肉片見て安らぐ、わたしも吹き飛べば肉片


映画館で「ランボー」の新作を観てきた。
(新作といっても、それ以前の作品をわたしは観たことがない。)
天才が観に行くというので、「じゃあ、わたしも行こっかな」という軽い気持ちで。

ところが天才は「大丈夫かなぁ。君、大丈夫かなぁ。言っとくけど気持ち悪いよ。人間が一瞬で肉片になって飛び散るからね」と、途中寄った回転寿司屋でも、バスの中でも、映画館に着いてからもずっと言っていた。

わたし自身も「だめかもしれないなぁ。そういうのほとんど観たことないし……。ダメだったら途中退場するよ。いいよね、ね、わたし逃げてもいいよね」と、天才に確認し、最後まで観られるか観られないか、半信半疑で館内に入った。

冒頭は、現実の迫害、虐殺シーン。
本物の死体。
見られないほどじゃないけど気持ち悪い。

そして物語が始まる。

兵士が地雷を投げた沼地を走らされる人々。
地雷を踏んで、吹き飛ぶ。
地雷を運良く踏まなかっために、撃たれる。
どっちにしても殺される、兵士たちの考えた残酷なゲーム。

そのときわたしは思った。

殺されたい……
頭の中が恐怖一色に染まってわけもわからないその瞬間、肉片となって吹き飛びたい!

今、わたしがいるこの場所、置かれた状況では、ただ電車に飛び込むだけのことひとつに、意志を持って、執着を捨てて……と、いろんな気持ちを持ったり捨てたりしないといけない。
ただただ、わけもわからないうちに吹き飛びたいと思った。

だけど、映画はこれだけでは終わらない。
ここはほんの始まり。

ほんとにパッパ、パッパと吹き飛んでいくんだ、この映画で。人間は。

右に走ったがために足が吹き飛び、左に走ったがために頭が吹き飛び、『あ〜。ここ最近、「わたしの人生はいろいろと選択を間違ってきたなぁ」なんて思ってたけど……』
ランボー』を観ていたら、人生そんなもんかもなぁ、という気持ちになった。
絶望より希望に近い。
希望ってほど明るい気持ちでもないけど、映画館の暗闇の中で、ふわっと安らいだ。

後半、車に乗った兵士の頭が吹き飛ぶシーンでは、声を出して「ぷはッ!」って笑った。

わたしは12歳くらいから死にたがりで、年に数回は、人知れず高いところに登っては「全然怖くない。死ねる」って確認しないと生きて来られなかった。
「いつでも死ねるから、明日も死にたくなったら明日死のう」って死ぬのを保留にすると、必ず翌日にはちょっとした良いことがあったり、とくに悪いことがなかったりして、なんとなく死なないまま年月が過ぎた。

ところが21歳のとき、同じように高いところに登っても「わたし死ねない……」と思った。
いろんな感情とか、経験とかの積み重ねで、簡単に死ぬことはできなくなっていた。

そのあたりから、わたしのメンヘラ人生の始まり。
「人知れず」だったのが「人目も憚らず」、リストカット、自殺未遂。

わたしはよく、「わたしの命は軽いよ。対人恐怖で、明日家に人が来るってだけでオーバードーズしたこともある人間なんだから」とか、自分の命は軽い、軽い、と言ってきた。

だけど、『ランボー』を観て気付いた。
(こっからいきなり、自分語りからまた『ランボー』に戻るよ!)

わたしの命は、わたしにとって重すぎた。
本当は、言葉とは裏腹に、自分の命を重く捉えすぎていた。
死ねなくなった21歳からも、それ以前の、死ねると確認しないと生きられなかった頃も。
重たすぎて持ち切れなかった。

もっと気楽に生きようや〜、わたし。
頭吹っ飛ぶの恐れて、自分で吹っ飛ばすことないじゃん。
明日はまた死のうとしてるかもしれないけど、とりあえず、今まで気付かなかったことに気付けたから『ランボー』は観て良かったと思った。

映画館の椅子を立ち上がったとき、天才が、つまらなかったんじゃないかとか、不快に思ったんじゃないかとか、いろんな感情のこもった目でわたしを見ながら「どうだった?」と訊いた。
「観て良かった。うん。観て良かった」
同じ言葉を繰り返した。