山下清とライ麦畑問題(本題)

以前古本屋で買った、山下清旅行記『ヨーロッパぶらりぶらり』はすごかった。
昭和36年発行でハードカバーなのに定価320円って書いてあったのもすごかったし、それが3000円くらいで売られてたのもすごかった。
なにより内容がすごかった。


わたしの育った家庭というのは殺伐としていて、あまり家族全員で楽しくテレビを観るということはなかった。
火曜サスペンス劇場を観ていると母は必ず「これは作り物だから。別に本当に死んでるわけじゃないから」と言うし、父はテレビを観てようが何してようが「女は奴隷なんだ。蹴飛ばして歩けばいいんだ」という話ばかりするし。


だけど『裸の大将』だけは家族でいつも楽しく観た。
みんな清が大好きだった。
母は清を見てよく笑った。
父は清を見ながらたけしの話をした。
たけしというのは父の子どもの頃の同級生だ。
やはり清と同じで、知能が遅れていたらしい。


そんな楽しい山下清さん。
彼はドラマの中にしかいなくて、母のいつも口にする言葉のように「作り物だ」と思っていた。


ところが、山下清さんの書いた『ヨーロッパぶらりぶらり』を読んで驚いた。


『ほんとに「〜だな」って言ってる!言いまくってるよ!!』


そんなわけで、「あ〜、いいものを読んだ」と思いつつ、しばらく山下清さんのことは忘れていた。


そして、数週間前、わたしは初めて『ライ麦畑でつかまえて』を読もうとした。
天才が本を大量処分するというときに、「読んだことないからいつか読もう」と思って一度ゴミ袋に入れられたのを拾っておいたものだ。


30ページくらい読んだ。
初めの数ページで「だめかも」と思ったけど、そのうち大丈夫になるだろうと思って30ページ読んでみた。
でもやっぱりだめだった。
天才に相談した。


「相談があるんだけど。ライ麦畑読みながら、山下清が思い浮かぶときは、どうしたらいいのかな?お話はすごい好きで、日常生活がまともに送れないくらい、のめり込みそうなんだけだ・・・・・・。いや、っていうか、山下清さえいなかったらのめり込んでたに違いないんだけど」と。
「なんで」と聞かれ、わたしは答えた。
「語尾が『だな』だから・・・・・・。山下清も『だな』だし、ライ麦畑も『だな』だから」
「それなら、村上春樹訳のほうで読めば」


天才のアドバイスどおり、アマゾンで村上春樹訳のほうを購入し、今そちらを読んでいる。


でも違う。
わたしが「これすごい。のめり込みそう」と思ったのと違う。


山下清さえいなければライ麦畑がちゃんと読めたのに、と思った。


山下清さえいなければ。