夢原さんが立ち上がって、床に散らばった本をどかしてから、押し入れを開けた。
 わたしは今まで、どこの家庭も押し入れには、ふとんをしまうものとばかり思っていた、
 だけど夢原さんの部屋の押し入れは、上段だけにふとん。それと、ふとんの上に申し訳程度の衣類が、たたまれず置かれている。
 下段には、少しの雑誌と、それ以外は大量のノートや手帳、びっしりと字の書かれた大小さまざまな紙が、詰め込まれていた。
 雑誌の上に、鉛筆立てもある。
 一見、ぐしゃぐしゃなようで、取り出しやすいように工夫されているのかもしれない。
 夢原さんは、一瞬で黒い皮の手帳と、万年筆を取りだした。
「それは……えーっと、モレスキンだ」
 つい、夢原さんの口調がうつってしまった。
「そうだ。モレスキンだ。いや、そうだが、モレスキンよりも、この中身だ。新しい詩を書いたんだ。読んでくれ」
 夢原さんは、わたしの話をすっかり無視している。
 押し付けるように、わたしのお腹のあたりに手帳を差し出した。
「だから、読みませんって」
「なんでだ。君は前に、俺の詩に感動しただろ。それよりさらにいい詩がここにあるというのに、読みたくないのか」
 ……読みたい。
 夢原さんから、手帳を奪ってでも読みたい。
 だけど、ここは我慢だ。人生最大の堪えどころ。
 がんばれ、わたし!
「読みたくありません」
「なッ……。じゃあ、あの約束は反故にするというのか」
「そういうわけでは……。ただ、夢原さんの詩を、たくさんの人に知ってほしいんです。それでお金も入って、お母さん、おじいさんに、幸せで安全な生活を」
「だから、母さんとじいさんは、年金と生活保護で、何不自由なく暮らしている」
 ……
「今、生活保護って言いました?
だめですよ。労働は尊いものなんですよ。いい若いものが……いえ、夢原さんはきっと三十歳越えてるからあんまり若くないけど……働かなくてどうするんですか?
今まで出した詩集の印税だって、きっと微々たるものですよね。だめですよ。お母さん、おじいさんは、内心夢原さんのことを心配しています」
 黙って聞いていた夢原さんが、口を開いた。
「森さん、君はいくつだ?」
「二十三です」
「誰とどこで暮らしている」
「父と母と、実家で暮らしています」
「収入源は」
「前にバイトしてたときに、使い道もなく貯金してたお金がありましたが、もうすぐ底を尽きます」
 夢原さんは、手帳を開いた。
 詩を朗読し始めた。
「ぎゃーーーーー!! やめてください。聞きたくないんです。本当は聞きたいけど、聞きたくないんです。『詩の朗読会』に参加してください」
 押し入れの他に、もう一か所ある襖が開いた。
 上半身裸、ステテコ一枚のおじいさんが立っていた。
「和夫、ここまで言われて逃げるのか。幼なじみのあいつに、負けたままでいいのか」
 おじいさんは、それだけ言うと、襖を閉めた。
 夢原さんの部屋とおじいさんの部屋は、襖一枚だけで隔てられているということを、今初めて知った。
 夢原さんも、おじいさんがまた病院かどこかへ行っていると思っていたのか、相当驚いた顔をしていた。
 その後、夢原さんが呟いた。
「俺は負けてない……」
 夢原さんは手帳を片手で閉じた。
 そして、思いがけないことを口にした。
「五日後だな。今ある詩より、さらに素晴らしいものを書いて参加してやる」

 五日後、夢原さんと、それに山口さんの詩が聴ける。
 うきうきしながら帰りの電車に乗ったけど、ひとつ、忘れていたことを思い出した。
 ……あ!
 図書館で、『詩人になるには』を借り忘れていた。


 九章 わたしが詩人になるには


 『詩人になるには』……
 そんなタイトルの本は置いていない。
 詩の書き方の本さえ見つからない。
 「そういう本を探すなら、図書館より大きな書店に行ったほうがいいかもしれませんね」、そう教えてくれたのは山口さん。
 でもここ、大きな書店で、さっきからずっと探しているけど、全然見つからない。
 昨日、ひさびさにマンガ喫茶に行った。
 当たり前だけど山口さんは、グレーのブレザーではなく、髪を一本に束ねたエプロン姿だった。
 山口さんはわたしを見るなり言った。
「森さん! 来てくれたんですか? いやぁ、嬉しいなぁ。もう来てくれないんじゃないかと心配してました」
 はッ!
 もしかして……
 わたしの、ふところ事情に対する不安は、顔に出ている!?
 たしかに、最近の行動的生活は、ついこのあいだまでのわたしには予定外の事態。
 毎日三食家で食べ、使うお金は、一日三百八十円。マンガ喫茶の基本料金のみ。
 それで計算したら、十一月頃までバイトをせずに暮らせるはずだった。
 それなのに、このままだとその半分も暮らせない。
 だけど……
「大丈夫です。いつかバイトする予定なんです。バイトしたらそのお金で、毎日、朝から晩までマンガ喫茶にいます。一度やってみたかったんです。延長料金を気にせず、マンガ喫茶に一日中いる生活!」
 明るく言ってみた。
 ……本当は自信がないけど。
 またバイト生活に戻れる自信なんて……ないけど。
マンガ喫茶にそんなに通ったら、バイトする時間、なくなっちゃいそうですね」
 学校と部活とバイト、みっつも両立させている山口さんが言った。
 そうだ、山口さんはそんなにたくさん両立させているんだ。
 バイトとマンガ喫茶通いの両立くらい!
 わたしにだって!!
「……できません。時間的、体力的、精神的に無理です。わたしはバイトをしたら、それだけでへろへろです」
「あー、えーっと……」
 ……はッ。
 山口さんが言葉を失っている。
 顔に経済状態の不安をあらわにするだけでなく、泣き言まで言ってしまった。
 この場は、早く立ち去ろう。
「基本料金三百八十円、このトレーの上に置きますね。今日も基本料金だけで、たくさんマンガを読んで、ドリンクを飲んで、帰りますね。はは……あはははは」
 トレーの上にお金を置いた。
 山口さんは、なかなか伝票を渡してくれない。
「インターネットの禁煙席でお願いしますね。マンガとドリンクバーだけでなく、ずうずうしくも、インターネットも楽しんで帰りますね」
 それでも山口さんは、まだ伝票をくれない。
「あのッ!」
 山口さんが、カウンターから身を乗りだすようにして、意を決したような声を上げた。
 その声は上ずっていて、いつもの、社交能力が高くて人との会話に慣れた様子の山口さんらしくはなかった。
 照れた顔をしながら、グーに握った手を口もとにあてた。女の子らしい小さな咳払いをひとつ。
「『詩の朗読会』の話、考えてくれましたか?」
「あー!!」
 ……忘れていた。
 わたしがここへ来た目的は、それだった。
 いつものようにマンガを読むために、ここに来たわけじゃなかった。
 基本料金を払ったからにはもちろんマンガも読むし、ドリンクも飲むけど……
 山口さんへの、意思表示に来たんだった。
「ぜひ、参加させて頂きます」
 山口さんは、細く長い指をした両手をこちらに差し出した。
 わたしも、おずおずと手を伸ばした。山口さんに比べ、関節ひとつぶんは小さい手。見せるのが恥ずかしかった。
「わー! 森さんって、手もちっちゃいんですねー。かわいい!」
 山口さんは、満面の笑みを浮かべて、わたしの両手を自分の両手で包んだ。
「心細かったんです。森さんもわたしと同じで、みんなの前で詩を朗読するのは初めてですよね。同じ仲間がいると、心強いです」
 手を引っ込めようとした。
 わたしの手は、しっかりと山口さんに握られていて動かない。
 どうしよう。
 早く誤解を解かないと。
 参加するのは夢原さんで、わたしはその付き添い。
 それに山口さんの詩を聴いてみたい、観客。
 期待を裏切って悪いけど、早く本当のことを伝えよう。
「参加するのは……」
「初めてだってことはわかってますよ」
 屈託のない笑顔。
「……」
「わたしも初めてですから。あ! もしかして、詩を書くこと自体、初めてですか?」
「はい、初めてです。あ、あの、そうじゃなくて……。いえ、初めては初めてなんですけど。今回は、わたしは、初めて参加はしなくて……あの、その……」
「慌てなくても大丈夫ですよ。わたしなんかは、自然と頭に浮かんでくるから、必要だと思ったことないんですけど。もしあれだったら、『詩の書き方』みたいな本を探してみたらどうですか?」
 ……ということは!?
「『詩人になるには』も、ありますか? わたし、探してたんです」
「わー! 森さん、すごい気合い入ってますね。がんばりましょう」
 ……あぁ。
 これはもう完全に、わたしも詩を朗読することが決定してしまった。
「はい、なんとか……」
 がんばって書こう。
 あと数日しかないけど……。
「そういう本を探すなら、図書館より大きな書店に行ったほうがいいかもしれませんね。あの図書館では、見かけたことがありませんよ。そうですね〜、ここからだと錦糸町とか」
 山口さんがニッコリと笑った。
「あッ! いらっしゃいませ」
 山口さんが自動ドアのほうを見たから、わたしもつられて見た。
 タンクトップにハーフパンツの男のひとが、自動ドアの前に敷いてある、マットの上に立っていた。
「お客さん来ちゃった」
 山口さんは、握っていた手を放すと、代わりにわたしの両手のひらの上に伝票を乗せた。
「楽しみですね。当日はぎりぎりまでバイトしてますから、一緒には行けませんけど。カフェで会いましょうね」
 そう言って、山口さんは腰のあたりで小さく手を振った。
 振り返そうとしたときにはもう、山口さんは接客に徹していた。

 新宿よりは近かった。
 電車賃が安く済んだ。
 そのぶん紀伊国屋書店本店と比べればはるかに小さかった。
 それでも近所の書店、何軒か足したくらいの広さ。
 そんな書店の、詩のコーナー。
 小説の棚は何列もあるというのに、詩の棚は隅っこに二列だけ。
 ……いや、違う。
 二列だけ、じゃなく、二列も。
 二列もあるなんて、近くの本屋に比べたら、奇跡みたいなこと。
 これだけあれば、一冊くらい『詩人になるには』といったタイトルの本があってもおかしくない。
 こちらは、詩でたくさんお金を稼いで、お母さんやおじいさんと安全な家で暮らしてほしい、夢原さん用。
 それから、初心者でも詩が書けるよう、わかりやすく詩の書き方を説明してくれる本もほしい。
 こっちは、初めて詩を書くわたし用。
 小説の棚と違って、詩の棚は背が二メートルくらいないと全部の本には届かない。首を伸ばしたり、しゃがんだりしながら、棚に並んだ本をくまなく見ていく。
「ない……ない……ない……」
 詩人のなりかたも、詩の書き方もない。詩集ばかりだ。
 知らない詩人の名前がたくさん並んでいる。
「あッ! 谷川俊太郎……の、詩集じゃなく……」
 『詩を書く』!
 新書の背表紙にそう書かれた本が、はるか高いところにあった。
 この本は参考になりそう。
 背伸びをして、右手を伸ばした。
 肩から鞄がずり落ちた。
 左手で直して、もう一度。
 今度は、めいっぱい爪先立ちをした。
 あと五センチ。
 三センチ。
 二センチ。
 もうちょっとだ。
 がんばるんだ、わたし。
 今は、谷川俊太郎だけが頼りなんだ。
 他は詩集ばかりで、詩について書かれた本は、この本くらいしか見当たらない。
 この本はなんとしても手に……
 あれ?
 つま先立ちのまま、右横の足下を見る。
 ソロソロと、踏み台がひとりでに……
 近付いてくる!
「ぎゃーーーーー! ふ、踏み、踏み台……」
 体勢を崩し、よろけた。
 床にぺたんと、おしりと膝を付き、踏み台にもたれかかった。
 踏み台に添えられた男のひとの手が、目の前にある。
 見上げると、緑のエプロン……
 ネームプレートに、「店長」の文字……
 体を屈めている彼は!
「うわッ! うわッ! うわッ! て、店長……なんでここに、なんでここに、なんでここに、なんでここに……ななな……」
 踏み台から飛び退き、体育座りをしながら、呟いた。
 頭を抱えて、必死に考えた。
 ここは都内の本屋。わたしがバイトしていたのは、千葉県にしか支店のない本屋。
 店長がここにいるはずがない。
 あの人は店長じゃない。
 おそるおそる、顔を上げた。
 踏み台に手を添え、屈んだままの姿勢のその人が胸に付けているネームプレートをもう一度見た。
 たしかに「店長」と書かれている。
 さらに「牛島」とも書かれている。
 彼は、この店の店長で、名前は牛島さんというらしい。
 ……はぁ。よかった。
 牛島さんの顔を見る。
 店長と違って丸顔。年齢も、店長よりふたまわりは上で、定年間近といったところ。
 ついでに横幅も、店長よりふたまわりほど大きい。
 その牛島さんが、心配そうな目でわたしを見ている。
「はッ! すいません。なんでもないんです。ちょっと、あの、背伸びしすぎて、よろけただけなんです。踏み台、ちょうどほしかったところなんで、ありがとうございます。気にしないで……ありがとうございます」
 牛島さんに笑いかけたけど、うまく笑えなかった。
「お声をかけたんですけど、気付かれなかったみたいでして……。驚かせてしまい、申し訳ありません。よかったら、お取りしましょうか」
 牛島さんほど背丈があると、踏み台を使わなくても、ほとんどの本に手が届く。
 わたしが指を差し、牛島さんが「これですか?」と本の背表紙を触り、「いえ、その隣のそれを」とわたしが答え……
 そんなやり取りのあと、谷川俊太郎の『詩を書く』を牛島さんの両手から、わたしも両手で、名刺交換のような動作で受け取った。
「あ! でも、踏み台も持ってきてもらったし、取ってももらったけど、わたし、中を見て……」
「どうぞ。ゆっくりご覧になって、ご検討ください」
 牛島さんはお辞儀をしたあと、踏み台を脇に抱えて歩き出した。
 お客さんとすれ違うたび、壁際に張り付くようにして、先にお客さんを通すから、いっこうに遠くに行かない牛島さんの様子をしばらく見ていた。

 家に着くと、玄関横には、母の自転車がなかった。
 おそるおそる、母手作りのリースがかけられたドアを開けた。
 ……あぁ。やっぱり。
 玄関には、父の投げたものが散乱していた。
 父は仕事から帰ってきたとき、母が家にいないと、よくこういうことをする。
 母のパンプスの横にも、父の革靴の中にも……
 みかん。
 六個ほど拾った。
 ……えーっと、もうみかんはないかな。
 はッ!
 ヤクルト!
 わたしのサンダルの横にヤクルトが!!
 ヤクルトを慎重に拾いあげた。
 穴が空いていないことを確認する。
 よかった。わたしの白いサンダルが、ヤクルトまみれになってなくてよかった。
 初夏に駅ビルで買った、七センチヒールの白いサンダル。
 もったいなくて、まだ一度も履いていない。
 このままだと、一度も履かないまま夏が終わりそうだ。
 廊下にも、米の計量器、フライパン、ランチョンマット……
 次々と拾いながら、リビングに向かった。
 開きっ放しのリビングと廊下を繋ぐドア。そのそばに落ちていた、親戚から送られてきた山形みやげのおばこ人形だけが持ち切れない。
 ドアのそばには、キッチンとダイニングテーブルがある。そこには誰もいない。
 奥を覗くと、父がソファーからずり落ちたような姿勢でカーペットの上に座り、缶ビールを飲んでいた。周りは缶だらけ。正面の液晶テレビには、明石家さんまが映ってる。
 ……あれは、わたしの好きなバラエティー番組。
 でも……父がテレビの前にいるから、今日は見るのを諦めよう。
「ただいま」
 拾ってきたものを所定の位置に戻しながら、父ではなく明石家さんまに向かって言った。
「おぅ。なんだ、千歳か」
 赤い顔の父がこちらを振り向いた。
 今気付いたふりをしているけど、本当はもっと前から気付いている。
 物に当たり散らしたことをわたしに見られて、ばつが悪いんだ。
「オババ、まだ帰って来ないぞ。夕飯の時間だっていうのに、どこほっつき歩いてんだか」
 キッチンに立ち、抱えていたフライパンを、なべやフライ返しがかかっている壁にかける。
 ガスレンジの上に乗っている、なべのふたを開けた。
「お父さん、夕飯あるよ。今日は筑前煮……らしいね。ひとりで食べてたらいいのに……」
 語尾がどんどん小さくなって、独り言みたいになった。
 でも、父には聞こえたようだ。
「んむッ……」
 よくわかんない返事が聞こえた。
「食べる?」
「いや……」
 父は、さっきまで見ていなかったテレビに、熱中しているふりをしている。
 わたしはなべの中の筑前煮と、隣の小さな鍋に入っていたみそ汁を温め、ご飯をよそって、ダイニングテーブルに向かって、急いで食べ始めた。
 早くしないと母が帰ってくる。
 帰ってくれば、父が母にケンカをふっかける。
 ごはんは、あとひとくち。
 鳥肉も、あと一切れ。
 ……やった、完食!
 玄関のほうから、物音がした。
 母が玄関前に自転車を止めている音。
 急いで食器を重ね、シンクに置いた。
 いそいそと、リビングを出る。途中、おばこ人形を拾う。
 下駄箱の上には、陶器でできた白い猫。二匹が寄り添うように置かれている。
 本当はここじゃないけど、まぁ、いいや。緊急事態だ。
 おばこ人形にはここにいてもらおう。
 白い猫二匹をそれぞれ左右にずらし、そのあいだにおばこ人形を……
「は! お母さん」
「ただいま。あら……千歳、なにやってるの?」
 母がドアを開け、玄関の中に入りながら、訝しそうにわたしを見ている。
「……えーっと。おばこが猫を飼ってるって設定」
「やめなさいよ、センス悪い」
 母に、おばこ人形を手渡した。
「元に戻しておいて」
 母が、スーパーのビニール袋を持ってないほうの手で、おばこ人形を受け取った。
 受け取りながら、サンダルから、スリッパに履き替えている。
 わたしは、その足下を見ている。
 タオル地でできた黒地に薔薇柄のスリッパに、肌と同じ色のマニキュアが塗られた足が、一本、二本、差し込まれる。
「千歳、ちょっとそこどいて。通れないでしょ」
「あー、うん。ごめん……」
 スリッパ立てには、同じタオル地のスリッパがあとふたつある。
 だけど、父もわたしも面倒で履かない。いつも裸足か靴下のまま家の中を歩く。
「ご飯まだでしょ? 今ちょっと納豆買い忘れて、もう一回スーパー行ってたとこ。そしたら関口さんと会っちゃって。谷口さんちの尚美ちゃん、就職決まったって」
 昔よく遊んであげた尚美ちゃんも、もうすぐ専門学校を卒業する年かぁ……
 就職かぁ……
「ねぇ、お父さん、もう帰ってるんでしょ」
「あ、うん……帰ってるよ。わたしはもうご飯食べたから!」
 階段を走って昇った。
 母は、みかんが玄関にあったことも、おばこ人形がリビングのドアの前に落ちていたことも知らない。
 どっちにしろ、もうすぐケンカが始まる。

 父の定位置、ソファーのちょうど真上にわたしの部屋がある。
 家具は、この家が建てられた、わたしが中学生のときに母が買い揃えたまんま。
 机、タンス、立て鏡、それからベッド……
 全部が白で、どこかしらに必ずピンクの花模様が入っている。
 カーテンや掛け布団なんて、地の色からしてピンク。
 ……わたしにはラブリーすぎるよ、この部屋は。
「落ち着かない」
 横向きにベッドに寝転がりながら、呟く。
 嫌だったから自分で買い替えればいいんだろうけど、実家暮らしが長いと、自分で家具を買い替えようという気がおきない。
 それに、今はお金もないし。
 ……はぁ。
 あ! 始まった!
 下から、父と母が大声で言い争う声が聞こえてきた。
「千歳を短大に入れたから、こんなことになったんだろ。あいつはどうせ働けやしないんだから、高校だけでよかったんだ」
「そんなこと言ったって、今の時代、高卒じゃかわいそうでしょ。あなたが前の会社さえ辞めなければ」
「仕事もない会社に居座ったって仕方ないだろ」
 あぁ。早く、本棚から夢原さんの詩集を……
 机のひきだしから、夢原さんの載った新聞記事を……
 耳を塞ぎ、ベッドの上を二回転して、そのまま床に転げ落ちるようにしておりた。
 這って、移動。
 そして掴んだのは……
 電話の子機!?
 それに、わたしが今、ひきだしの中身を床にばらまき、探しているのは……
 紙切れ!?
 夢原さんの電話番号が書かれた紙切れを探している。
 あった!
 でも、なんで。
 なんでわたしは今、夢原さんの番号をダイヤルしているんだ。
「山田だ。どちらさまだ」
 山田さんだけど夢原さん、が出た。
「森千歳です」
「うッ……詩なら、まだできてないんだが」
「違います。詩の催促のために電話をかけたんじゃありません」
「じゃあ、なんの用だ?」
 ……なんの用だろう。
 わー! 下から、また父の声が聞こえてきた。
「早く嫁にやってしまえばいいんだ」って言ってる。
 それよりも、母の声。
「まだ彼氏もできたことないのに、そんなこと言ったって、かわいそうでしょ」って……
 お母さん、そっちのほうが傷付くよ。
 かわいそうだよ……わたし。
「だけど、顔だって悪いわけじゃないだろ。隣の娘なんて、千歳の三倍くらいは体重あるのに結婚したっていうだろ」
「だって、ほら……、千歳は人と話すの苦手でしょ。わたしたちが一生養っていく覚悟で」
「わたしたちって、働くのは俺だろ」
 あー! 耳を塞ぎたい。
「おい! 電話をかけてきながら、なんで何も言わないんだ」
 耳を塞いだら、夢原さんと会話ができない。
「無言電話か」
 そもそも、耳を塞いだだけじゃ、聞こえなくはならない。
「何も話さないんなら切るぞ」
 なにかに集中してないと。
 いつもなら、夢原さんの詩集を読んでいるうちに父と母の声はすっかり聞こえてなくなる。
 それなのに、なんで今日は夢原さんに電話をかけてしまったんだろう。
 ベッドに横向きに寝転がった。
 子機を耳の下にして、反対側の耳を手で塞いだ。
 もはや「もしもし」しか言わなくなった夢原さんの声が、よく聞こえるようになった。
 同時に、父と母の声が、耳に入らなくなった。
「夢原さん」
「なんだ、やっとしゃべったか」
「わたしも、詩の朗読会に参加することにしました。わたしも詩を書きます。今日、本屋に行って、谷川俊太郎の『詩を書く』って、本も買ったんです。それから……それから……」
「世間話のために電話をかけてきたのか。切るぞ。朗読会で発表する詩が、まだできてないんだ」
「待ってください。わたし、たった今、詩を思いつきました。聞いてください。いきますよ。
 タイトル「娘、ゴッホになる」

 ゴッホのように
 耳を切り落としてしまいたい
 お父さん
 お母さん
 わたしは耳のない
 娘になりました

 どうですか、夢原さん?」
 夢原さんが、絶句している。
 我ながら傑作だ。きっと、わたしの秘めた才能に驚いているに違いない。
「君……」
「はい!」
「人格変わってるぞ……」
「えッ……」
「まぁ、よくあることだ。ふつうに暮らしてるような奴でも、詩を書くとなると、自分を百倍くらい不幸な人間に演出する。それも、ありきたりな不幸ばかりだ。ところで、谷川俊太郎の本はもう読んだか?」
「まだです」
「せっかくだ。詩を書くなら、それを読んでからでも遅くない」
 ……『俺は俺を尊敬する』と言って、高村光太郎さえけなしていた夢原さんが、谷川俊太郎の詩だけは認めてる?
「誤解するな。詩だけで見たら、俺のほうが上だ。だが、彼の詩に対する姿勢は、まぁ、評価してやってもいい」
「あの、もうひとつ……」
 言いかけたけど、電話はもう切れていた。
 『書店員の牛島さん』ってタイトルの詩も作ったのに……。
 こっちは、家に着く前、電車の中で思いついて書きとめたから、楽しくてとってもいい詩なんだけどなぁ。
 父と母が言い争う声が聞こえる中、ベッドの上で谷川俊太郎の本を読んだ。。
 読み終わって時計を見ると、深夜一時。
 いつのまにやら、家の中全体がしーんとしていた。
 詩を、たくさん書きたくなった。


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