わたしは歩く

わたしが幼稚園に入園する前から、入園してしばらくするまで、約1年のあいだ母はうつ病だった。
1番ひどい時期は、家から一歩も外に出られなかった。
回復してきた頃には、薬の副作用で(当時処方されていた薬なので今病院で処方される薬はもっと副作用も軽減されていると思うけど)、元よりひと回りくらい太っていた。


まだ、近所付き合いが当たり前の時代で、私道を囲むようにコの字型に8軒ほど建っていた、わが家を含む一軒家は、どこの家も当たり前のように夫がいて、子どもがいた。
年の近い子どもたちは一緒に遊び、専業主婦たちは私道で井戸端会議をしていた。


母のうつ病時代、近所の人たちは、まだ小さいわたしや、母をいろいろと助けてくれた。


わたしを幼稚園に送り迎えするのを順番でしてくれた。


ひとりでは出かけるのが困難な母を病院に連れて行ってくれる人や、パチンコに連れて行ってくれる人、新興宗教団体の本拠地に連れて行ってくれる人がいた。


いろいろと世話を焼いてくれて、母の前ではいつも笑顔だった近所の主婦たちだけど、母を含まない井戸端会議の最中にわたしが横を通りかかるとぴたりと話をやめた。


「ずいぶん太った」
という言葉が聞こえたときには、やっぱり母の話をしていたんだなぁ、と思った。


そう言っていた大人の前で、後日わたしは「うちのお母さん、デブだから」とおどけたように言ってみせた。
「そんなこと言うもんじゃないよ。病気なんだから」と、たしなめられた。


宗教団体の本拠地は、家から遠かった。
ずいぶん田舎にあった。
初めの頃は、向かいに住んでいた熱心な信者の人と一緒に行ったけれど、そのうち、日曜に母と姉とわたしの3人だけで行くようになった。
姉は、建物の外にずらりと並ぶ出店でべっこ飴を買ってもらえるのが楽しみで、「今回もべっこ飴買ってくれる?」と行く前に母に確認していた。
わたしは、電車にいつも酔っていた。
べっこ飴は、甘すぎるから嫌いで、いらないと言った。


べっこ飴を売る店よりも、飴細工職人が鶴などを作る店のほうが見てて楽しかった。
高いから、1度も買ってくれなかった。
1度母に断られてからは、「買って」と言わなくなった。
見るのも、「帰りにゆっくり見なさい」と言われたからそれに従った。


宗教団体の本拠地と言っても、中は公園のようだった。
べっこ飴を買ってもらわなかったわたしは、長い車中に食べるようにと、出かける前に買ってもらった綿ガムや、母が鞄の中に入れて持ってきた鈴カステラやカリントウを東屋で食べた。


わたしたちの周りを、白い服を着た人たちがほうきを持って行き来していた。


その人たちの口にする「こんにちは」の数も、掃除をする人数も、『そんなには必要ないだろ』と心の中で思った。


羽織袴を着て、球体の上に立つ教祖(生き神様・わたしが行っていた当時に生きていたかどうか、時期的に微妙でよくわからない)の銅像がある部屋があった。
その日は、生きてたら生き神様の話……すでに生きてなかったら違う人からの話をその神殿のようなところで聞く日だった。
時間ぎりぎりに行ったので、びっしりと、人々が絨毯の上に正座していた。
真ん中の、赤い絨毯だけが空いていた。
絨毯の先に、玉に乗る生き神様の銅像があった。
5歳か6歳のわたしは、その赤い絨毯を歩いて、座れる場所はないかと探そうとした。
そうしたら、正座していた人たちが、子どものわたしに対し、すごい剣幕で怒りだした。
恐ろしかった。
井戸端会議をしている近所の人の横をわたしが通ったときに、急に雰囲気が変わる、それと似た種類の怖さで、それと同時に、わたしの中に激しい怒りのような感情が湧いた。
だけど、小さくて、言葉にできなかった。
言われたとおり、座っていい絨毯と、つま先が触れてもいけない赤絨毯の横にかろうじてある、幅7センチくらいの大理石の部分をつま先立ちで歩いて、座れる場所を探した。
母はわたしに何も言わなかった。


母がその宗教を信じているのか信じていないのかは、よくわからなかった。
母は、白い服は着なかった。
リビングに置いてある本棚の引き出しの中には、お城の写真がジャケットのカセットテープと、小冊子のようなものが仕舞われていた。
そのカセットテープは、ビニールの封が開けられていないままだった。


父は1度も参拝には行かなかったけど、母がそこに行くようになってすぐ、小冊子を隅々まで見ている姿を見た。
生き神様の銅像の写真を見て、彼を「玉乗りおじさん」と呼んだ。
日曜日に、「今日もお前たちは玉乗りおじさんのところに行くのか」と冷やかされた。
母はおもしろそうに笑って、わたしも笑って、姉も笑って、わたしたちは何度もそこへ通った。


母のうつ病が治ると、しだいにそこへは行かなくなった。
とはいえ、住んでいる家は同じだ。
向かいに熱心な信者が住んでいることに変わりはない。
行かないけれど、母はその後10年以上、お札を買い替える時期になると必ずその人にお金を預けて買ってきてもらっていた。


家計が苦しくなったのと、お互いの家が引っ越しをして数年経ったのを機に、母はお札を買うのを辞めた。
わたしは高校生になっていた。


母はその、元近所の人と喫茶店で会って来た直後に、わたしに言った。
「もうお札は買わないと言ったら、『あら〜。何か嫌なことが起きなければいいけどね』だって。そんな人だとは思わなかった」


そこの信者全体がどうあれ、その人はもともと「そんな人」だったじゃないか、とわたしは思った。


その宗教団体の本拠地に行くと毎回電車に酔うし、大人に不当に罵倒されたこともあったけど、飴細工職人が見られるし、酒飲みの父とふたりで留守番をするのは嫌だから付いて行っていた頃から、約25年が経った。


数年前から、大人のわたしの目で、確かめたいと思うことがあった。


わたしが電車に酔っていたのは精神的な理由からではないか?
あそこにいる大人たちを、大人になったわたしは、否定できるのか?
憎めるのか?


……


大人のわたしが赤い絨毯を踏んだら、やっぱり怒号が飛ぶのか?


で、先日行ってみた。

とりあえずインパクトがあるからまずこの写真を載せたけど、次から順々に。
ちなみに、参拝自由でスーッと入っていけるけど、門の中に入ったら写真撮影禁止。
噴水の中を球形のものがぐるぐる回るオブジェを撮ろうとしていたら、白い服を着た80歳くらいのおじいさんに、「まだ撮ってないよね? ね?」と念を押され、「門の外からなら撮ってもいいから」と言われた。なので、これも門の外から。



日曜なのに電車は空いている。

宗教くらいしか目立ったものはない街だから。

パン屋があった。
やたらおいしかった。
電車の中で吐くのを想定してエチケット袋を持っていくかどうか迷ったくらいだったけど、疲れただけで酔わなかった。

宗教くらいしかない街なんて失礼だ。
大学もあった。
だけど、この表示、大学側としてはどう思っているのか、どうなっているのか。

着いた!
交通整理だ。
横断歩道も信号もあるけど、わたしが数時間、門の中にいて、出てきても、やっぱり同じ人が交通整理をしていた。

焼きそば屋しかなかった。
焼きそばを1パック買いながら、「他のお店は、みんな辞めちゃったんですか?」と訊いてみたら、「暑いから今、みんな来ないだけ」と言っていた。
ついでに、「ここでお店をやられて何年ですか」とも訊いてみたら、「30年」て!!
「わたし、25年ぶりに来たんです」と話した。


外から撮った写真はこのへんにして、わたしが中で何をしてきたかというと、確かめたいと思っていたことは、とりあえず全部確かめられた。


電車は、電車の中で確かめた。
酔わなかった。
いまだに精神的な理由とか、首の凝りとかで、電車に酔いやすいわたしが、長旅なのに酔わなかった。
やっぱり、子どもの頃、わたしは『行くのが嫌だったんだなぁ。飴細工職人見たさは、その嫌さにまさってはいなかった!』という結論に達した。


敷地内は、車いす率が、街なかや娯楽施設、ふつうの公園に比べてはるかに高い。
平均年齢も高い。
小さな子どもを連れた夫婦も何組か見かけて、どの家族も絵に描いたような幸せな家族に見えた。
子どもはもう高校生くらいとか、大学生くらい、という家族もいた。やっぱり楽しげに見えるのだ……。
門の外で、お宮参りなのか、着物を着せた赤ちゃんを抱く中年女性(お宮参りだとしたら赤ちゃんの祖母)を囲む三世代の家族がいた。


そうしていろんな人を見ていると、否定できないし、否定する権利もないし、憎めないけど、気持ちが悪いと思った。


25年前と変わらずあちこちで飛び交う「こんにちは」の挨拶。
わたしにも向けられたけど、すべて無視した。


たとえば強制されたなら、わたしはその場に立って、もともと小さな声をありったけ張り上げて「皆さーん! こんにちは!!」と、たった1回だけ叫びたいと思った。
人が多すぎるから、同じ人に何度も挨拶されて、こちらもそれに答えるなんてたいへんじゃないか。


最終目的。
最大目的。
赤絨毯!!
神殿(たぶん違う固有の呼び名がある)の前で、白い服の人から、再利用するシステムのグレーのビニール袋を受け取って、靴をその中に入れた。


25年ぶりに見た!!
赤絨毯と、その先にある、父が玉乗りおじさんと呼んでいた生き神様(だからもう死んでいる。かつて生き神様だった人)の銅像
今は「二代様」が教祖らしいけど、そこにあるのは子どもの頃見たのと同じ、初代教祖の銅像だった。


意外に人が少ない。
わざわざ赤絨毯を避けたり踏んだりしなくても、足を1歩踏み出すだけで、信者が座る用の藤色の絨毯の上を歩ける。
見ていると、正座した人々は、銅像に向かって2度手を叩いたあと、絨毯に頭を付けて、顔を上げると銅像をじっと眺めたり、そこにしばらく座っていたりする。
最後は立ち上がって、その場を後にする。


どうやら、今日はこの場で話を聞けたりはしないらしいとわかったので、藤色の絨毯の上で手を叩くでも頭を下げるでもなく座っていたわたしは、立ち上がって入り口に引き返した。


……でも、どうも気になる。


赤絨毯と、玉に乗ったあの人が。


わたしは、来る前に電車の中で思い返していた。
自分の人生を。
初対面の人に自分を伝えようと「わたし宗教団体を開いて教祖になりたいんですよ」と本音を言っては不思議ちゃんだと思われた十代。
「わたし天皇になりたいんですよ」と言っては「世襲制ですから」の一言で会話を打ち切られてきた成人後から今まで。


『これらみんな、ここから始まってないか!?』
赤絨毯と玉乗りおじさんから!!


1度返したグレーのビニール袋をもう一度受け取った。
靴を入れた。
遠くにある、もう生きてないけど、かつて「生き神様」と呼ばれた人の銅像を見据えた。
1歩1歩、赤い絨毯の上をゆっくりと歩く。
藤色の絨毯に座る人の数は10人足らず。
誰もこちらなど見ていない。
こちら向きで、銅像の左右にひとりずつ立っている白い服の人たちにだけは、わたしが見えているはずだ。
だけど、止めに来る素振りはない。


生き神様に視線を戻した。
近付いていく。
わたしはあなたと同じ人間だ。
台座とか玉とかのせいで、目線の高さが違って、仕方なくわたしはあなたを見上げているけど、でもわたしはあなたと同じ人間だ。
気持ち的に、同じ目線でいるんだぞ。


……やっぱりちょっと、白い服のふたりが気になる。


取り押さえられたら、暴れてみようか。
「服を掴んだだけで、暴行罪なんだよ! このやろう!!」とドラマの受け売りだけど叫んでみようか。


そんな想像をしたけど、実際の、白い服の人たちは動かない。
意外に寛大だ。
見られてる気がしてたけど、立ち仕事に疲れて、ぼーっとして見てないのか?


銅像を囲う柵の、目の前までは行けなかった。


何やっているんだろう?
わたしは、他人の家に来て、勝手に振る舞っているだけではないか?


それに、生き神様、ライトアップされてて、ちょっと神々しく見えなくもないし……


いや、ここで負けてはいけない。


信者たちが、病気とか経済苦とか、いろいろと個人的な悩みや、何かしらの目的があって来ているのなら、わたしだってここで個人的な目的を果たしてもいいじゃないか。


生き神様を睨み付けた。


わたしはあなたに頭を下げない。
物心付いてない子どもや、物心付いたばかりの子どもに、信者たちの行動によって、結果的に「人間は平等じゃない」と教えてきたあなたから、やっと今日、解放される。


振り返り、銅像を背に、わたしはまた、赤絨毯の上をゆっくり踏みしめるように歩いた。
呼吸が速い。
自分が少し、震えているように感じた。
やり遂げたという気がした。


横を通るわたしを奇異の目で見る信者が数人いた。


音のない神殿を出ると、やはりそこは「こんにちは」の嵐だ。
車いすが目に入る。
楽しげな家族がいる。


わたしのやったことは、個人的なことで、みな、個人的な理由を抱えているのだ。
ただ、わたしがここに馴染まないだけなのだと思った。


早く去ろうと思ったけど、その前に夫にメールした。
「今、霊波之光にいるんだけど、お土産いる?」


「おもしろいからいる」という返信が来た。



買って帰り、別居中の夫にあげた。
昨日部屋に遊びに行ったら洗面所に置いてあって、歯ブラシが1本と、カミソリが入れてあった。


「なんだかこうして見ると、このグラス、ヤクザっぽいね」とわたしはそれを見て笑った。


追記:姉についさっき、「先日、久々に行ってきました」とメールを送ったら、「赤絨毯なんてよく覚えてるね……言われてみて思い出したかも☆私が覚えてるのは、信者のおばぁちゃんか、おじいちゃんの銀歯が金歯になった!? という写真が、お祈りの場所? に貼ってあったことくらいだよ。あの写真のおばぁちゃん、もう別世界の人になってるだろうね……(顔文字)」というメールが返ってきた。
姉のメールはいつもおもしろい。