リクエスト制
なんかバカなこと書きたいなぁ。
森にえはバカなんだよ。
森にえの中の人はねぇ、1回1万2千円もする有名なカウンセリング室に2回だけ行って、2回目の翌々日の深夜、いきなりカウンセラーに言われた数々の言葉を思い出して、腹が立ってリストカットする……
やっぱりバカな人なんだ。
……って、違うんだ。
森にえの中の人はプライドが高くて、人にバカと思われるのが嫌で、カウンセラーに対し、ありったけの知識と専門用語を駆使することにより、「わたし、全部知ってますから」って態度を取る、お金払ってまで臨戦態勢な……
バカな人なんだ。
しかも「ありったけの知識と専門用語」が少ないだけに、痛いんだ。
『「ボーダー」って言うと、もうみんな知ってる流行り言葉みたいなもんだから、ここはいっちょ日本人らしく漢字でいってみよう』
「わたし、境界……」
なんだっけ?
思い出せないよーーーーー!!
「えっと、なんでもないです。やっぱり次に来たときは、アダルトチルドレンの話でお願いします。わたし、アダルトチルドレンだってことをもう10年前から知っていたんでッ! 10年前にッ!! こちらのカウンセリング室のアドバイザーを務める先生の本を読んでまして。もう10年前から……知っていたけど……でも、現実を見ないようにしていました」
次の予約はキャンセルしたから、「アダルトチルドレンの話」は、なくなった。
この猫は違う猫
結婚して少し経って、同棲していたマンションから今のところに引っ越してきたとき、わたしは「主婦らしくなろう」と意気込んだ。
同棲時代があまりにもひどかった。
天才はいつも寝ていた。
わたしはDSでどうぶつの森をやって、我に返ると、我に返ったことが嫌で寝た。
常にどちらかが畳に敷きっぱなしの布団の上にいた。
引っ越して心機一転、いっきにまともな大人でまともな主婦になろうとした。
気負いすぎたせいか、別に遠くから引っ越してきたわけでもないのに……たった1駅最寄りの駅が変わっただけなのに、心細くて自信がなくて、寂しかった。
引っ越し数日後に、スーパーへ行く途中にある駐車場に、1匹の野良猫が住み着いていることを知った。
焦げ茶のトラ模様で、尻尾が短く曲がった猫だった。
片足が悪かった。
駐車場の周りには、ちょうどよく猫じゃらしが生えていたから、その猫と遊ぼうとした。
初日は「フーッ!」と息をかけられた。
そして逃げられた。
何日も何日もかけて、駐車場にしゃがんで、猫じゃらしを持って「にゃあお」と語りかけながら、猫を馴らしていった。
全然主婦らしくない。
他の主婦たちは、猫に見向きもせず、ママチャリでスーッと通り過ぎて行った。
少し後ろめたさを感じた。
猫が、初めてわたしの持つ猫じゃらしにじゃれてくれたとき、とても嬉しかった。
時間をかけて、猫とわたしは距離を縮めていった。
そのうち猫は、わたしを見ただけで「これからじゃれるぞ」という態勢を取るようになった。
態勢を低くし、おしりを振って、猫じゃらしに飛びつく準備は万端だ、とわたしに知らせた。
猫は、猫じゃらしにじゃれたいだけでなく、奪いたがる。
猫じゃらしを取られないように上手にじゃらすのが楽しかった。
だけど、そろそろスーパーに行かないといけない時間や、スーパーからの帰り道でもう夕飯の支度をしないといけない時間になると、わたしはわざと猫じゃらしを軽く持ち、ゆっくりと動かした。
猫はわたしから猫じゃらしを奪い取り、それをくわえて軽くびっこを引きながら、車の陰まで歩いて行った。
あるとき、そうして遊んでからスーパーに行ったあとの帰り道、また駐車場を覗いてみると、猫がわたしの渡した猫じゃらしを前脚で踏んづけてじっとしているのを見た。
わたしが通りかかったことに気付くと、猫は立ち上がって、自分で猫じゃらしにじゃれ始めた。
踊るような仕草だった。
それを見て、『わたしを待っていたんだ』と思った。
「もっと遊ぼうよ」よりも、「もっと遊んであげるよ」と言われた気がした。
食品の詰まったスーパーのビニール袋をアスファルトの上に置いて、猫と遊んだ。
遊んだあとに、たまにわたしの後を付いてくることもあった。
買い物帰りでわたしに時間がなくて、少ししか遊べない日にそういうことが何度かあった。
わたしはゆっくりと歩き、足の悪い猫に歩調を合わせ、たびたびふり返りながら、『あと少し。あと少し。あと少しで家だから。家まで来て一緒に暮らそうよ』、心の中でそう思った。
縄張りがそこまでなのか、猫はいつも同じところで立ち止まり、それ以上は付いて来なかった。
その猫は、よく遊んでくれて、よく懐いたけど、触ろうとすると逃げてしまう。
だから抱きかかえて連れ帰るということはできなかった。
それに、猫が求めているのは、わたしと遊ぶことであって、わたしと住むことではないということもわかっていた。
猫は「もっと遊ぼうよ。遊んであげるよ」、そう思って付いて来るだけなんだ……
わかっていても、できれば一緒に住みたかった。
深夜にコンビニへ行ったとき、猫が道の真ん中にいるのを見た。
何かにじゃれていた。
よく見るとゴキブリだった。
駐車場の前だし、それなりに車の通る道路だ。
それなのに、道の、ど真ん中で……
足が悪いその猫は、車が来たら逃げ遅れる。
そもそも、こんなに夢中になってじゃれていたら、車が来たことにも気付かずに、轢かれてしまうんじゃないかと心配になった。
わたしは猫を駐車場の中へと誘導した。
それ以来、その猫と遊ぶのをやめた。
何かにじゃれて楽しむことを知らなかった猫が、わたしによってその楽しみを知ってしまった。
そして、そのせいで死んでしまうかもしれない。
その後も相変わらず同じ道を通ってスーパーへ行ったけど、猫の、わたしを見かけた瞬間に取る、「これからじゃれるぞ」というポーズをちらっと見ては、遊びたい衝動を堪えて早足で通り過ぎた。
猫はしだいにわたしの姿を見ても、なんの反応も示さなくなった。
寂しくなった。
わたしの姿を忘れられるのは怖かった。
わたしは寂しさに耐えきれず、駐車場に入って行って、恐る恐る「にゃあお」と語りかけてみた。
わたしの、声だけは覚えていたようで、わたしの声を聞くと何度も見たお決まりのポーズをとった。
久々に見る姿だった。
それからはたまに語りかけるだけ。
猫も耳をピクピクするだけ。
そんな浅いコミュニケーションが続いた。
猫は突然、駐車場からいなくなった。
だけど数ヶ月して、戻ってきた。
ずいぶん警戒心が強くなって戻ってきた。
初めて出会った頃みたいだった。
何か辛いことがあったのかもしれない。
わたしは通りかかっても、元気なのを確認するだけで、語りかけるのも完全にやめた。
もうわたしと猫は、離れてしまった。
それから1年以上経った。
わたしは明日、引っ越す。
昨日、猫にお別れを言いに言った。
『ずいぶんお世話になったね。もうずっと遊んでないけど、ずっと気にかけていたよ。1度見かけなくなったときは本当に心配したんだから。こっちの都合で遊んだり、遊ばなかったりしてごめんね。車に気を付けて元気にしているんだよ』
そんなたくさんの思いを込めて、わたしはひと言、「にゃあお」と言った。
今まで、ほとんど鳴かない猫だった。
それが「んにゃー」と高い声で鳴いた。
猫が餌を求めるときの鳴き声だった。
「さよなら」
わたしは言った。
猫はわたしの後を付いて来なかった。
付いてくるはずがない。
わたしが引っ越してきたばかりの頃に遊んでいたのとは別の猫だから。
同じ模様だけど、足は引きずっていないし、尻尾も短いのが同じとはいえ、曲がっていない。
1度見かけなくなって、戻ってきたときに、気付いていた。
違う猫がやってきただけだって。
でも認めたくなかった。
車に轢かれたかもしれないなんて、考えたくなかった。
もう1度猫に、「にゃあお」と語りかけた。
やっぱり「んにゃー」という高い鳴き声が返ってきた。
さよなら、猫。
箝口令がしかれました
ということで、2時間かけて書いた文章を、載せて10分もしないうちに消しましたとさ。
読んでもないのに、ちらっと電話で内容を話したら不快そうだったから。
いろんな自信が失われていく。
紙にさえ書いてはいけないという気になる。
わたしがわたしの視点で事実を書くことさえ否定されたら、わたしはしゃべらないし書かないし、ただ泣くしかない。
生きたまま捨てる
ベランダのない部屋へ引っ越すので、ガーデニングを楽しめなくなる。
本当は、もうずっと前から楽しんでいなかった。
自分が気に入って買ってきた鉢植えだったり、苗から買ってきて植えたものだったりするのに、枯れた瞬間感じてしまう、その、枯れて再起不能になった花に対する憤りが嫌だった。
カンカンに日の照ってるベランダを窓越しに見て、「今日は水をやる気分じゃない……いいや」と気分によって世話をしたりしなかったりするせいで枯れるのだとわかりつつも、枯れると「なんで枯れるのよ」と花に憎しみさえ感じた。
どの花が雨や日照りに強くて、どの花が弱いのか、5段階評価で表示してあればいいのに、と園芸屋さんや花屋さんに行くたび、いつも思った。
「直射日光の当たらないところに置いてください」などと書いてあるものもあるけど、もっとわかりやすく。
星1つとか、3つとか。
5つ。
5つのを主に買う。
1つのは買わない。
3つのがキレイでどうしても欲しくて買ってしまったら、『今日はカンカン照りだ……でも水をやる気分じゃない。は! 星3つのあいつにはなんとしてもやれねば。水をーーーーー!!』って頑張れるのに。
買ったその日に、植木鉢にマジックで星の数を書いておくといい。
忘れる心配がない。
それとも植え替えたときのことを考えて、星の形のシールを買ってきて貼ろうか……
そんなことを想像しても、実際は店で売られているときに星の表示なんてない。
店員さんに訊くでも、本やネットで調べるでもなく、これは強そうと当たりを付けて買い集めた。
それでも、道を歩けばときどき見かける「ガーデニングをしてみたけど飽きちゃいました」な庭と違って、わたしのガーデニングをしていたベランダは、他人から見たら「現在進行形で楽しんでます」というふうに見えるんだろうなぁ、という状態をキープしてきた。
常にひとつくらいは、枝だけ残って、葉も花もない鉢があったけど、それはその花に対する期待だった。
咲き終わったらもう来年は咲くことのない1年草なのか、それとも多年草なのか、調べることもなく「様子を見ていた」。
そんな鉢がいくつもあったら全体として綺麗に見えないから、様子を見るのは1鉢くらいに抑えて、他は枯れたら土ごと捨てた。
そうしてガーデニングを「現在進行形で楽しんでいる」ベランダはキープされた。
昨日、「様子を見ていた」ミニ薔薇を、いつもと違って土ごとではなく、鉢ごと捨てた。
もう鉢を使える場所はない。
今日、まだ小花のいくつか咲いているハンギングバスケットをゴミ袋に入れた。
ここ数日、水をやる気がしなかったから、寄せ植えにしていた3種類のうち1種類、白い小花だけが生き残っていて、あとの2種類は枯れていた。
今日から1日にひとつずつ、枯れている度合いの大きい順に、ゴミ袋に入れていく。
『1日にして全部枯れればいいのに』とふと思ったりもする。
そうしたら、ひとつずつなんて言わずに、一気にゴミ袋に放り込むことができる。
明るみに出ないことの辛さ
このブログはまったく意味がない。
夫の独断で、別居、離婚、とあれよあれよという間に進んでいく。
わたしは気持ちの部分では、夫の決めた方向に付いて行くかたちで、だけど行動としては自ら不動産屋へ行って、部屋を決めてきた。
ついさっき不動産屋から電話があって、わたしのお願いしていた、大家さんとの家賃交渉がうまくいったという。
家賃が1000円安くなった。
礼金が2から1へと少なくしてもらえた。
わたしは今いる3LDKのマンションから、木造アパート1Kへ引っ越し、独りで生きていくことが決まった。
今日は契約時に必要な住民票を取りに役所へ行かないと。
……なんだか機械的に動いている。
止まると日に何度も泣くから動いていないと。
止まると、泣きつく相手の誰もいないわたしは実家に電話して、余計傷付くから動いていないと。
いつも通っている精神科に行っても、初診のときに5分も話を聞いてくれなかった医者に話す気になれない。薬を多めにくれるだけだ。
動いていないと。
動いているわたしを夫は「元気そう」と言う。
このブログのアクセス数も増えた。
意識的に読み手が暗くならないギリギリのラインを目指し、ネタが離婚、そういうブログは少ないと思う。
わたしが読むとしたら、ネタが離婚じゃないにしても、暗くならないギリギリ、白々しくないギリギリ、そういうものが読みたいから、書く。
だけどわたしの日常はギリギリをはるかに超えている。
誰かに話したい。
同情されたい。
夫は実家にも誰にも離婚のことは話していないと言う。
夫にとっては、1人で抱えきれないことじゃない。
むしろ、今までの生活のほうが、抱えきれないほどの責任感や不安を必死で抱えてきたのだろう。
わたしは今、抱えきれない。
「ブログにでも書けば」と夫は言う。
だからこうして書いた。
おもしろくない本音を書いた。
くだらない。
何も満たされない。
匿名だからとかそういう問題ではない。
だってこれじゃ、読むほうも書くほうも、どっちもつまらないじゃないか。
どちらかだけでも幸せになればいいね、そんな思いを秘めて、夫だけの意思である離婚に同意した。
そもそも、結婚したいというのが、わたしだけの意思だった。
一方通行は、片方が2人分苦しむか、どちらも苦しむかしかない。
わたしは今、自分だけの意思で結婚したことへの罰を与えられている。
「だから仕方ない。仕方ない」
気付けばそう呟いて、止まらず動いている。
ワインらっぱ飲み
……を家でしてる場合じゃなくて、飯を食わねば。
食わねば。
でもジョナサンで自分と向き合うためにグラスワイン180円をきっと頼むことになるのだから、経済的で良いと思う。
(ファミレスは自分と向き合う場だ。たまに寝る場でもある)
お酒の弱いわたしは、昨日誕生日だからとケーキと一緒に買った小さな瓶のワインを飲みきれていない。
飲んで寝て、本読んで寝て、起きて飲んでを繰り返してたら、誕生日が終わっていた。
夕飯は高級スーパーで買った380円のビビンバ丼だった。
ちょっと、楽と、贅沢をしようかな、と思って入った高級スーパーで、選んだのが380円ビビンバ丼。
29歳になりました。
もう守らなくていいんだよ、ヤモリ
ドライアイ治療のため、おととい「ドライアイ外来」のある眼科で「涙点」に涙点プラグを入れてもらった。
プラスチック。
涙の通り道である涙点をプラスチックで埋めることによって、涙は排泄されず目に留まる、そんな治療法。
コンタクトレンズと違って、自分で入れたり外したりはできない。
プラスチックが埋め込まれたまんま。
ちょっとサイボーグっぽい。
サイボーグっぽくて怖いから、重度のドライアイだというのに、この治療法があるということは知っても知らないふりをしてきた。
目薬を大量に処方してくれるだけの、別の眼科に通い続けてきた。
家に帰ってきて。
わたしの感想。
「黒目って、触ると痛いっていうかなんていうか、『あッ……』って黒目が嫌がるんだね」
長年その感覚を忘れていた。
黒目も白目もいつも乾いているから……乾いていると……白目だけじゃなく黒目も指で触れちゃう。
睫毛が入っていても痛くない。
鏡を見たら睫毛が片目に2本入ってた、なんてこともあった。
乾いてる鬱陶しさのほうが強くて、そのへん、感覚が鈍くなっていた。
夫の感想。
「くっきり二重だ! 整形した?」
……してない。
わたしはもともと二重です。
と思ったけど、ドライアイになってからの4、5年というのは、夫と過ごした時間とほぼ重なっている。
ドライアイがひどいと、目だけじゃなく瞼の内側の粘膜も充血し、瞼が腫れる。
そのせいで、かすかに奥二重っぽくなっていたのが、元に戻った。
ところでさっき、iPodで「赤ちょうちん」を聴きながら自転車で家に帰ってきたら、玄関ポーチの壁にヤモリが張り付いていた。
ドアを挟んで、ポーチの右側が夫の自転車を止める場所、左側がわたしの場所、と定位置は決まっている。
一昨日、ドライアイ外来から帰ってきたときも、わたしが自転車を停める側にヤモリはいた。
今日もわたしの側にヤモリがいる。
ヤモリを見上げながら自転車を止めようとしたら、低い位置にスススッと降りてきた。
自転車のタイヤを当ててしまったら大変、と、スタンドで固定するのも忘れ、右に左にハンドルを動かしていたら、自転車ごとポーチの中でコケた。
わたしは自転車の下敷きになった。
ヤモリはいなくなっていた。
一昨日も、いなくなったと思ったのに、今日また戻ってきた。
わたしが不動産屋で物件を探していた昨日は、ヤモリは夫が自転車を止めている側に張り付いていたのかもしれない、と思った。
『でも、もう守らなくてもいいんだよ、ヤモリ』
自転車の下敷きになりながら、泣いた。
涙点プラグとは関係なしに、目が潤う日が多い。
生きてることは ただそれだけで
悲しいことだと 知りました
(「赤ちょうちん」より)