長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)3/4
(十章から十三章まで)
十章 いざ、討ち入りだ!
詩の朗読会当日がやってきた。
緊張している。
あぁ。とっても緊張する。
「緊張しているようには見えないぞ」
広げた手帳片手に、小声でブツブツ呟きながら仏間を歩き回っていた夢原さんが、こちらに向かって言った。
わたしはダイニングテーブルで、三十分前から夢原さんのおじいさん、お母さん、と一緒にさやいんげんの筋を取っている。
テーブルの上には、プラスチック製で色とりどりの、大小さまざまなボール。
それら全部にいんげんが入っている。
仏間を正面にして座っているわたしは、薄緑色のボールから顔を上げた。
「これでも緊張してるんですよ。家で五十回朗読してきたとはいえ、本番で緊張してつっかえたら恥ずかしいし、それに……」
「つっかえるかどうかより、肝心なのは詩の内容だろ。ぎりぎりまで推敲しようとは思わないのか。まぁ、君みたいに、お遊びで詩を書くような人間と俺じゃ、根本的にやる気の度合いが違うがな」
夢原さんは、また手帳を見てぶつぶつ呟き始めた。
違うのに!
緊張してるのは、つっかえるかどうかっていうことよりも……
わたしは夢原さんの詩が好きだけど、もし、夢原さんの詩を聞いた人たちが、なんの反応を示さなかったら?
それを間近で見たわたしは、それでも夢原さんの詩を好きだと言い切れるだろうか?
「あらあら。千歳ちゃん、そんな暗い顔しないで。和夫ったら、まったく、あんな言い方して。千歳ちゃんも、なんだかの発表会に出るんでしょ。こっちは気にしなくていいから、練習してていいのよ」
仏間を背にして、わたしの向かいに座っているお母さんが言った。
「いえいえ。楽しいし、こうしてるほうが緊張がほぐれていいんです」
それにしても、いんげんは大量。
まだ筋を取ってないほうのいんげんが、減っている気がしない。
どんどん筋を取っていく。
「こうしてね、安いときにたくさん買っておくの。筋を取って小分けに冷凍しておけば、そのまま茹でて、みそ汁の具なり、胡麻和えなりにできるでしょ」
「へぇー、そうなんですか」
「和夫だって、今日はあんなだけど……」
お母さんが夢原さんを一瞬振り返り、またこちらに向き直り、微笑んだ。
「いつもは買い物にも行ってくれるし、料理もわたしより上手なくらいなのよ」
「はぁー。そうですね。きょうはあんなですけど。前に会ったときは、八百屋さんと魚屋さんで買い物をしてるのを見ました」
「ねぇー。そうでしょう。今日だけだから、あんななのは。だから勘弁してあげてね」
わたしもお母さんも「あんな」「あんな」と言っているけど、夢原さんは、さっきより少しは落ち着いただろうか?
もう一度、顔を上げて夢原さんを見た。
歩き回っている夢原さんの……
平衡感覚がおかしい。
「ハラ……テパ……ナ……ダダダダダダダ」
耳を澄ますと、夢原さんの口から漏れる音が……
日本語に聞こえない。
うッ……。
きっと、小さく呟いてるからそう聞こえるだけ。
気にしないでおこう。
平衡感覚がおかしいのも、きっと詩人には詩人の、詩を考えやすい歩き方というものがあるんだ。
きっとそう。
彼は夢原さん。詩の朗読会くらい、立派にこなしてくれるはず。
だけど、もしも……
もしも夢原さんが朗読会で観客を感動させられなかったら!?
わたしが夢原さんの詩に感動できなかったら!?
そのときは……
わたしは夢原さんを尊敬できなくなる!!
あ……あ……あ……
それよりいんげんだ!
そんな怖いことを考えるのはやめて、いんげんに意識を集中しよう。
「あ! おじいさん、違いますよ」
隣に座っているおじいさんの持っているいんげんは、さっきわたしが筋を取ったいんげん。「こっちのボールの中のが、まだ取ってないいんげんです。もう、おじいさんたら、さっきも間違えましたよね」
「でも、ちーちゃん」
……え!? 「ちーちゃん」って、わたしのこと?
子どもの頃から、あだななんてなかった。みんなに「森さん」って呼ばれてた。
それなのに、おじいさんは「ちーちゃん」って呼んでくれた。
嬉しいな。おじいさんに「ちーちゃん」って呼ばれて嬉しいな。
「ばあさんの妹も千歳さんっていって、ちーちゃんって呼んどったんよ。十も年下だから、そりゃあ、かわいいかったもんよ」
おじいさんが、遠い目をして言った。
「そうですか。でもその千歳さん、もう亡くなられたんですね。今日からわたしがおじいさんの『ちーちゃん』に……」
「いや、生きとるよ。鎌倉に住んどる。よく鳩サブレ送ってくるが、あれはもう飽きた」
「……」
いんげんをダイニングテーブルの下に落っことした。
潜って拾う。
……あれ? ない。どこだ? あった!
座り直した。
「ふぅー。それは良かったです。安心しました」
「ところで、ちーちゃん」
「はい。なんですか? わたし、ちーちゃんですよ」
「ちーちゃんが筋取ったっていういんげん、半分くらいしか取れとらん」
おじいさんの持っているいんげんに、顔を近付けてよく見てみた。
「あ……」
「途中で、筋ちぎれて残っとる」
「あれ? れれれれれれ? はは、ははは。たまたまですよ」
おじいさんの肩をポンと叩いた。
おじいさんも、わたしの肩をポンと叩き返した。
「どんとまいんど」
おじいさんが言った。
お母さんが、見事な手さばきでいんげんの筋を取りながら、さっきから、わたしとおじいさんを見て笑っている。
「さて。わたしは今日の夕飯のいんげんを茹でちゃうから、おじいさんと千歳ちゃんは、引き続き、筋取りお願いね」
お母さんが、いんげんの入ったピンク色のボールを持って、立ち上がった。
そして、わたしとほとんど背中が触れ合いそうな距離で、いんげんを茹で始めた。
鍋からの湯気で、さっきよりも部屋が暑くなった。
……はッ! お母さんはもっと熱いはず。
お母さんがわたしのそばに置いてくれていた扇風機を、首振りモードから、固定に切り替えて、風がお母さんのほうに行くようにした。
しばらくは、いんげんの筋取りに夢中になっていた。
ふと夢原さんが気になり、見ると……
はッ! 昼寝してる!
夢原さんは、こちらに背を向け、畳みの上で寝ている。
これでこそ夢原さん。
喫茶店では挙動不審でも、詩に関してはいつも余裕のある態度を見せてくれるのが、夢原さん。
そっと立ち上がって、夢原さんのそばまで行った。
「寝ている場合じゃないですよ。そろそろ出発しましょう」
夢原さんの背中に向かって、声をかけた。
返事はない。
熟睡してしまったよう。
黒い半袖シャツを着ている夢原さんの肩を、軽くゆすってみた。
「わッ!」
……シャツが汗でびっしょり。
「夢原さん、時間がないから、着替えるなら今のうちですよ」
もっと、ゆすってみた。
ゆすった拍子に、夢原さんの顔がこちらを向いた。
だらんと死人のようにこちらを向いた夢原さんの額、髪の生え際、首、すべてにひどい汗。
目が開いていない。
これは……
昏睡状態というものじゃないか!?
たいへんだ!!
急いで、お母さんとおじいさんを振り返った。
お母さんは、いんげんを茹でている。
おじいさんは筋取りに夢中。
よし! 気付いてない。
もしふたりが、夢原さんの体調の異変に気付いたら、朗読会への参加に反対するだろう。
夢原さんの顔がおじいさんとお母さんに見えないよう、元通り、台所に背中を向けさせ、寝かせた。
「あら、ちーちゃん。和夫、寝ちゃってるの?」
……わッ! 心臓が止まるかと思った。
「あ、はい……そうなんです。余裕も余裕で、昼寝してます」
「時間は大丈夫?」
「えー、まぁ、そろそろ……。いえ、もうちょっと時間があります」
おじいさんは、まったく気にする様子もなく、いんげんと格闘中。
このままふたりに気付かれないうちに、意識のない夢原さんを引きずって朗読会まで行こう。
おんぶをする姿勢を整え、夢原さんの両腕を、わたしの肩に乗せた。
このままいっきに立ち上がる。
「うわーーーーー」
夢原さんごと、畳の上に転んだ。
「痛い……痛い……いた……」
夢原さんが、かろうじて意識を取り戻した。
同時に、お母さんとおじいさんが気付いて、仏間に入ってきた。
「何遊んどるん? ふたりとも」
「あら? 和夫、顔、真っ赤じゃない。熱でもあるんじゃ……」
寝ている……というより、途中で背負うのを断念したわたしのせいで、手も足も、あらぬ方向を向いたまま横たわっている夢原さんのおでこに、お母さんが手を当てた。
「おじいさん、手ぬぐい濡らしてきて。あと、体温計もお願い」
「はいはい。はいよ」
お母さんは、仏壇の前の座布団をふたつ折りにし、夢原さんの頭をその上に乗せた。
仰向けに寝かせ、手足の方向も整えた。
それから、おじいさんの持ってきた手ぬぐいを夢原さんのおでこに乗せ、体温計を脇に挟み……
「これはだめだわ。千歳ちゃん、ごめんね。三十九度もあったんじゃ、行けないわ。きっと知恵熱ね」
えー!? そんな……
夢原さんが……すごい詩人の夢原さんが、詩の朗読会に行くというだけで、緊張して知恵熱を出すなんて。
そんなの夢原さんじゃない!
そんなの、ただの自信のない素人詩人じゃないか!?
「おじいさん、大丈夫ですよね。行けますよね。全然平気ですよね」
立ったままのおじいさんを、すがるように見上げた。
「本人しだいだ。行きたいもんは行かせてやれ。諦めるっちゅうもんは、無理に行かせることはない」
おじいさんが、きりりとした表情で言った。
「そんなこと言ったって、こんなひどい熱じゃ、行きたいも何も……しゃべれないみたいだし」
お母さんが洗面器に水を張ってきて、何度も手ぬぐいを濡らし、取り換えている。
焦点の定まらない目で、夢原さんがわたしに向かって手を伸ばした。
こういうときは、病人の手を握るもの。
……あぁ。夢原さん。
正座をし、夢原さんの手を握った。
「死なないでください。朗読会に参加してください。なんとしても参加してください。参加してください」
手を払われた。
「……」
「手帳を……」
「はいはい。手帳ですね」
畳の上に落ちていた手帳を、横たわったままの夢原さんに手渡した。
「あと……万年筆……」
お母さんとおじいさんも見守る中、夢原さんは仰向きのまま、片膝だけを立てた。
その膝の上で手帳を開き、万年筆を走らせている。
手帳一ページ、めいっぱい使って書かれた文字。
その一文字一文字が、とても力強い字で書かれていた。
『俺の平熱は三十九度だ!』
ビックリマークが、やたらと大きかった。
もう三人とも読んだというのに、夢原さんはそれを何度もわたしたちの顔のそばへ近付けてくる。
「わかった。わかったから」
お母さんはそう言って、泣いているのかと思ったら、笑いを堪えていた。
おじいさんは、黙って、うんうんと頷いていた。
わたしはほっとした。
夢原さんはなんとか自力で立ち上がり、玄関まで歩いた。
夢原さんの長い髪はお母さんによって後ろで結ばれ、額にはおじいさんの巻いた濡れ手ぬぐい。額のちょうど真ん中にくるところに、「誠」の文字がプリントされている。
「この手ぬぐいはな、函館に住んどる『ちーちゃん』が送ってきてくれた。土方さんが付いとれば、熱なんて五分で下がる」
……おじいさん、さっき『ちーちゃん』は鎌倉に住んでるって。
「それより、駅までどうやって運ぼうかね」
お母さんが言った。
「大丈夫だ。俺はひとりで歩ける」
「和夫、本当?」
お母さんが夢原さんの背中に添えていた手を放した。
夢原さんは玄関に崩れ落ちた。
靴の上に座ったままの夢原さんに関係なく、わたしたち三人は相談を始めた。
「お母さん、わたしが背負って行きます」
「いや、わしが背負う」
「でもおじいさん、腰痛めたら、また接骨院通いよ」
「それもまた楽しみじゃ」
「だめです。わたし、いいことを考えました。おじいさん、お母さん、三人で力を合わせて運びましょう。いいですね、夢原さん?」
夢原さんは何も言わず、苦い顔をしていた。
玄関を出て、家のすぐ前の道路。
おじいさんとお母さんが、左右で夢原さんに肩を貸している。
わたしはというと……
腰を落として、精一杯の力を込めて、夢原さんのおしりを押している。
「あッ! うわッ! だッ!」
わたしに押されながら、夢原さんがもがいている。
「自分で歩けない人は、文句を言わないでください」
「あッ、でもね、千歳ちゃん。あんまり後ろから押すと、和夫の足が浮いちゃって、バランスが取れないみたいなのよ」
「え!? そうですか。じゃあ、もうちょっと軽く押したほうがいいですかね。あれ? おじいさん、どうしました」
「こッ、腰が……」
おじいさんは、片手で腰を擦りながらも、夢原さんに肩を貸し歩いている。
「おじいさん、わたしが交代し……」
そのとき、後ろからスピードを落して走ってきた白い車が、わたしたち四人のそばに横付けされた。
車の前方には、見たことがあるマーク。
この車は、高い車だ!
サイドガラスが開いた。
夢原さんと同じ年くらいの男性が、顔を出した。
髪は短く、眼鏡をかけている。
日焼けした肌だというのに、全然アウトドアな人に見えない。
どことなく、繊細そうな雰囲気が、夢原さんに似ている。
「和夫」
アウトドアだけど、アウトドアじゃない人が夢原さんの名を呼んだ。
「それに、おじいさん、お母さん、お久しぶりです」
「あら。茂典くん。ひさしぶり。近所に住んでるっていうのに、なかなか出会わないものね」
お母さんは、夢原さんをちらちらと見ながら、なんだか気まずそうな様子。
おじいさんは、あからさまにそっぽを向いて、茂典くんと呼ばれたその人と、目も合わせない。
「なんか、たいへんそうじゃないですか? 乗っていきますか。って言っても、全員は乗せられませんけど。病人ひとり運ぶくらいならまったく問題ありませんよ」
茂典さんは、夢原さんの目をじっと見つめて言った。
夢原さんも、茂典さんを見つめ返している。
というよりも、夢原さんのほうは、ものすごい怖い目で茂典さんを睨み付けている。
「俺は病人じゃない!!」
夢原さんが、両手をバッと開いて、おじいさんとお母さんを振り払った。
「いてッ! いててててて……。痛いじゃないか、和夫」
「あー、痛い」
ふたりは、地面に手足を付いて痛がっている。
わたしは呆気に取られ、立ちつくすことしかできない。
「悪い、じいさん」
夢原さんが、おじいさんを助け起こした。
おじいさんは、腰をさすっている。
「悪い、かあさん」
お母さんは、擦りむいた脚を不満そうに見つめている。
「そういうわけだから、俺は病人でもなんでもない!
どうせ乗せてくったって、自分とこが経営してる病院に運ぶだけだろ。二代目は外車で病人集めか……。俺は病院なんて行っている暇はない!
行くところがあるんだ。やるべきことがあるんだ」
「誠」と書かれた手ぬぐいからは、水がぽたぽた垂れていた。足がプルプル震えていた。
それでも、夢原さんはかっこよかった。
茂典さんは、寂しそうな目で夢原さんを三秒くらい見つめたあと、サイドガラスを閉め、近付いてきたときの三倍くらいのスピードで車を走らせ、去って行った。
そこからは、わたしと夢原さんのふたりで駅を目指した。
夢原さんは、いっさいわたしの手を借りようとしない。
「階段くらい、お手伝いさせてください」
「いや、いい。問題ない」
階段では、何度も転げ落ちそうになりながらも、わたしの手どころか手すりにもつかまらなかった。
土曜の夜七時。平日に都心から郊外に向かう電車ほどではないけど、電車の中はそこそこ混んでいた。
優先席しか空いていない。
「夢原さん、病人なんだから座ってください」
「俺は病人じゃない。詩人だ」
「……」
JRと私鉄、両方の電車が乗り入れる、駅に着いた。
改札を出たところで、立ちつくした。
改札のそばにも、近くのロータリーにも、二十歳前後の大学生らしき男女が大勢集まっている。
鳩もたくさん集まっている。
まわりを取り囲む雑居ビルには、消費者金融の看板がいっぱい。
アコム、アイフル、プロミス……
「森さん!」
グレーのブレザーに、緑色のチェックのスカート。
山口さんだ!
学生や、鳩に紛れてロータリーに立っていた、山口さんが手を振りながら、こちらに駆け寄ってきた。
「あぁ、良かった。助かりました。ここ、学生街だから、サークルの待ち合わせの人たちでいっぱい。『君も参加しない』って、ふたりも声かけられちゃいました。わたし、どう見ても高校生なのに、変ですよね。……あれ?」
山口さんが、夢原さんを見た。
「そちらの、新撰組みたいな格好をした方は?」
「あ! この人は詩人で……」
「や、山田……和夫と……いいます」
夢原さんが、視線を細かく左右にさまよわせた後、頭を下げた。
……どうして!?
「なんで、夢原翼だって名乗らないんですか!?」
夢原さんを睨んだ。
「俺は今回の朗読会で、山田和夫として、自分の力を試してみたいんだ」
「……」
夢原さんなりの考えがあったんだ。
詩を書いたり読んだりしない人に「夢原翼」と言っても、みんな誰だかわからない。
だけど、これから行くのは、詩を書く人ばかりの集まりだ。
夢原さんは、名前による力ではなく、本当の実力を試そうとしている。
「わかりました。や、山田さん、あなたの意思を尊重します」
山口さんが、きょとんとした目でわたしたちを見ている。
「えーっと。こちらの方は、夢原さんってお名前じゃなく、山田さん……で、いいんですよね?」
「はい」
「山田と呼んでください」
わたしと夢原さんが、同時に頷いた。
「山田さんって、ハチマキ? ……もそうだけど、顔立ちとかもちょっと、土方歳三っぽいですよね。美形だし」
山口さんが夢原さんの顔を覗き込んでいる。
覗き込まれるたび、夢原さんは顎に手を当て、所在なげに顔を背けた。
「ふふふッ。それじゃあ、山田さん、森さん、行きましょうか。地図によると、徒歩十五分ほだそうですけど、ふたりとも歩けますよね?」
わたしは夢原さんを見た。
顔が赤い。夢原さんの熱が心配だ。
だけど夢原さんは、わたしをまっすぐ見据え、頷いた。
「森さん。白いサンダル、すっごいかわいいけど、足、疲れちゃわないですか」
山口さんが言った。
「あ、はい。大丈夫です。今日は大切な日なんで、お気に入りのサンダルを履いてきました」
それに、町内カラオケ大会に出場したときに着ていた水色のワンピースも着てきた。
山口さんは、「正装」と言っていた制服。
夢原さんは額に「誠」と書かれた、すでに乾いた手ぬぐい。
学生グループが、ちらちらわたしたちを見ている。
わたしたちというより、夢原さんを。
「いざ! 討ち入りだ!!」
夢原さんが大声で言った。
「……あは……はははははは。……山口さん、ここ、笑うとこですよ。山田さんは、山口さんの『新撰組みたいな』という言葉を受けて、ギャグを言ってるんですよ」
隣の山口さんに、小声でささやいた。
「え!? あ! そうだったんですか。あははははは。あは?」
山口さんが、夢原さんをちらちら見て、『こんな感じでいいかな』と確かめながら笑った。
カフェまで、三人、横一列に広がって歩いた。
広がって歩くと他人の迷惑になるけど、そのほうが気合いが高まって、良い気分だった。
三人とも、口には出さなかったけど、同じ気持ちのような気がした。
十一章 たいへんだ! 友だちがいない
「あれが目印の点字図書館ですね」
駅からずっと、チラシに印刷された地図を見ながら歩いていた山口さん。彼女が指差した建物を見た。
……なんだあれは!?
たしかに図書館らしい大きさ。おそらく二階建て。
そんなことより、建物の壁全体に、等間隔で鎖がぶら下がっている。
「な、なんですか?」
山口さんを見た。
「謎ですね。点字図書館なんだから、壁に点字の点々が付いてるほうが、わかりやすい気がしますよね」
「でも、かっこいい建物ですね。ね? 夢……じゃなく山田さん」
山田さんこと夢原さんは、通路の反対側、前方十メートル先を睨みつけていた。
「着いた! 俺たちの戦場だ」
山口さんが、わたしのことを見て小首を傾げた。
「えーっと。山田さんって、とっても熱い方なんですね」
夢原さんは、赤い顔をしてうつむきながら、競歩のような歩き方で先に行ってしまった。
代わりにわたしが答える。
「はい。山田さんの詩にかける情熱は、日本一です」
「日本一ですか!? すごいなぁ。わたし、ちょっと緊張してきちゃいました」
そう言いながらも、ゆったりとした調子で、チラシをブレザーのポケットにしまい、後ろ手に鞄を持って歩く山口さん。
「遅いぞ!」
先に店の前まで着いたらしい夢原さんが、わたしを見て言う。
「わたしだけに言わないでください。ちゃんと山口さんともコミュニケーションしてくださいよ、山田さん。せっかく山口さんが話しかけてくれても、全然答えないじゃないですか」
数メートル先の、夢原さんを見て言った。
夢原さんが、わたしからも目をそらし、自分の足下をきょろきょろ見ている。
「いいんですよ。こうして、おふたりとご一緒させて頂いてるだけで、楽しいですから。急ぎましょう!」
山口さんが走りだした。
「わッ! ……はい」
わたしも後に続いた。
……ぎゃッ! ここか。
立ち止まった。
目の前にあるのは、外にまでテーブルと椅子のあるオープンカフェ。
そのオープンカフェで、白人男性が、コーヒーカップを傾けている。
別の席に座る白人は、ノートパソコンを広げている。
白人が……
白人が……
ふたりもいる!
なんでこんなに外国人が多いんだ。
「ほんとにこの店で合ってますか? わたし、英語で朗読なんてできませんよ……」
心配になって山口さんを見た。
「えーっと。朗読会が行われるのは、マシューズカフェで……」
三人とも、テラスにせり出したグリーンのひさしを見上げた。
そこには、白い字で、そして英語で「Matthew’S Café」と書かれていた。
「あー。わかりました」
山口さんが言った。
「もしかして、わかったって……マシューズカフェというのは……」
「マシューさんのカフェって、ことみたいですね。ほら、エプロンをかけて店内にいるあの方、きっと……」
……マシューさんだ!!
カーネルサンダースみたいだけど、ガラス越しに見える店内で、お客さんらしき白人女性と会話をしている人は、マシューさんだ。
たいへんなところに来てしまった。
こんな国際的なカフェ、山口さんは平気でも、わたしとそれに……
「山田さん!? いつの間に後ろに立ってるんですか? さっきまで、わたしたちの前にいたじゃないですか」
「いや、あ、あれだ。こ、こういうのはやっぱり、レディーファーストで」
「そうですか。じゃあ、お先に失礼して」
山口さんが、ドアについた木製の取っ手に手をかけ、開けた。
数秒後にはきっと……
マシューさんを始め、店員さん達から、「ハロー」の挨拶が浴びせかけられる。
そこからはもう、英語の世界。もはや英語圏。
山口さんが全開にしたドアから、店内をそーっと見る。
やっぱりだめだ。店内にも、外国人の客が三人もいる。
あと、二十五人くらいは日本人。それでも、こんなに外国人の多いカフェ、初めてだ。
引き返すなら今。
だけど、山口さんはずんずん中に入って行ってしまった。
山口さんだけ置いて逃げるわけにはいかない。
意を決して中に入った。
マシューさんがこちらに気付き、わたしに向かって微笑みかけた。
微笑むと同時に、白いあごひげが動いた。
わー! とうとうマシューさんの口から「ハロー」が……
「いらっしゃいませ」
マシューさんは、流暢な日本語でそう言った。
続いて、カウンターの中にいる男性、女性、フロアにいる女性が、爽やかに……
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ。空いてる席へどうぞ」
……あぁ。
気が抜けた。
腰も抜けるかと思った。
ほっとして、夢原さんを振り返る。
同じく、緩んだ表情をしていた。
それに気付かれたのが恥ずかしかったのか、夢原さんは緩んだ口もとを手で隠し、眉間をぴくぴく動かし、眉間にシワを寄せようとしている。
……なにはともあれ、一安心。これで、夢原さんが、外国人に怖じ気づいて朗読ができないなんてこともない。
突然、緊張した面持ちの女性が、立ったままのわたしたちに近付いてきた。
彼女は、カールした金髪に、眼鏡、花柄のワンピースを着た大柄な女性。ちっちゃな麦わら帽子が、頭の上に乗っている。
「わー、ロリータさんだぁ」
山口さんが、小さく呟いた。
そのロリータさんはわたしに、頭を下げた。
「はじめまして。あ、あの、アリエルと、申します。えーっとですね、あの、毎回、こちらの朗読会に参加させて頂くとき、自作の詩を印刷したものを、あの、えっと、皆さんに頂いてもらってるんですけど。すいません、あの……」
アリエルさんは、縁無しの眼鏡を片手で押し上げながら、わたしに三枚綴じのA4用紙を差し出した。
「ありがたく、いただきます」
アリエルさんから受け取った用紙に目を落とした。カタカナばかりの文字と、それに、目玉とか、手がもげて、綿のはみ出したウサギのぬいぐるみのイラストが書かれていた。
一枚、二枚、と、その場に立ったまま、めくってみた。
アリエルさん……
違う!
最後のページに「亜莉ゑ瑠」と書かれているから、亜莉ゑ瑠さん。
……これは、えーっと。ちょっと怖いけど、頂いたからには大事に持って帰ります。
亜莉ゑ瑠さんは、山口さんにも夢原さんにも、わたしに言ったのとまったく同じ台詞を言いながら、用紙を渡している。
わたしはその間に三人座れる席を探す。
うーん……。
ひとつ、ふたつと、空いた椅子はちらほら見かけるけど、三人となるとなかなか……。
店内はすでに満席に近い。
空いていると思っても、よく見ると鞄が椅子の上に置いてある。
席から立ち歩いてよその席に座っている人のそばに立ち、話をしている人がたくさんいる。ふつうのカフェでは見かけない光景。
「おひさしぶり」とか「前回は即興だったけど」とか、そんな言葉が聞こえてくる。
亜莉ゑ瑠さんがわたしたちのそばから離れて行った。そして、マイクスタンドの置かれた即席舞台のそば。一番前の席まで行き、椅子の上に置いてあった茶色いトランクを床におろし、座った。
服装から見て、そのトランクは亜莉ゑ瑠さんの持ち物には見えない。
大丈夫なのかなぁ。他の人のトランクどかしちゃって……。
それにしても、三人座れる席がないなぁ。
「はじめて参加される方たちですか?」
立ち歩いて、いろんな人に声をかけていた男性が、夢原さんに声をかけた。
夢原さんは目をそらし、口籠もっている。
顎に手をあて、しばらく夢原さんの返答を待っていた彼は、壁際、ドアに近い席を指差した。
「あっち、詰めれば三人座れるからどうぞ」
物腰の柔らかい男性だった。
六人座れる大きなテーブルには、すでに四人が座っていたけど、彼が近くから椅子を持ってきてくれ、三人とも座れた。
「エントリーはもうされました?」
わたしに向かって、その人が聞いた。
「あ、あの、まだなんです」
「ここ、混雑してて、歩き回るの大変でしょ。僕、行ってきてあげますよ。あ! 僕の名前、松森優真って言います。あなたがたは?」
松森さんにそれぞれ名乗って、エントリーをお願いした。
松森さんは、すいすいとテーブルや人の間をすり抜け、天然パーマの髪を短く切りそろえた四十代半ばくらいの男性のところに行き、少し話すと戻ってきた。
「あの人が、主催の根岸健さん」
根岸さんがこちらを見て、小さく頭を下げた。
やさしそうな人だ。小学校の先生みたいな雰囲気。
わたしも、にこにこと頭を下げた。
山口さんは遠くにも関わらず、「はじめまして。山口です」とよく通る声で言い、手を振っている。
夢原さんは、なにかリアクションを返したんだか返してないんだか、見そびれた。
「はい。これ、三人分」
松森さんが、左手に持ったお年玉袋のようなものを一枚右手に持って夢原さんに渡しては、両手を合わせ、山口さんに渡しては両手を合わせ、という動作を繰り返している。
なんだか……かわいい動き。
わたしも最後に松森さんからお年玉袋を受け取った。
「ありがとうございます。あの、ところでこれ……」
「投票袋です。最後に、気に入った詩を朗読した人の名前を書いて、中にはお金を入れて、主催者の根岸さんに渡すんです。それで今夜のチャンピオンが決まるってわけ。金額は自由だし、気に入った詩がなかったら、投票しなくてもいいんですよ」
わー。そんなこと……
「チラシに書いてなかったぞ」
夢原さんが身を乗り出して松森さんを責めるかのような口調で言った。
「あらあら、根岸さんたら。あの人、まじめそうに見えて意外にてきとうだから。ま、それが彼のいいところでもあるんだけど」
夢原さんの態度にも、松森さんは嫌な顔ひとつしなかった。
それどころか、初めて参加するわたしたちに、朗読会のシステムを教えてくれる。
「朗読する順番は、根岸さんのその日の気分で決まる」
……えー!! ということは……
「初参加のわたしが一番に呼ばれる、なーんてこともあるってことですね。いやぁ、ほんとてきとうだなぁ、根岸さん」
松森さんの言葉を聞いて焦っているわたしとは対称的に、山口さんがのんびりと答えた。
山口さん……
思っていた以上に大物だ!
夢原さんは、素知らぬふりをしながらも、松森さんの言葉に聞き耳を立てているのは一目瞭然。いつ自分の順番が来るかわからないという松森さんの言葉を聞こえてからは、足を何度も組み替えたり、乾き切った手ぬぐいの位置を直したりして、あからさまに落ち着かない様子に変わった。
「あとそれからね、朗読会やってる夜は、店員さんも、呼ばなきゃ絶対に水も持ってこない」
松森さんが言った。
「あ!」
声をあげたのは、夢原さんだった。
隣に座る松森さんから目の前の夢原さんに視線を移すと、左手は手ぬぐいをいじったまま。右手は、ちょうどコップを握るような形で、テーブルの少し上で小刻みに震えていた。
ちょうど水を飲もうとしたところらしい。
松森さんと山口さんは、夢原さんの、その手に気付いていない。
わたしだけが「気付いてますからね」という視線を夢原さんに送った。
夢原さんは目をそらし、空中でコップの形をさせていた手をぎゅっと握り、床に何かを振り落とす動作をした。
蚊?
……を潰すパントマイムでごまかした?
「そういえば、『いらっしゃいませ』って言われて以来、店員さんにまったく声かけられてないですね」
斜め向かいに座る山口さんが、わたしをまっすぐ見て言った。
「え、あ、はい。そうですね。なんか、水があると思ってた人もいますけど」
夢原さんをもう一度見た。
「月に二回、朗読会のときは、どうぞ皆さん、てきとうにやってくださいっていう自由な店なの」
「すいませーん」
山口さんがさっそく店員さんを呼んだ。
水がきた。
頼んだ飲み物も、後からやってきた。
「はじめまして森千歳です」
「あ、は、はじめまして。山田、和夫です」
「山口奈津です」
同じテーブルに相席で座っている人たち、松森さんのように、混雑した店内もなんのそのと、わざわざ人やテーブルをすり抜けて、わたしたちに声をかけにきた人、何人もの人に名前を名乗った。
ほとんどの人が、ふつうのサラリーマン風の人、OL風の人。
でも、たまに変わった人もいる。
「はじめまして、だにゃん」
一見まじめな銀行員風の女性がわたしの隣に立ち、猫のぬいぐるみを動かしながら声をかけてきた。
わたしはびっくりして、声が出ない。
夢原さんも。
山口さんだけは、すぐさま手を伸ばし、猫の頭を撫でている。
「うわー。かわいい。この子の着てるお洋服、手作りですか?」
「違うにゃん。犬の洋服専門店で買ったんだにゃん」
「きゃー。猫なのに犬のお店で買ったんですねー。おもしろーい」
山口さん……すでにこの店にとけこんでいる。
だけど、わたしと夢原さんは、話しかけられれば話しかけられるほど、表情がこわばっていく。
松森さんが、持ち主から猫を借りて、携帯電話でじぶんと猫の写真撮影を始めた。
撮影者は猫の持ち主さん。
「あ! わたし、ここにいると、写っちゃうんで、どきますね」
椅子ごとずれようとした。
「いやだ。写って写って」
松森さんが、服を着た猫を動かし、わたしの顔の前で首を左右に傾けさせた。
なんだか、服を着た猫は、てるてる坊主に見える。
「はい。じゃあ、遠慮なく」
松森さんと猫に身を寄せ、携帯電話に向かって笑う。
「わたしも森さんと撮りたいにゃん」
撮影者交代で、猫の持ち主さんとも写真を撮った。
もしかしてわたしは……
ここで、受け入れられている?
山口さんを見ると、彼女と話したい人、男の人も女の人もさりげなく列をなしていて、その列は、ずっと奥の、トイレのほうまで続いていた。
夢原さんはといえば、椅子に座った女性たちからの、さりげない視線を集めている。整った容姿のためか、「誠」の手ぬぐいのためか……
わからないけど、そんな夢原さん本人は、さっきから三十代半ばの男性と話をしている。
……あぁ、やっぱりわたしは!
わたしたちは……
受け入れられている?
でも、人ってそう簡単に、受け入れてくれるものだろうか?
二年間短大に通っても、いろいろなところでバイトしても、こんなふうに受け入れてくれる人たちはいなかった。
「はーい。森さん、恵ちゃん、猫ちゃーん、もう一枚」
松森さんが再び携帯電話をこちらに向けた。
そして携帯電話越しに、口もとだけ見える松森さんが言った。
「森さん、わたしゲイなの」
椅子に座ったわたしの横で腰をかがめ、携帯電話を見つめる猫の持ち主さん……恵さんは、笑顔でまっすぐ携帯電話を見つめたまま。
さっきまで白人に怯んでいたわたしが、初めてゲイの人に会ったというのに……
「はじめまして」
……びっくりもしないし、戸惑ったりもしない。
横の恵さんと同じように、自然な笑顔なのが自分でもわかる。
「はじめましてって……もうずっとさっき、その挨拶聞いたわ」
松森さんが携帯電話を下げて、わたしを正面から見つめた。
「あはは、はは。そうですね」
「ここは、誰でも受け入れてくれる、わたしにとって大切な場所。みんなにとっても、大切な場所」
……わたしもここを、大切な場所だと思っていいんだ!!
「そうだ、にゃん」
わッ! いつのまにか恵さんの手から、また松森さんの手に猫が渡っている。
「いいかげん帰りたいって言ってるー。その子はわたしのことが一番好きなの〜」
恵さんが、松森さんの持っている猫に手を伸ばした。
「はいはい。もうお帰り。ありがとね、恵ちゃんと猫ちゃん」
松森さんは彼女に猫を返し、彼女と猫に手を振った。
彼女もわたしと松森さんに手を振って、猫を大事そうに抱きながら席に戻って行った。
「では、そろそろ、朗読会を始めたいと思います。今日もたくさんの人に集まっていただき……」
根岸さんの、マイクを通した挨拶が始まった。
立っていた人たちが、次々と自分の席に戻って行く。
「夢原さん、さっきの人と、なんの話をしてたんですか」
向かいに座る夢原さんに、小声で聞いてみた。
「いや、ちょっと、あの、詩の話だ」
夢原さんは、うつむいた。そして付け足した。
「ここ……いいところだな」
「はい。わたしもそう思います」
根岸さんのほうに向き直った。
「えー。今日のお題は、前回告知していたとおり、『友』です」
……え!
わたし、夢原さん、山口さんは、顔を見合わせた。
どうしよう。わたしの用意してきた詩は、「短大のときひとりで行った動物園で見た、オオサンショウウオがかわいかった」っていう内容の詩。それから家族のことを書いた詩。
あともうひとつは、タイトル『書店員の牛島さん』。その三篇しかない。
三篇とも、友だちの詩なんかじゃない。
「お題があったんですね。でも、ちょうど良かった。わたしの用意してきた詩、友だちの不運な境遇を書いた詩なんで、テーマにぴったしです」
山口さんが、うさぎのキャラクターの書かれたスケジュール帳を開き、それを見ながら言った。のぞき見ると、今日の日付のところに、わたしには絶対書けないような小さな文字で、詩らしきものがびっしりと書かれている。
「俺は……俺は……俺は」
夢原さんはいつものモレスキンを、ものすごいスピードでめくっている。
よく見ると、手が震えている。
「仕方ない。この詩を披露するしかない。仕方ない。緊急事態だ。やるしかない。仕方ないんだ」
ふたりとも、友だちのことを書いた詩があるらしい。
だけど、わたしにはない。
ひとり何篇くらい読むのかわからないから、三篇用意してきたけど、その中に友だちについて書いた詩は一遍もはなかった。
……違う。
何篇用意してきても、わたしの持ってきた詩に、「友だち」の詩はなかったはず。
「どうしたんですか? 森さん」
涙ぐんでいるのを隠すため、目が痒いふりをして目元を掻いていたら、斜め向かいに座る山口さんに気付かれた。
「友だちが……友だちが……いません」
「あ、えっと、てきとうに、小学校の頃とか思い出して……」
司会の根岸さんの、「では一番バッターは、松森さん」という言葉で、わたしと山口さんの会話は打ち切られた。
「え! わたしからー? 根岸さん、いつも思うんだけど、その順番、どうやって決めてるの」
「早く朗読したそうな人順」
マイクをマイクスタンドに戻し、近くの席に腰を下ろした根岸さんが、手をメガホン代わりにして叫んだ。
あちこちから、笑い声が聞こえる。
「さぁ、松森さん早く」
根岸さんに急かされ、松森さんが立ち上がった。
椅子を引いて、隣の席の松森さんを通してあげた。
「皆さん、どうもー。今日も二丁目から来ました。友だちといえば、ここで会った人、全員友だちみたいなものだけど、高校のときの友だちについて話します」
マイクを手にした松森さんは、観客を隅々まで見渡しながら話している。
……あぁ。お題にそった詩を読むだけでなく、その前に、詩に出てくる友だちのことや、友だちというものに対して思うこと、そういったことを話すようになっているらしい。
読める詩がないばかりか、語ることもない。
松森さんは、ここで出会った人全員友だちみたいなものというけど、わたしはまだ、そこまで思えない。
「その友だちとは、のちに恋愛関係になって、破局〜。だけど、友だちだったときが、一番楽しかった、かな。では、聞いてください。タイトル『部室』」
松森さんが詩を朗読している。
役者さんみたいに通る声。
さっきまでと違って、凛々しいとすら感じる。
客席を見ると、みんなの視線が松森さんに集まっていた。
こんな中わたしは、名前を呼ばれて前に出て、「友達はいません」と言わなきゃならないのか。
山口さんと夢原さんには悪いけど、今すぐ帰りたい。
ドアを見た。逃げ道確認。
ドアの近くに、牛島さんみたいに、背も横幅も大きい人が座っているのを見つけた。
スーツに、迷彩柄の帽子、サングラス、という不思議な出で立ち。
隅のほうで、ビールを飲みながら、松森さんの詩を聞いている。
「さん……森さん、大丈夫ですか? 読む詩がなくて、たいへんなんじゃ……」
山口さんがわたしに声をかけてくれた。
ずっと前から、話しかけてくれてたのかもしれない。
牛島さんに体形の似た人を観察するのに夢中で、松森さんの詩も、山口さんの声も耳に入っていなかった。
……決めた!
わたしは、『書店員の牛島さん』を朗読する。
バイト先の店長が怖くて、書店員はみな怖い人なんじゃないかと思うようになった。そのせいで、他の本屋に行ってもびくびくした。
だけど、牛島さんは、書店員にもこんなにいい人がいるんだと教えてくれた。
友だちには……
後からなればいい。
わたしはいつか必ず、書店員の牛島さんと友だちになる。
「あの、わたし、森さんのこと、もう友だちと思ってますよ」
……牛島さん、牛島さん、牛島さん、牛島さん。
『夢原翼調査書』と書いた文字を二本線で消し、新たに『詩のノート』と書いた大学ノートを開いた。
あった! この詩だ。
これを読もう。
「あのー、森さん……」
「え? あ、はい。なんですか、山口さん」
「大丈夫ですか?」
「はい! ご心配おかけしましたが、もう大丈夫です。朗読する詩が決まりました」
十二章 牛島さんと友だち
「俺には親友がいた。まだ学校にもあがっていない頃だ。あいつはよく俺の家に遊びに来たが、決して自分の家に来いとは言わなかった。子どもながらに家が嫌なんだろう、俺の家にいるほうがあいつにとって居心地がいいんだろうと理解した」
夢原さんが、マイクを使っているというのに、耳を澄まさないと聞こえないような小さい声で、ぼそぼそとフィクションを語っている。
夢原さんに聞いたわけではないけど、この語りは絶対にフィクション。
夢原さんもわたしと同じように、子どもの頃から友だちがいなかったことは、現在の夢原さんを見ればわかる。
それよりも早く、夢原さんの詩が聞きたい。
早く語り終わって、詩を朗読してくれればいいのに。
朗読会が始まって一時間後の八時半に一部が終了し、十分の休憩を挟んで二部が始まった。
夢原さんは二部が始まってすぐに、根岸さんから指命を受けた。
一部、二部と分かれてはいても、一部にまだ朗読してない人が指命されるだけで、一部と違ったことをするわけではない。
一部が終わった休憩時間。松森さんは「森さんたちの詩、とっても聞きたかったんだけど、今日はこの後デートなの」と行って、帰ってしまった。
山口さんは携帯電話を見て「五回も電話してきてる」と呟くと、誰かに電話をかけていた。
「友だちと一緒だから心配しないで」
「わたしばっかり束縛しないでよ」
あんまり聞いちゃ悪いと思って、わたしはトイレに立った。
そういえば、山口さんはまだ高校生。家で、お父さんやお母さんが心配しているのだろう。
わたしも家に電話を入れようかと思って、やめた。
わたしはもう二十三歳。いくら今まで友だちも出かける場所もなくて、夜に外出をしたことがなかったからといって……
……はー。
父と母は、わたしが家にいるのが嫌になって家出したと思っているだろうか。
いやいや。父も母も、わたしが家を嫌がっていることに気付いているはずない。
そんな気の付く人たちだったら、しょっちゅうわたしの聞こえるところで言い争いをするはずはないんだから。
「中学から、あいつは私立に行った。俺は当然公立だ。中学、高校と、学校は違うがときどき会った。学校と塾の両方で忙しくなったあいつとは、月に一度しか会わないこともあったが、それでもときどき会っては……」
夢原さんの語りは続いている。
順番が来るまでに考えておいた台詞を忘れちゃったのか、夢原さんはそこから随分長いあいだ、黙り込んでいた。
今まで、ぼそぼそと小さな声とはいえ、下書きしたものを見るでもなく、つらつらと語っていたというのに……
どうしちゃったんだ?
「どうしちゃったんですかね」
山口さんも不思議そうに首を傾げた。
ふたりで夢原さんを見つめ、待った。
やっと、夢原さんが口を開いた。
「あいつと俺は……あいつと俺は……お互いの書いた詩を見せ合い……意見を交換し合った。小学校低学年まではただの遊び友だちだったが、いつしか俺らは……俺らは」
夢原さんの声が震えている。
「同じ夢を追う同士となっていた。だが、あいつは……」
そこで夢原さんが……
夢原さんが!
腕で目元を隠しながら、号泣した。
「ブラボー」
白人男性が、満面の笑みで手を叩いた。
……あー。これは完全に夢原さんの演出だと思われている。
たしかに、「誠」のハチマキ姿には、男泣きがよく似合う。
だけど、フィクションは語ったとしても、夢原さんが過剰演出をするはずはない。
一部では、いま手を叩いている白人男性が、日本人女性とともにふたりで朗読を行った。
と言っても、詩を朗読するのは女性だけで、女性が発する言葉の合間、合間に、男性は用意してきた小鼓を打っていた。
「あれじゃ、行間もなにもあったもんじゃない」
夢原さんは呟いていた。
亜莉ゑ瑠さんの朗読が終わった後なんて、「まるで学芸会だな」と吐き捨てるように言った。
亜莉ゑ瑠さんの演出は、本当にすごかった。
学芸会なんてものじゃない。
ひとり芝居だ!
マイクスタンドのある即席ステージに椅子をみっつ並べ、そのひとつに彼女が座り、あとのふたつには、黒と白のウサギのぬいぐるみをそれぞれひとつずつ置いた。
その状態で、亜莉ゑ瑠さんの朗読は始まった。
亜莉ゑ瑠さんは、黒いウサギを抱き寄せ、『白雪姫』で「鏡よ鏡よ鏡さん……」と言う継母みたいな口調で言った。
「ウサギさん ウサギさん」
腰を浮かせ、椅子ひとつ挟んだ白いウサギも持ち上げ、抱き寄せて言った。
「ウサギさん ウサギさん わたしのかわいいウサギさん あなたたちだけがわたしの友だち」
「あれはウサギじゃないですよ」
ちょっと前に、「皆さんの読む詩、難しくて意味がわかりません」と呟いてからは、開いたスケジュール帳の上に突っ伏して、机の上を眺めたり、ときどきは朗読する人をちらちら見るだけだった山口さんが、小声だけど興奮した口調でわたしに語りかけた。
「リサとガスパールと言って、ウサギのようでもあり、犬のようでもありますが、その実、どっちでもない。架空の生き物っていう設定の、外国の絵本に出てくるキャラクターなんですよ。ほら」
山口さんが、自分のスケジュール帳を掲げて見せた。
亜莉ゑ瑠さんのいま撫でているぬいぐるみと、山口さんのスケジュール帳の挿し絵を見比べた。
……うわ! 気付かなかった。
「ほんとに同じですね。ウサギじゃないんですね」
「ウサギじゃないんですよ」
小声で笑い合った。
「だけど! こんなもの! こんなものー!」
突然、亜莉ゑ瑠さんの叫声が聞こえて、びっくりしてステージを見た。
亜莉ゑ瑠さんは、隅に置いて合ったトランクを引き寄せた。
……あ! あのトランク、亜莉ゑ瑠さんのだったんだ。
トランクを開けると、リサとガスパールを投げ捨てるようにトランクに入れ、ぎゅうぎゅう押し込み、ふたを閉めた。
「トランクに詰め込み 海に投げ捨て わたしはひとり ゆく」
……亜莉ゑ瑠さんが!
リサとガスパールを詰め込んだトランクを持って……
本当に行ってしまった。
店を出て行ってしまった。
……どうするんだろう?
亜莉ゑ瑠さん、飲み物だけじゃなくベーグルサンドとかサラダとか、デザートまで食べてるのが見えたけど、あれ全部、無銭飲食!?
数十秒後、亜莉ゑ瑠さんはふたたびドアを開け、店の中に入ってきた。
客席からは、笑いと拍手。拍手より、笑い声のほうが大きかった。
「いつも楽しい演出で楽しませてくれる亜莉ゑ瑠さんですけど、今日は、寅さんのように颯爽と去って行かれましたね。では、次は……」
根岸さんが、にこにことコメントを言い、亜莉ゑ瑠さんは使った椅子を元の位置に戻した。
そのときに、夢原さんは言った。「まるで学芸会だな。ここにいる奴らは、心を動かされたいんじゃなく、笑いたいだけだ」って。
それなのに、今、「誠」のハチマキを巻いて、とうとうステージ上で泣き崩れ、床に手を付いている夢原さんは、白人男性に笑われている。
彼につられ、「これは演出なのか」と勝手に思い込んだ人たちの笑い声が、あちらこちらから漏れる。
そんな事態にやっと気付いたのか、夢原さんは立ち上がった。
額のハチマキを引きちぎるように取ると、それで涙を拭いた。
そして、投げ捨てた。
ハチマキが宙を舞い、余計に笑いが起きた。
「べらべらしゃべるのは、ここまでだ。お前らとは違う、本当の才能というものを見せてやる。聞かせてやる。これがわかんないなら、一生こんな場で馴れ合いの関係に満足していればいいさ」
詩の朗読を終えた夢原さんが、戻ってきた。
椅子を引いて、席に付いた。
ステージでは、もう次の人が、「友だち」についてのエピソードを語っている。
夢原さんが朗読しているあいだ、それに、夢原さんがステージからここに戻ってくるまでの何十秒かのあいだ、夢原さんに言うことを何度も頭の中で繰り返し呟いていた。
『素晴らしかったです。感動しました。わたしにも、そんな幼なじみがいたら良かったなって、思いました。でも、友だちの裏切りは許せません。絶対見返してやりましょう』
決めておいたのに……
決めておいたのに……
言葉が出ない。
夢原さんは、テーブルの上に肘を付き、組んだ両手の上に顎を乗せている。
朗読している人を見ようともしないし、わたしと目を合わせようともしない。
険しい表情だけど、本当は落ち込んでいるのかもしれない。
夢原さんの朗読の後、拍手の音はとても小さかった。
夢原さんの言うとおり、笑いをとるような内容の詩を読んだり、演出をしたりした人への拍手は大きい。
わたしだけでも、『感動しました』って、夢原さんに言わないと。
「あの、夢原さん」
「山田と呼べ」
「あ、そうだった。山田さん……」
「何も言うな」
……え?
「前に立つと、客席の反応がよく見えるんだ」
……やっぱり夢原さんは客席の反応がよくなかったことを気にしてる。
「君の反応を見ていた」
……何度も目が合うのは、気のせいだと思っていた。
「何も言わないでくれ」
それきり、夢原さんは黙ってしまった。
わたしは、他の人が朗読中だというのに、席を立ってトイレに行った。
個室に入り、便座のふたを閉めて、その上に座る。
壁には、演劇やコンサート、水墨画教室、「宇宙を語る」講演会……ハガキサイズのチラシがたくさん貼られている。
顔を手で覆った。
「なんでだ。なんでだ。なんでなんでなんで。なんで夢原さんの詩なのに……なんで感動できなかったんだ。前に見せてもらった詩には、とても感動したのに。うわーん。なんで……」
涙が止まらない。
独り言も止まらない。
「夢原さんなんだ。夢原さんなのに。夢原さん、夢原さん、夢原さん……」
立ち上がって、壁に貼られたチラシを一枚はがし、びりびりに破いて床に捨てた。
もう一枚はがし、捨てた。
はがし、捨てる。
はがし、捨てる。
はがし、捨てる。
床を見た。
……あぁ。紙吹雪みたい。
演劇のチラシは人の写真が写ってるから、ちょうど手の部分だけや、足だけの部分の紙があって気持ち悪い。
それでも全体的に見ると、とてもきれい。
……あぁ。きれいだなぁ。
「ははは。ははは。……はー。なんで……」
トイレのドアが、ノックされた。
……うわー! どうしよう。
どうにもならない。
こんな状態、他人に見られたら、何も言い訳できない。
「あー! うわー! ぎゃー!」
「も、森さん……。あの、次、森さんの番だって、呼ばれてますけど。探されてますけど」
山口さんの声だった。
「あの、山口さん。トイレには……入りませんよね」
「はい。今は入りませんけど」
山口さんに見えないように、紙吹雪を足でなるべく奥にやってから、ドアをほんの少し開けた。
その隙間から、山口さんの笑顔が見えた。
夢原さんの詩のことは、とりあえず忘れよう。
夢原さんに才能がないなんてことはありえない。
わたしが、学芸会みたいなこの場に馴染んでしまった、本当に良い詩に感動できない、だめな人間なだけなんだ。
トイレから、おそるおそる外に出た。
「緊張しちゃいましたか」
山口さんが、わたしの手を握り、そのまま席まで連れて行ってくれた。
その後は、大学ノートを胸に抱え、マイクスタンドに向かってひとりで歩いた。
振り返って夢原さんを見たら、目が合った。
目を、そらされた。
ごめんなさい。感動できないばかで、ごめんなさい。
「あ、えっと……」
背伸びして、マイクスタンドにセットされたマイクに向かって声を発した。
足がつる。顎が筋肉痛になる。
「これ、取れるからね。それとも、マイクスタンド低くする?」
根岸さんが中腰の姿勢で寄ってきて、マイクスタンドからマイクを取ってくれた。
「あ、すいません。じゃあこれ、お借りします」
根岸さんからマイクを受け取った。
深呼吸。
マイクに息を吐きかけ、「ゴー」という音が店内に響くと、また小鼓の白人男性が盛大に笑った。
山口さんも笑っていたけど、それはやさしい微笑みで、それと同時に、「がんばって」というジェスチャーを送ってくれた。
短大のときに出た、町内カラオケ大会を思い出す。
「もうどうとでもなれ」と思うと、わたしは強い。
夢原さんを恐る恐る見た。
下を向いて、わたしのことなんて見ていない。
わたしは夢原さんに嫌われた。夢原さんの詩を理解できないわたしから、夢原さんは去って行く。わたしは……夢原さんを失った。
もう、どうとでもなれ!
「森千歳です。よろしくお願いします。えっと、わたしには友だちがいません。友だちになりたい人ならいます。ほんとは、あとふたり、友だちになりたい人がいたんだけど、ひとりとはたぶん今日限り会えなくて、わたしはその後、路頭に迷うことになります。でも、そのことは、いまは忘れて、『書店員の牛島さん』というタイトルの詩を朗読します。牛島さんとは、まだ友だちじゃないけど、後から絶対友だちになるので……嘘じゃないので、この詩を読ませてください」
夢原さんが、顔を上げるのが見えた。
こちらからは、客席が本当によく見える。
「『書店員の牛島さん』
のっそのっそ 脚立が動いた 近付いてきた
わたしは驚き 飛び退いた
怖かった 嫌な思い出 蘇った
怖がるわたしに 牛島さんは
棚から本を取ってくれた 脚立を持って去ってった
のっそのっそ 脚立とともに 去ってった
手のひらに 温かい本が残った」
朗読し終えると、おじぎをした。
なんだか照れ臭い。本当に、学芸会みたいな照れ臭さ。
だけど、なんだかやり遂げた満足感もある。
ガタガタッ。
ドア近くの席に座っていた、スーツを着て迷彩柄の帽子をかぶり、サングラスをかけた、牛島さんのように大きな体をした人が立ち上がった。
客席中が彼に注目する。
彼は帽子を取り、サングラスも取り、わたしをじっと見据えた。
目からは涙が流れ続けている。
五メートルくらい離れた距離で、見つめ合う。
「牛島さん!」
「はい。牛島です。素晴らしい詩をありがとうございました」
牛島さんは、わたしに向かって深々とおじぎをすると、帽子とサングラスの他に、黒い鞄も持って、店から出て行った。
「ほのぼのとした詩でしたね。では、ここでまたいったん休憩を挟んだあと、第三部に入ります」
席まで戻ろうと歩いている最中、根岸さんの声が聞こえた。
自分の席じゃなく、さっきまで、牛島さんの座っていた席に駆け寄る。
テーブルの上には、伝票と千円札三枚。封筒がふたつ。ひとつは、投票袋。
……あ!
投票袋を裏返すと、万年筆で書いたと思われるきれいな字で、「もりちとせさん」と書かれていた。
それに……
「あー!」
もうひとつの封筒には、「牛島徹」と牛島さんの名前が書いてあるけど、裏返したら「辞職願」と書かれていた。
山口さんと夢原さんが、わたしのそばに立っていた。
「わたし、追いかけます! 牛島さんを追いかけます」
「なんのためにだ!?」
夢原さんが訊いた。
「思いとどまらせないと。牛島さんに、書店員を辞めてほしくないんです」
「でも、ここに置いていったってことは……」
山口さんが、夢原さんを見た。
夢原さんが頷いた。
ふたりが何を考えているのかわからない。
ここに忘れていったからといって、辞職願なんて何枚でも書ける。家に帰って牛島さんが辞職願を書いて、明日の朝提出してしまったら、牛島さんはもう書店員じゃなくなってしまう。
あんなに素敵な書店員、他に会ったことないのに。
辞めちゃだめだよ、牛島さん!
牛島さんのテーブルの上にあったものを全部かき集め、牛島さんの会計と自分の会計を済ませた。
「わたし、牛島さんを探します」
トートバックを肩にかけ、山口さんと夢原さんに向かって宣言した。
山口さんが右手を挙げた。
「はい! わたしも手伝います」
「え!? でも、山口さんは、まだ詩の朗読が……」
「とっくに終わりましたよ。森さんがトイレに篭っているあいだに」
山口さんはすばやい動作で根岸さんのところに挨拶に行き、その後、会計をするためレジに向かった。
「夢原さん。夢原さんは、残ってくださいね。投票が残ってるし。夢原さんはチャンピオンに……」
「なれると本気で思っているのか?」
「……」
「なれたとしても、こんなとこでのチャンピオン、こっちから辞退してやる」
三人で店を出ると、牛島さんがいないかまわりを見渡しながら、駅方面に向かって走った。
十三章 感動にも相性がある
鎖のぶら下がった点字図書館を越え、シャッターの下りた雑貨屋や郵便局を左右に見ながら、わたしたちは駅前に向かって全速力で走った。
わたしたちの全速力というより、夢原さんの全速力。
大股で走っているけど、夢原さんには追いつけない。
前方三メートルのところで、夢原さんの一本に縛った髪の毛が揺れているのが見える。
「ずっと……考えていたんだが……はぁ、はぁ」
前を走る夢原さんが、息を切らしながら振り返らずに言った。
「なんですか? 夢原さん」
わたしにとっての全速力の、さらに全速力。
もう、左右を見ながら走っている余裕はない。
とにかく牛島さんが電車に乗ってしまう前に駅前に着かないと。
それに、夢原さんの言いかけた言葉が気になる。
夢原さんの隣に追い付き、横を走る。足がもつれそうだ。
「君に見せた手帳。あれに書いた……百篇近くの詩……」
「素晴らしい詩ばかりでした」
「君は泣いた」
「な、泣きました」
「感動……した」
「しました」
横断歩道の前で、夢原さんが立ち止まった。
赤信号。夢原さんの横に並んだ。
この横断歩道を渡れば、駅と、それに駅前ロータリー。
そのあたりにまだ、牛島さんがいるかもしれない。
「なんでなんだ……。なんで、感動してくれなかったんだ」
同じく赤信号をまっすぐ見据えていた夢原さんが、言った。
「わたしは……」
夢原さんの詩を聞いて、トイレに篭って、その後は、それについて考えないようにしていた。
今も、牛島さんのことだけ考えようと……
「ごめんなさい。わたしにもわかりません。なんで感動できなかったのか、わからないんです」
信号が青になった。
「とりあえず渡るか……。あ! いないじゃないか。まったく」
夢原さんが、信号を渡らずに、あたりを見渡している。
「牛島さんなら、まだ駅前にきっといますよ」
「違う。君の友だちだ」
……わたしの友だち?
やっぱり牛島さん?
「山口さんとか言ったな」
あ! たいへんだ。山口さんが……
「いない。どうしよう」
「戻るしかないだろ!」
もと来た路地へ戻り、点字図書館が見えたところで、山口さんを見付けた。
点字図書館の横に、紺色の車が停まっている。そのそばに、携帯電話を片手に持った山口さんが立っている。
隣では、馬の刺繍の付いた緑色のポロシャツを着た男の人が立っている。右手の親指と一差し指で煙草をつまみ、口もとに持って行っては、煙を吐いている。
あの人は、前にも見たことがある。前に見たときはスーツを着ていた。
マンガ喫茶で、山口さんと言い争いをしていた人だ。
「森さーん!」
山口さんが顔を上げ、こちらに気付いた。手を振っている。
夢原さんと顔を見合わせ、山口さんのところまで走った。
「ごめんなさい。捕まっちゃいました」
山口さんは、ちらりと男の人を見た。
彼はわたしと夢原さんに小さく頭を下げると、煙草をくわえて車のドアを開けた。
山口さんは、運転席に座って前を見据え、煙草を吸い続ける男の人を五秒くらい見つめた後、こちらに向き直った。
「やだな、うっかりしてました。さっきから、森さんのケータイ番号探してたんですけど、そういえばまだ、聞いてませんでしたよね」
山口さんの様子が、ちょっと変。いつもの山口さんとは違って、おどおどして見える。
「わたし、番号教えてないんじゃなく、携帯電話を、持ってないんです」
「あ……そっか。そうだったんですか。とにかく、ごめんなさい。本当にごめんなさい。『待ってー』とか……ちゃんと声かければよかったのに。彼が急に来るものだから、慌てちゃって」
山口さんは、言葉どおり慌てた様子。髪の毛に手を触れたり、スカートやブレザーに手をやり携帯電話をしまう場所を探したり。
さりげなく体を傾け、車の中を覗いてみた。
山口さんの通学鞄が、助手席のシートの上に乗っている。
緑色のポロシャツを着た男の人が、灰皿で煙草の火を消した。
「気にしないでください。山口さんはまだ高校生なんです」
彼はきっと、山口さんのお父さん。
「お父さんにしてはずいぶん若いな。あいつは誰だ?」
夢原さんが山口さんに訊いた。
山口さんが車の運転席を見つめ、唇を噛んでいる。
「失礼ですよ、山田さん。人にはそれぞれ事情があるんです」
お母さんが再婚して血の繋がらないお父さんかも知れないし、カツラをかぶって若作りした五十代のお父さんかもしれない。
「そういう無神経なところ、直したほうがいいですよ」
「いや、でも、もしかしてあいつが山口さんの詩に出てきた先生ってことも」
「あるわけないじゃないですか。先生と恋愛してるのは、山口さんじゃなく、山口さんの友だちなんですから」
夢原さんは、運転席に座る山口さんのお父さんを疑わしそうに睨みつけている。
「えっと、あの、そういうわけなんで、わたしはこれで」
山口さんが横歩きで今まで立っていた位置からずれ、運転席側のフロントガラスに寄りかかりながら言った。
「牛島さん探し、手伝えなくて本当にごめんなさい」
山口さんが唐突に、勢い良く頭を下げた。
長い髪が、頬にかかった。
山口さんが上半身を折り曲げたために、運転席に座る山口さんのお父さんの姿がもう一度見えた。
ハンドルに頭を突っ伏していた。
わたしと夢原さんはふたり、とぼとぼと駅前に向かって歩いている。
山口さんは判れ際、頭を上げると同時に素早く助手席に乗り込み、去って行った。
朗読会に誘ってくれたお礼を言いそびれた。
手を振ることもできなかった。
「牛島さんだって、もう……いませんよ」
歩きながら言ったけど、夢原さんは答えない。
「いませんったら」
もう一度言ってみた。
「そうかもしれないな」
無言で横断歩道まで歩いた。
青信号が点滅する横断歩道を小走りに渡りながら、夢原さんの横顔を見上げた。
「お父さんじゃ、ないんですか?」
「たぶんな」
「でも、山口さんは言ってました。先生と恋愛してるのは友だちだって……。それに、それに、さっきの人もお父さんだって、山口さん本人が言ってたじゃないですか!?」
「そろそろ、現実を見るべきだ。君も、それに……。あーーーーー!!」
夢原さんが、背中を後ろに反らせながら駅前ロータリーを指差した。
う、牛島さんが……
座っている。
花壇の石囲いに座って、鳩と戯れている!
「牛島さーん!!」
わたしは走った。
山口さんのお父さんのことも、夢原さんの詩のことも、いっさい忘れて牛島さんに向かい、まっしぐらに走った。
走りながら、トートバッグから牛島さんの辞職願と、わたしへの投票袋を取り出した。
牛島さんの目の前で立ち止まった。
鳩が一斉に飛び立った。
「ぎゃッ!!」
……フンをかけられる。
両手で頭をかばった。
振り返ると、すぐ後ろで、夢原さんも同じ姿勢を取っていた。
「いましたね」
夢原さんに言った。
「いたな」
夢原さんが笑った。
牛島さんは、わたしを見上げ、しばらく驚いた顔をしていた。
「これ!」
牛島さんを見下ろしながら、辞職願を両手で差し出した。
「辞めたらだめです」
「あぁ……」
牛島さんは、本を手渡してくれたときと同じ、優しい目をして笑った。
あのときはよく見なかったけど、笑うと顔にシワが何本もできる。そして、シワに押された頬の肉が盛り上がって見える。
「ありがとう! 心配してくれて。でも、辞めませんよ」
驚いて、牛島さんの辞職願を地面に落としてしまった。
いったい何が、牛島さんの考えをこんな短時間で変えたのか。
……鳩?
「まぁ。ふたりとも、かけませんか。石でおしりが冷たくて、気持ちいいですよ」
牛島さんが、隣に置いていた菓子パンの袋と帽子を膝の上に乗せた。
わたしはそこに座った。
夢原さんは、牛島さんを挟んで反対側。牛島さんと、人間二人分くらいの距離を空けて座った。
わたしたちが座るのを確認すると、牛島さんは語りだした。
目の前で、酔っぱらった学生五、六人が、阿波踊りのような動きをしてはしゃいでいるというのに、牛島さんが静かにゆっくりと語るため、わたしたちのまわりだけが、とても静かな場所に感じられた。
「妻に、なんて言うか考えていたんですよ。いきなり『辞めるのを辞めた』では、びっくりするでしょうからね」
「本当ですか!? 本当に、辞めちゃわないんですか?」
牛島さんの顔を覗き込んだ。
「本当ですよ。その、投票袋を開けてみてください」
牛島さんが言った。
そういえば、まだ中を見ていなかった。
「でも、くれた本人の前で金額を確認するなんて失礼なんで、これは家に帰ってから」
「あなたへの、短い手紙も入れたんです」
「手紙……ですか?」
「読んでください」
ポチ袋で代用されている投票袋に、封はされていなかった。
中を覗き込んでみた。
お年玉をポチ袋に入れるときと同じように、四つ折りにされた一万円札が入っている。
一枚じゃない。二枚か、三枚。
こ、こんな大金……。
牛島さんの顔を見た。
……あぁ。それよりも手紙だった。
お金と一緒に入っていた、小さな紙を取り出した。
そこに書かれた文字を音読する。
「『あなたの詩が、わたしの人生を変えてくれました。同期がみな本社に呼ばれる中、わたしひとりが永遠に店頭業務。自分の能力が評価されないことに苛立ちを感じ、辞職を考えていました。が、それは取りやめます。あなたのようにわたしの書店員としての働きを認めてくださる方がいる!
定年まで、誇りを持って店頭に立ちたいと思います。牛島徹』って……。あの……」
「読んで頂きたいとは申し上げましたが、まさか音読されるなんて」
牛島さんが、真っ赤になった顔を腕で隠した。
さらに、膝に乗せていた帽子を手に取って、目深にかぶった。
そして、立ち上がった。
「終電に間に合わなくなってしまうので、わたしはこれで失礼します。森さん、本当にありがとうございました」
「待ってください!」
歩き出した牛島さんが、振り返り、立ち止まった。
「聞きたいことがあります」
「どうぞ。聞いてください」
花壇の石囲いに座って、「考える人」みたいなポーズをしている夢原さんを手で示した。
「この人は、プロの詩人なんです」
夢原さんが一瞬、顔を上げた。
だけどすぐに下を向き、激しい貧乏揺すりを始めた。
「だから牛島さんは、この、山田さん……いえ、夢原さんの詩には、きっともっと感動しましたよね。わたしの詩なんかより!」
牛島さんが夢原さんに微笑みかけた。
夢原さんは牛島さんを見ていない。とはいえ、牛島さんの口からこれから発せられるであろう言葉に、耳を澄ませていることは空気から伝わってくる。
「彼の詩も、とても素敵な詩でした。ですが、わたしはあのとき、退職や、今後のことで頭がいっぱいだったんです。せめて妻の前では気丈に振る舞えるようにと、気分転換のつもりで朗読会に参加してみたものの、やはり、頭にあるのはそのことばかりで」
「じゃあ、夢原さんの詩には、それほど感動しなかったって……ことですか?」
牛島さんに詰め寄った。
牛島さんは、わたしから目を逸らした。
「それに、わたしが朗読しようと用意してきた詩のタイトルは『本だけが友だち、妻は戦友』です。つまり、わたしには、友人がいません」
「友だちがいないと、友だちの詩には感動できないんですか?
だからわたしは、夢原さんの詩に、感動できなかったんですか。じゃあなんで、バラックに住んでないわたしが、バラックの詩に感動したんですか?
やさしいおじいさんとやさしいお母さんに会ったことのなかったわたしが、夢原さんの詩に感動したのは……」
なんでなんだ?
「なんでですか? 牛島さん」
牛島さんが、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、後ずさりながら額の汗を拭っている。
「すみません。わたしは、趣味で詩を書く程度の者です。確かなことはわかりません。もしかしたら、いつ、どんなときでも人の心を動かしてしまう、天才的な詩というのがどこかに存在するのかもしれません」
「じゃあ、きっとそれが夢原さんの詩です。そのはずなんです」
すがるように牛島さんを見た。
「わたしはまだ……そういった詩に出会ったことはありません。いえ、わたしの人間性が浅く、日常の細々とした出来事にばかり気を取られているため、自分と同じ境遇の描かれた作品にしか感動できないだけ、ということも充分考えられます。あなたのおかげで退職を思いとどまることができたというのに、なんのお力にもなれず……すみません」
牛島さんはわたしに背を向けると、改札に向かって歩いて行った。
ゆったりとした足取りのその背中をしばらく見ていた。
牛島さんが改札をくぐり、見えなくなった。
夢原さんを振り返ると、牛島さんはもう見えないというのに、駅の改札のほうを睨みつけていた。
「俺は、誰もがいつ何時でも感動する、完璧な詩を書いてやる!」
夢原さんは、再び集まり始めた鳩に囲まれながら、きっぱりと言った。
「それって、どんな詩ですか?」
襖の向こうの、夢原さんに向かって言った。
ここは夢原さんの家。ふだんはおじいさんが使っているという部屋にふとんを敷いてもらい、夢原さんの部屋とを区切る襖を枕にして横になっている。
牛島さんが帰ったあと、わたしたちもすぐに電車に乗った。
電車の中でも夢原さんに、同じ質問をした。
「どんな内容の詩なら、わたしはまた感動できるんですか? いつでも感動できるんですか? いつまでも感動できるんですか?
お願いですから、早く完璧になってください。この通りです」
満員に近い終電車の中で、つり革から手を放し、夢原さんに頭を下げた。
電車が揺れて、派手によろけた。夢原さんに捕まろうとしたら、よけられた。
「悪い……とっさに」
そう言ったきり、夢原さんはわたしと目も合わさず、口もきいてくれなかった。
完全にひとりの世界に入っているようだった。
窓の外をずっと睨みつけていたかと思うと、いきなり「ハッ!」と言って、肩掛け鞄から手帳を取り出し、つり革に捕まりながら器用に万年筆を走らせる、という姿をたびたび目にした。
そんな様子だったから、駅に着いてもまったく気付いていないようだった。
「夢原さん、着きましたよ」
「どこにだ?」
「駅ですよ」
「俺の駅か?」
「みんなの駅ですよ」
笑ってくれると思ったけど、笑ってくれなかった。
「バカか、君は!?」
笑うどころか、怒られた。
「なんで君がここまで着いて来てるんだ! ここは俺の家がある駅だろ。君は反対方向の電車に乗って……」
……そして、JRに乗り換えないといけないんだった。
反対方向へ向かう電車の、終電がたった今出発したことを告げる駅員の声がホームに響いていた。
「誰もがいつ何時でも感動する詩とは……」
襖越しのため、夢原さんの声が、くぐもって聞こえる。
「……詩とは!?」
天井にぶら下がっている電気の傘を見上げながら、声を張り上げた。
「誰もがいつ何時でも感動する詩とは」
夢原さんが同じ言葉を繰り返す。
「そんなもの……」
隣の部屋で夢原さんがふとんから起き上がるのがわかった。
襖が開いた。
夢原さんのお母さんから借りた小花柄のネグリジェのサイズが大きくて、胸元が大きく開いているのが恥ずかしい。
胸元を押さえながら振り返った。
薄水色の半袖パジャマを着て、長い髪の肩にかかった夢原さんが、目の前に立っていた。
ふとんの上に座り、願うように夢原さんを見つめた。
「そんなものない」なんて、言わないでほしい。
……お願いだから。
「俺が書く。君は安心していろ」
夢原さんは、静かに襖を閉めた。
目を閉じた。
十四章から最終章まではこちら 長編小説「ハローわたし」(「はじめて物語」より改題)4/4 - 楽しい日記