小説「華厳経」(仮題)1-4

後回しにした前職の話。わたしが文芸雑誌にエッセイを寄稿し、それからすぐに身内に同業者がいることを知られ「コネだ、消えろ」とインターネット上で罵られた。
 その時わたしは、友達に心配をかけようなんて思わずに当然のことのように、こう言った。
「だからわたしは消えるといいんだと思うよ。雑誌からとかインターネットとかからではなくてこの世の中から」
 友達の秋幸は「いやいやいや。百歩譲って君が消えるのを望んでいる人の要求を飲むとしても、それは望まれていることと違うでしょう」と言った。それからわたしに旅行を勧めた。
 その話をした場所は秋幸の部屋だった。大きな書棚がふたつある秋幸の部屋で、わたしと秋幸はコンビニで買ったビールや缶チューハイを呑んだ。翻訳の仕事をしている秋幸の本棚には、洋書が多い。わたしは酒の入ったアルミ缶の冷たい感触を手に味わいながら、たいして読めない英語を目で追った。
 秋幸とは高校の同級生で、夫とわたしが別居をし、秋幸の住むアパートとわたしの引っ越したアパートが近くなったことにより、時々自転車や徒歩でお互いの部屋を行き来する仲になった。それまでは同窓会で顔を合わせる程度だったのに。
 親しくなって以降、秋幸にはいろいろと話してきたが、ホテヘルで働き始めたことだけは言っていない。離婚を望んで別居を切り出してきた夫にも。

 ホテヘルで働いた帰り道、痴漢に遭ったことがある。駅からアパートまでの細い道を歩いていたらおしりを触られて、触られたことよりも、自分のむきだしの怒りに驚いた。
 振り返って痴漢を睨みつけたときに、お互いのあいだに殺気だった空気が流れた。暴力の前兆。前兆だけで「あぁ、そうか。わたしに力なんてなかった」と脱力したのを感じ取られ、痴漢には走って逃げられた。
 それでもたしかにわたしは、相手に暴力を振るおうと考えた瞬間があった。力なんてないと思っていても、少しだけならある。それを感じた。